読んだことがる人はこちらへ→『真論君家の猫』に一言もの申したい!
1 最初の主さん
始めは全てが真っ暗だった。ぼくが柔らかく暖かい空間でくつろいでいると、時々体が揺れて柔らかい物にぐにゃりとぶつかった。それを何度か繰り返していると、同じ空間に何者かがいることに気付いた。それも一つや二つではない。時を追うごとにその存在は大きくなり、ぼくを押しのけようとするので、ぼくの方でも押し返した。
そうやって誰もが押すな押すなの縄張り争いをしていると、やがて一つの存在がその空間から姿を消した。あぁ良かった、これで広くなった、と胸をなでおろすと、また一つの存在が消えた。それが何度も続いた。
ぼく以外の存在がこの世から消えると、心地良い空間を独り占めにして、この世の春を楽しんでいたのだが、目の前にひとつの光が見えた。
その光はどんどん大きくなり、頭の中までまぶしくなった。訳の分からない状況と身を包む寒さに震えていると、暖かくて柔らかいものがぼくの背中を撫でた。それは母上の舌だったが、この時はまだ目が開いていなかったので、それが何だか分からなかった。
生まれたてのぼくは「にゃあ」と鳴けずに「みー」と鳴いた。ぼくの周りでも「みーみー」と大合唱が起きていた。先に生まれた兄弟達がぼくと同じように「みーみー」鳴いていたのだ。ぼくも「みーみー」の合唱に加わった。
子猫の一秒は成猫の一時間を上回るもので、先に生まれた兄弟達はその勢いを増して最後に生まれたぼくをからかい始めた。あまりに小突かれるので、逃げるように体をひねると、体がころんと一回転した。その瞬間にぼくの目は開いた。
この時初めてぼくは兄弟達と母上を見た。母上は白い毛並みに青と灰色の縞模様を頭から被った美しい猫で、兄弟達もみな似たような物だった。なのに、ぼくは頭から爪先まで黒一色だったのには驚かされた。母上と兄弟達との共通点は手足と尻尾が長いことだけだ。
周りと違うと目をつけられる。一匹だけ黒いぼくはいつも標的された。多勢に無勢。ぼくは兄弟達のされるがままだった。
そんなぼくを不憫に思ったのか母上はきっと最初にぼくを口にくわえて移動した。それで静かな場所でおっぱいを吸わせながら言葉をかけてくれたものだ。
「クロスケ、さん1には気に入られなくてはいけませんよ。迷惑をかけてもいけません。そうすればきっと可愛がってもらえますからね」
母上はぼくのことをクロスケと呼んだ。他の兄弟達は生まれた順に長男はイチロウ、長女はニコ、二女はミツコ、次男はシロウ、三女はイツミと呼ぶ。
「母上、主さんとは何ですか?」
「時々、ここに大きいのが入ってくるでしょう?」
「はい」
「あれが人間です」
「人間を主さんと言うのですか?」
「いいえ。人間の中でも私達の世話を焼いてくれる人を主さんと言うのです」
「それでは時々入ってくる人間が主さんなのですね」
「今のところは」
「いつか変わるのですか?」
「きっとそうなるでしょう。主さんが変われば、あなたの名前も変わります。きっとクロスケ以外の名前で呼ばれるでしょう。それは受け入れてしまいなさい。クロスケという名前は新しい主さんが見つかるまでの仮の名前なのだから」
最初の主さんはあまり喋らない男で、ずいぶんやせた男だった。部屋に新しいエサや水を置くと、ダンボールを整えたり部屋の掃除をしたりして、その後に他の兄弟達をあやしていた。ぼくもそれに加えられる時もあったが、主さんから邪険にされているのを感じていたので、ぼくの方からは近寄らなかった。
部屋の隅には側面に穴を開けたダンボールがあって、たいていぼくはそこで母上と閉じこもっていた。兄弟達が外ではしゃぐ声を遠くに聞きながら、ぼくは母上の尻尾を掴んだり噛んだりしていた。
