お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸を垂らして大泥棒カンダタを救おうとするお話。小学校の教科書にも載っているので読んだことがある人は多いはず。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿って極楽へ行こうとするが蜘蛛の糸は途中で切れてしまう。切れたのは地獄の亡者たちが糸を登ろうとしたのを見たカンダタが、この糸は俺のものだと叫んで切れたことになっている。
 
 しかしこの蜘蛛の糸は極楽から地獄まで何万里(里:日本では約4km、中国の里でも500m)の距離も垂れていて、しかも地獄においても体は疲れるみたいなので、どう考えてもカンダタがこの蜘蛛の糸を上って地獄から抜けるのは不可能だということが伺える。それではお釈迦様は何を思って蜘蛛の糸を垂らしたのだろう。地獄の亡者をからかうためか。なぜワイヤーやハシゴにしなかったのだろう。いや、極楽から地獄までは何千里もあるのだからエレベーターか、せめて階段にしなければカンダタが登りきることは不可能だ。

 一般的な解釈ではカンダタが自分だけが助かろうとしたので蜘蛛の糸が切れたということになっている。私は蜘蛛の糸を読み直して、カンダタが極楽へ登れなかったのは『自分だけが助かろう』としたからではなく『自分で助かろう』としたからではないかと思った。

 カンダタは罪人である。地獄へ落ちたのはそれなりの罪を犯したからである。それなのに地獄から抜け出そうとするのは罪人自身が「俺の罪は許された」と言い張るようなもので、とんでもないことである。罪は自分で許すものではなく誰かに許されるものではないか。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿れば極楽へ行けると思い込んでいた。お釈迦様は登ってこいとも何とも言っていない。ただ蜘蛛の糸を垂らしただけだ。私は糸を掴むだけで良かったのではないかと思っている。極楽と地獄の距離は何万里もあるので仮に糸が切れなかったとしても途中でカンダタは力尽きてしまう運命にある。事実彼はもう一たぐりも登れなくなったので、一休みしている最中に下から登ってくる亡者達を見たのだ。

 謝ったのに許してくれなかったと怒る人がいる。許さない相手もちょっと強情にすぎると思うこともあるけれど、もし仮に謝れば許してもらえるだろうという相手の心根が透けて見えた時、相手を許すことはできるだろうか。謝ったから俺を許せとは傲慢なやり方ではないか。むしろ怒りに火を注ぎそうな気もする。「お前、謝ればいいと思っているんだろう!」と。

 カンダタは糸を登れば極楽へ行けると思い込んでいたが、それは謝れば許してもらえるという性根と同じではないだろうか。許されるかどうかを自分で決めることはできない。謝ったからこれでいいや、とはならないのだ。

 謝れば許されると思い込むのは、許す許さぬの権利を相手に渡さずに自分で握っていることと同じで、相手は許す権利がないので許すことはできない。本当に謝るのなら自分の運命を一度相手に預ける勇気を持たなければならない。

 そういう風に考えていくとカンダタは自力で極楽へ登ろうとせず、ただ糸を掴み蜘蛛に自分の運命を委ねていれば良かったのではないだろうか。たとえ地獄の亡者が地獄から抜け出そうとカンダタより先に蜘蛛の糸を登っていったとしても、彼らはいつか力尽きて地獄に落ちてくる運命にある。何度か再挑戦する亡者もいるだろうがいつかは彼らもこれは地獄の新しい拷問ではないかと疑い始めるに違いない。こうして亡者達が救われることを諦め地獄に静寂が降りた時、ようやく蜘蛛は糸を巻き始め、糸を掴み続けたカンダタを極楽へ引き上げたのではないだろうか。
 
 カンダタは何をすれば良かったのかではなく、何もしなくて良かった。むしろ何もしてはいけなかったのだ、彼が救われるまで。ここで大事なのは蜘蛛の糸を掴み続けていることで、もしカンダタが蜘蛛の糸から手を離していたら、やっぱり彼は極楽へ行けなかっただろう。蜘蛛の糸は誰も連れず静かに巻き上げられたはずだ。何だかおかしな話だが今はそんな気がしている。

(2017/04/02 牛野小雪 記)


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