ニックがパパと一緒に川を渡ってインディアンの村へ行くとそこには子どもを産もうとしているインディアンの女性がいる。パパはその子を取り上げるのだが、子供の父親は喉を掻ききって死んでいるというお話。
 何故死んだのかという疑問の前に、最初から夫は死んでいたのではないか私は考えてみた。
 少し読み返してみると、最初の方に夫がごろっと寝返りを打ったと書かれている。この時まで夫は生きていたのだ。しかし次に出てくる時は死んでいる。
 ジョージ叔父と三人のインディアンが女を押さえつけている時は上の寝棚でごろっと転がっていたようだ。たぶんこの時には死んでいたのではないか。
 これは象徴的な意味でも現実的な意味でもそうで、出産の場で男にできることは何もない。何なら母親でさえやれることはないのではないかぐらい思っていて、出産は赤ちゃんが自分の力で出てくるものだと想像している。(産むのが楽だとは言わない)
 その証拠に赤ちゃんは産もうとしても産めないし、産まれる時は勝手に産まれてくる。今ちょっと産まれるのはまずいから一ヶ月後まで待ってくれとはできない。赤ちゃんにだって意思はある。力もある。赤ちゃんが産まれようとしない限り、彼(ちなみにこの小説で生まれてくるのは男の子だ)は産まれてこない。 
 そういえばこの短編はインディアンの女が子どもを産めないから(あるいは産まれてこないから)手術しにきたという話だ。彼はまだこの世に生まれたくなかったか、あるいは生まれる力がなかったのだろう。
 出産の場で男は役に立たないから死んだというのなら、何故上と同じ理由で母親は死ななかったのだろう。
 いや、実は母親も死んでいたのでないだろうか。
 まず一つ目に女は出産できずに苦しんでいた。もしニックの父親が来なければこのまま出産の苦しみで死んでいたかもしれない。
 二つ目に帝王切開で子どもを取り上げた時に女が死んでいた可能性はかなり高かった。父が術後に自慢する程度には危ないところを通り抜けている。
 分娩時に母親は助産師(あるいは医者)や出産経験のある女性、色んな人に囲まれているが、基本的に父親の方はその場にいるだけで何もできないし、誰も気にかけてくれない。映画やドラマなら「こんな時、男はなにもできない。じっと待つことだ」なんて言って人生経験豊富な男が肩を叩いてきたりするが現実ではそれもないだろう。それならいっそ出産の場に父親が立ち会わないというのは古代の知恵かもしれない。
 そう考えてみると、子どもが産まれてこなくて苦しんでいる母親の上でごろっと寝棚に転がっている父親の姿がとても不自然に思えてくる。時代的に父親が出産に立ち会わないのが当然の時代だ。なぜ彼は出産が行われる小屋にいたのだろう。
 立会い出産という概念はそう古いものではないはずだ。子どもの頃にめざましテレビか何かの芸能ニュースでハリウッドセレブが立会い出産したというニュースを見て、変わったことをする人という印象を受けた記憶がある。それが日本の芸能人にも広がって、いつの間にか普通の人も立ち会い出産するようになった感じがある。
 現在のアメリカでは立会い出産が当然という風潮があるらしい。父親がへその緒を切ることもあるそうだ。しかし、それを持って日本の男性は昔の風習に縛られているというのも短絡にすぎる。むしろアメリカには父親を出産の場に立ち会わせる何らかの風習、あるいは仕組みがあると考える方が自然ではないだろうか。そこまで考えずただ欧米に対するあこがれで、父親を出産の場に立ち会わせれば何らかの弊害が生まれてしまうだろう。
 そのアメリカにしても昔は立ち会い出産をしていなかったはずだ。小説の話だがスタインベックの『怒りの葡萄』で出産の場から男達が締め出されるシーンがある。
 そうなってくると医師のパパはともかくニックや若い三人のインディアンが出産の場にいることも不思議に思えてくる。なぜ彼らは死ななかったのだろう? 彼らと喉を掻ききって死んだ父親の違いは? そこに生と死を分ける何かがあるのではないか?

(2017/06/07 牛野小雪 記)

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