群像の結果が出るのは来年なので、結果がどうであれ来年に小説を出せるようにしようと考えている。『幽霊になった私』ぐらいの長さを一年ぐらいかけて書くつもりなのでテーマもそれに見合う物にしようとしていて、現代の日本に突如出現した武士道を書こうとしていたが、ますらおぶり、たおやめぶり、という日本古来の言葉を知って、こっちの方が広がりがありそうだと方向転換したが、その二つを追っていると自然と大和魂(あるいは大和心)に行き当たった。 

 大和魂についての本を読むとよく明治天皇の句が引用されているので、まずはここに記しておく。


如何ならむ事に逢ひても撓まぬは我がしきしまの大和魂
(訳:どんなことがあってもワイの大和魂は折れへんのや!)
鉄の的射し人も有るものを貫き通せ大和魂
(訳:鉄の的でも射てまう人がおるから大和魂もいけるやろ!)
山を抜く人の力もしきしまの大和心ぞ基なるへ

(訳:山を抜いてまう人も大和心があるからできるんちゃうかな)


 どの句も三三七拍子で太鼓の音が聞こえてきそうだ。いかにも『大和魂』と聞いた時に浮かべる勇壮で、力がこもった印象を受ける。

 しかし明治から少し遡って幕末の吉田松陰だと弱くなっている。


身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置きまし大和魂
(訳:ワイは死んでも大和魂は不滅や、武蔵の野辺に残ったるで)
かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂
(訳:あかんと分かっとるんやけど止められんのが大和魂なんや)



 明治天皇の句と比べると負けることが前提で詠まれている。でも目標に対して一直線に突き進んでやろうという気概もある。

 さらにもうちょっと遡って本居宣長ぐらいになるとさらに弱くなる。


しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
(訳:大和心っていうんはな、朝日の中で香る山桜みたいなもんかな)


 ここまで来ると太鼓の音は消えて、スズメの鳴き声が聞こえてきそうだ。でも、すうっと息を吸えば肺の中が冷たくなるような清清しさがある。幕末からの大和魂にもそういうところはあるにはあるが、どこか鉄っぽいというか血なまぐさい清浄さで息の詰まる感じがする。実際、吉田松陰は身はたとひ~の後で息絶えるわけだし。

 と、ここまで大和魂、大和心の句を紹介してきたのだが、実はもうこれで終わりなのである。他にもあるかもしれないが、私の目と手の届く範囲にはこれぐらいしかなかった。大和魂というと古来からあるような概念っぽいが実は武士道より歴史は浅いのかもしれない。そう思っていたがwikipediaによると大和魂の初出は『源氏物語』だそうだ。どの帖に出るかも書いてあったが読む気がしないので、そのままにしている。
 ちなみに本居宣長は今でいう国語の先生で『源氏物語』の講義もしていたから、平安から江戸まで大和魂の空白期間があって、そこから本居宣長→吉田松陰→明治天皇の流れがあるのかもしれない。

 源氏物語は開かなかったが、その代わりに大和魂の『大和』に関する句なり歌を調べみると万葉集にいくつかあった。万葉集とは『源氏物語』よりも前に編纂された和歌集なので大和魂は出てこない。


大和には群れ山あれどとりよろぶ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は
(訳:大和には色んな山があるんやけどな。一番高い香具山に登ったら、広い平野にかまどの煙がいっぱいあってな、広い水面にはかもめがいっぱい飛んどってな、ホンマにええ国って思ったんよ by舒明天皇)

 何だか明るい感じがする。大和ってええやん的な。ちなみに大和とは大和政権があった奈良県が由来だが(諸説あり)、日本の国全体を指している。上の句で出てくるしきしまも奈良県にある場所だが、同じ使われ方だろう。

 万葉集の大和は明るくてほっこりする。次の句を見てみよう。


天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(訳:辺境の田舎の長い道を恋しくして来たら明石の門から大和島が見えたわ)


 遠くに行った人が遠いところから帰ってきて、明石の門から大和を見た喜びが詠われている。

 有名どころだとこういう物がある。反歌なので前の句も書いておく。ちなみに瑞穂も日本のことだとか。


葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
訳:瑞穂の国は神様がおるけん何もいわんでもええんやけど、ワイはいうてしまうわ、お幸せに。なんぼでもいうわ、お幸せに・・・・お幸せに・・・・・お幸せに・・・・・・

磯城島の大和の国は言霊の助ける国ぞま幸くありこそ
(訳:大和の国は言霊の助ける国や。それでええんや、あんがと。ええことあるとええな)


 万葉集の大和は英語で言うhappyと紐付いている印象がある。そこに心や魂が付くと悲壮な感じがする。

 大和魂とは剛健でありながら、血生臭く、意気軒昂としていたと思えば、早朝の空気が綺麗な時でしか感じられない曖昧な物であり、心や魂が抜けるとハッピーになるらしい。何だかよく分からなくなったところで、また明治に戻ってきた。夏目漱石の『吾輩は猫である』で苦沙弥先生が披露した短文でこういう物がある。

大和魂! と叫んで日本人が肺病病みのような咳をした
大和魂! と新聞屋がいう。
大和魂! とすりが言う。
大和魂が一躍して海を渡った。
英国で大和魂の演説をする。
独逸で大和魂の芝居をする
東郷大将が大和魂を有っている。
肴屋の銀さんも大和魂を有っている。
詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。
五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。
魂であるから常にふらふらとしている
誰も口にせぬ者はいないが、誰も見たものはない。
誰も聞いた事はあるが、誰も遭った者がない。
大和魂はそれ天狗の類か

(訳:大和魂ってよう分からん)


 大和魂とは、大和心とは。苦沙弥先生に分からないなら牛野小雪においてや。もうよそう。これっきり御免こうむる。大和魂は自然の力に任せて追い求めないことにした。

 本居宣長が日本文学の本質だと言っていたことだし、今は『もののあはれ』を追っている。まだ南無阿弥陀仏はしないつもりだ。

(2018年8月31日 牛野小雪 記)
なむあみだぶつ


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