「母上は一緒に遊ばないのですか?」
「私はこうやって横になっている方がよっぽど気持ちが良いのですよ。あなたも兄さまや姉さまと一緒に遊んでらっしゃい」
「しかし、主さんはぼくが嫌いなようです」
「あらあら、クロスケは何故そんなことを言うのかしら」
「主さんだけではありません。兄さまや姉さまもぼくを嫌いなようです。母上だけがぼくに優しくしてくれます。できれば母上とずっとここにいたいです」
「クロスケにそう言ってもらえて私も嬉しい。でも、私はあなたより早く生まれたし、その分早く死んでしまうのだから、そうなれば頼みの綱は主さんなのですよ。今のうちに人間に慣れておきなさい」
「でも」
「それに主さんはいつか変わるものだから、今の主さんがあなたを嫌いでも次の主さんはあなたを大事にしてくれるかもしれません。人間も鬼じゃないからこちらから愛想を振りまけば、大事にしてくれるものですよ。さあ、そうしてもらえるように練習してらっしゃい」
「母上の前の主さんはどんな人でしたか」
「私の主さんは生まれた時からあの方です」
「それならぼくの主さんもあの人のままでしょう?」
「どちらにせよ、いつかはあなただけで主さんと向き合わなければならない日が来ます。ここを出て、外で学んでらっしゃい」
「母上、愛想を振りまくと一口に言いますが、どうすれば良いですか」
「あなたの兄さまや姉さまを見て学びなさい」
「嫌です。ぼくはみんなが嫌いです。みんなもぼくが嫌いです。教わるなら母上からでなければ、ここを動きません」
「仕方のない子だこと。それじゃあ私が愛想を振りまくのを見たら、あなたも同じようにするのですよ」
「はい、母上」
母上は立ち上がると、ひょいと飛んでダンボールの上から飛び出した。ぼくも横の穴から這い出した。兄弟達が「母上だ!」と声を上げて近寄っていたが、母上はそれを無視して主さんの足元へ歩いていった。
母上はしっぽを真上に向けながら「あら、主さん」と高い声を出すと、主さんの足におでこを擦り付けた。人間は猫語を解さないのだから声をかけても甲斐がないとぼくは思っていたが、母上は主さんの前を一度通り過ぎて「私を抱いてくださる?」とまた高い声を出すと、今度は胴体を擦り付けて主さんを見上げた。
すると、主さんは母上を胸に抱いて、頭を撫でた。
「クロスケ、見ていましたね。あなたもやってごらんなさい」
ぼくはしっぽを立てて「あら、主さん」と高い声を出した。それから少々恐ろしかったがおでこを主さんの足へ擦り付けた。一度主さんの体の脇を通り抜けて「私を抱いてくださる?」とまた高い声を出して、今度は胴体を擦り付けた。主さんの顔を見上げると、向こうもこちらを見返していたが、何を考えているのか分からない無表情な顔をしていたので、尻尾が震えた。
「クロスケ、怯えてはいけません。こちらが怯えると相手も怯えて近寄れなくなるものですよ」
「はい、母上」
「それではもう一度。勇気を出しなさい」
ぼくは心の中で主さんの心を溶かすことを考えながら、しっぽを真上に立てて「主さん」と声をかけた。それからおでこを擦り付けると「撫でてくれますか?」と声をかけて、胴体を擦り付けた。
母上は主さんの腕からひょいと飛び降りて、ぼくに振り返った。
「どうでしたか、母上」
そう言っている途中で、ぼくは主さんに抱き上げられて頭を撫でられた。それはほんの短い出来事だったけれど、愛想を振りまけば多少は可愛がってくれるのだと分かった。ただこの主さんには溶かしきれない心の固さもぼくは感じていた。主さんは二、三度頭を撫でると思い出したようにぼくを床に戻した。
2 部屋の外には何がある?
寝る子は育つという言葉通りにぼくと兄弟達は何日も寝て過ごしているだけで体が大きくなった。歯が生えると母上はおっぱいを吸わせてくれなくなったので、ぼく達は主さんが持ってくるエサを食べるようになった。そうやって食って寝てを繰り返していると、ぼくを含め兄弟達はみんな足がしっかりしてきた。今まで「みーみー」と鳴いていたのが「みゃあ、みゃあ」と鳴けるようにもなった。
ぼくは自分の姿を鏡で見た。いつかは白い毛が生えて、背中が青と灰色の縞模様になるものだと思っていたが、変わったのは足と尻尾の長さだけで、あとは全身真っ黒のままだ。おまけにヒゲまで黒いことにも気付いた。目だけはみんなと同じ金色をしていた。
ある日ぼくはダンボール箱の中で母上に訊いた。
「母上、何故ぼくを真っ黒に生んだのですか」
「クロスケ、私はあなたを真っ黒に生んでいません。あなたが真っ黒に生まれてきたのです」
「ぼくは真っ黒になりたくて生まれてきたわけではありません。母上と同じ毛色になりたい」
「あなたは私達と同じように長い足や尻尾に恵まれたではありませんか」
「しかし、毛色は同じではありません」
「何の因果かは分かりませんが、あなたは黒猫に生まれてきたのだから、黒猫として生きていくしか道はないのですよ」
「いつかこの毛が生え変わることはありませんか」
「いいえ、私も、あなたの兄さまも、姉さまも。生まれもった毛は死ぬまで変えられません」
「何故ぼくだけがこんな目に遭うのですか。イチロウ兄さまでもニコ姉さまでも良かったではありませんか」
「クロスケ、いくら嘆いても毛の色は変えられませんよ。それよりも猫としての道を全うしなさい。たとえ毛色は違っても猫は猫なのですから」
「しかし」
「毛の色が違ってもあなたは私の子ですよ。黒い毛色だからといって、私があなたにひどいことをしたことがありましたか」
「いいえ、ありません」
それどころか母上は他の兄弟達より優しくしてくれた。
「母上! 母上!」
他の兄弟達がダンボールに入ってきて、ダンボール箱は猫でいっぱいになった。みんなで体を寄せ合っていると、体が暖かくなって気持ち良くなった。ぼくはいつの間にか眠ってしまった。
ぼく達の住む場所は十畳ほどの部屋で、この十畳四方の空間が世界の全てだと思い込んでいた。しかしある日、ぼくは主さんが部屋のドアを開けた時に、こことは別の部屋があるのを見てしまった。
それに気付くと今まで縦横無尽に駆けていた場所がひどく狭い場所に感じられた。これはぼくだけではなく兄弟達もそうだった。ぼく達は部屋の外に何があるのか色んなことを話し合ったが、結局は確かめようのない事なので、その不思議が尽きることはなかった。
ある日ぼくはダンボール箱の中で母上に訊いた。
「母上、外の世界には何があるのですか」
「さあ、何があるのか」
「もったいぶらずに教えてください」
「教えてあげたいのは山々だけれど本当に知らないから」
「母上にも分からないことがあるのですか?」
「クロスケ、あなたは外の世界を見てらっしゃい」
「母上も一緒に行きましょう」
「私はここで一生を過ごすことになるでしょう」
「それならぼくもここで一生を過ごします」
「いいえ、あなたはきっとここから出て行きます」
「そんなことはありません。きっと母上から離れません」
ぼくがそう言うと母上は耳の後ろをなめてくれた。それがどういう意味かは分からなかったけれど、ぼくは寂しい気持ちになった。
3 丸が浮かぶ四角い世界
ダンボールにはえもいわれぬ魅力がある。人も極まればダンボールに住むという話を後に聞いた。ダンボールをギョウザに混ぜて食うこともあれば、棺桶までダンボールの世話になることもあるらしい。猫族の頂点に君臨する虎でさえダンボールに身を収めるらしいので、これはこの世に生きとし生ける者の本能かもしれない。
そんなわけで兄弟達は隙あらばダンボール箱の中に入ろうとした。寝る時ならともかく目が覚めている時は縄張り意識も目覚めているのでケンカが起きた。
体が小さい時は一秒の価値が重く、先に生まれた者が勝つ世界だったが、体が大きくなると経験が物を言うようになった。一匹だけ黒猫に生まれたぼくは兄弟達に目の敵にされることによって、自然と戦いの経験を積むことになったので、今では長男のイチロウですら敵ではなくなった。ぼくはダンボール箱の主となり、他の者(母上は除く)が入ってこようものなら、全身の毛を立てて相手を威嚇した。向こうでもこちらの強さが分かっているので、一匹だけではあえて入ろうとしなかった。
「クロスケ、入ってもいいですか」
ぼくがダンボールでこの世の春を味わっていると母上が顔を覗かせた。
「どうぞ、母上」
ぼくは立ち上がって母上に一番良い場所をゆずった。
「クロスケ、最近は兄さまや姉さまとずいぶん仲が悪いようですね。さっきシロウが入ろうとした時に毛を立てていたのを見ましたよ」
「もともと仲が悪いのです。向こうがちょっかいを出さなければ、ぼくは何もしません。シロウ兄さまは特にひどい」
「クロスケ、こんな狭いダンボール箱をあなたの居場所にしてはいけません。ここは新しい主さんが見つかるまでの仮の宿で、いつかは捨て去る場所なのだから」
「何故ぼくにそんなことを言うのですか。兄さまにも言ってください」
母上はため息をつくと、前足にアゴを乗せて目をつぶってしまわれた。閉じたまぶたに疲れがにじんでいたので、ぼくは眠りを妨げないようにそっとダンボールを出た。すると、シロウ兄さまが入れ替わりに入ろうとしたので、それを止めた。
「何をする、クロスケ」
「母上が寝ておられます」
「お前はさっきまで母上と一緒にいただろう。俺が入って何故悪いのだ」
「それでも悪いのです」
「分からない奴だな。生意気だぞ」
シロウ兄さまが爪を出した前足を突き出してきた。ぼくはとっさに身を引くと同時にシロウ兄さまの顔を打ち、横に飛んだ。
「お前、よくも俺の顔を打ったな!」
「兄さまが悪いのです。先に足を出したのはそちらですよ」
「何だ、何だ?」とイチロウ兄さまがやって来た。
「シロウ兄さまがぼくを打とうとしたのです」
「嘘をつくな。クロスケの奴がいきなり俺を打ったのです」
「お前ら、いい加減にしろ。母上が寝ておられるのに、そばで暴れる奴があるか」
ぼく達はダンボールの中に目を向けた。母上は前足にアゴを乗せて静かに眠っておられた。
「やるならどこか別のところでやれ」とイチロウ兄さまが言う途中で、シロウ兄さまの前足がぼくの顔を打った。
「これでおあいこだぞ」後ろに飛び退いたシロウ兄さまは言った。
「違います」
ぼくがシロウ兄さまに向かおうとすると、イチロウ兄さまがぼくの背中に手を置いた。
「そこまでだ、クロスケ」
「何故止めるのです。足を出したのはあちらですよ」
「しかし、シロウはお前が先に打ったと言った。嘘とは思えん」
「先に足を出したのは兄さまで、私はそれを避けて兄さまを打ったのです」
「それではやはりお前が先に足を出したのではないか」
「悪いのはシロウ兄さまです」
シロウ兄さまは我関せずの態度で前足をなめていた。その様子に腹が立ってぼくはシロウ兄さまに飛びかかった。
「あっ、お前! いい加減にしろ!」
後ろからイチロウ兄さまが首を噛んでぼくを止めようとする。シロウ兄さまは下から爪を立てようとする。さらに横合いから「何々? またケンカ?」とニコ姉さまとサンコ姉さまが近付いてきた。
足は四本、尻尾は一本、体毛は数え切れないほど生えている。その全てを総動員すれば、たとえ兄弟四匹に囲まれても心を乱すことはなかった。ぼくは床を転げながら、兄弟四匹の攻撃を受け流していると、後ろに新手の存在を感じて、ぼくはとっさに爪を動かした。そこには兄弟の中で一番麗しいイツミ姉さまがいて、美しい前足にぼくの爪が刺さった。イツミ姉さまはぼくをいじめることはないし、耳の後ろをなめてくれることもあった。しまったと思ったが、回転する体は止められず、ぼくは姉さまの前足をそのまま切り裂いてしまった。
「みぃゃゃゃぁぁぁあああああああ!」
今まで聞いたことのない大きな声で姉さまは鳴いた。その声に驚いて、みんな動きを止めた。イツミ姉さまの前足から血が吹き出して、白い前足が見る見る赤く染まった。
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