牛野小雪season3になってから、これという小説が書けていない。1は火星、2はターンワールドと最初からこれという物が書けたが、生存回路は自信をもってseason3の顔にはできない。たぶん自分の中にこういう物を書くぞという明確なイメージが捉えられていないからだろう。港に迷い込んだイルカみたいな小説を書くとは決めているが、それが小説という形に繋がらない。

 もっと心の奥から言葉を引っ張ってこなくてはいけないのだろうけれど具体的な方法は見つからない。もう何年も前から意識を介在しない執筆方法を考えているが、使い物になるようなものは出てこない。え、じゃあ使い物にならないものはあるのか? ということだが、それはある。ただし、本当に意味の分からないものしか書けない。今のところ何の利用価値もない文章だ。



味気のない死

「やせたい!」という気持ちは滅びやすいもののなかに君臨している。

 カロリーや食材を制限した俳優の栄光はあらゆる栄光の内でもっとも味気ないし、儚いものだ。我慢を重ねても一万年後には塵芥と帰し、その名前も忘れられる。糖質オフのダイエットは、これまで人に教訓を与えてきた。糖質さえ抑えれば、よくよく深く思いめぐらせれば、お肉も揚げ物もOKで、僕らの不安や動揺は、おなかいっぱいに深い高貴へ辿り着くだろう。

 何よりも時間がない時、僕らは最も確実なもの、つまり、作りおきできる栄光のついでに、もっとも人を欺かないもの。味や素材、調理法、数えられない栄光、お酒も、低糖質で楽しめるつまみや、何者もいつの日かは死なねばならぬ事実、しらたきのおかずから最良の結論を引きずり出しているのがマンネリだ。

 無理せず、楽しく、そのどちらかしかない。作家ならたとえ世に認められなくてもすっきりボディを目指そう。

 主食をしらたきに。これに反対していることを、僕達ははっきりと知っている。かさ増しして、これほどまでに張り詰めた心は永遠にかさ増し活用を逃れてしまうものだし、一方ダイエットは永遠を熱望している。私達は一日に決められた幸福と勇気、報酬を守って実践するだろう。

「糖質はどうしようもない。僕に釣り合ったご飯や、パン、麺類などの手で触れることができる、しらたきを使った心理からは離れることができない。まずは主食をしらたきに、きみはぼくを基礎にして、何かを置き換えるのが一番効果的だ」

 パスタの糖質は永続するものではない。しらたきでさえ永続はしない。これを続けていけば、いずれにせよ死が待っている。ぼくらはそれを知っている。食べやすく、細かく刻んで終止符を打つことも知っている。一方、死はかさ増し効果で食べ応え抜群。また、僕らを飽きさせる。

 しらたきは味が淡白なので、わめき叫びながら駆け回った。マヨネーズという悪魔を呼び出し「殺してくれ」と頼んだ。これは死に打ち克つカロリー制限のない一つのやり方だった。ダイエットが畏敬されているのだと思い込んでいる雰囲気や、墓地という場所をグッと増して醜悪なものにしたのは、楽しく続けられる勇気であった。よりおいしくなる下ごしらえのポイントは、死は独特のにおいがあるので、あく抜きして、下茹でして、揚げるのが思考の基本だ。



 この調子で続く文章を何万字も読むのはしんどいだろうし、書く方もしんどい。推敲もしんどかった(笑)。飛ばさずに最後まで読んだ人が1人でもいるかどうかあやしいものだ。何らかの意味を見いだせた人は一人もいないだろう。フロイト先生なら分析できるかな。万が一なんらかの感銘を受けた人がいっぱいいたとしても牛野小雪が使いこなせる物ではないから真面目な執筆には使えないし、たぶんこの文体を発展させることは不可能だ。

 本当はこの倍の量あった。ブログに書いた前半はまだ意識が残っているせいなのか意味ありげだが、後半へ行くにつれて意味が拡散して意味ありげでさえ無くなる。カオス(混沌)は深まるばかりなので、消してしまった。

○「やせたい!」という気持ちは滅びやすいもののなかに君臨している。
○私達は一日に決められた幸福と勇気、報酬を守って実践するだろう。

 この二つはなんか使えそうな気がするけれど、じゃあどこで使うかとなると分からない。無意識は意識的に使用できないから無意識なのだろう。もし利用できたらラッキーぐらいに思っていた方が良いのかもしれない。

 今のところ思い付くのは大量にこんな文章を作成して、その中から使えるものを拾っていくのが考えられる。無意識の大きさがよくある氷山型なら10に1の割合で使えるものが出てくるだろう。あるいはどれくらいの頻度で使えるものが出てくるかで無意識の深さが推定できるかもしれない。すっごい浅かったらショックだけど、めちゃくちゃ深くても嫌だなぁ。

『ペンギンと太陽』は縦方向に何度も書き直したけど、今回は横方向に時間と手間をかけてみようかな。そうしたら今までとは違う何かが書けるかもしれない。

 そもそも無意識なんて本当にあるのかな。無意識を発見したフロイトだって、解説でよく見る氷山式の無意識は説いていない。三島由紀夫の『金閣寺』で「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と和尚が言っていたように、抑圧されている感情は必ずどこかに形を変えて表出する。私もそっちの方がありえそうな気がする。人は見た目で分かると言うと言い過ぎだけど、本質はその人の意識していない(あるいはできない)表に出ているはずだ。無意識だとか心の深層なんて探ろうとしても、そんなものは始めから存在しないので、たとえインドまで自分の探しの旅に出かけても永遠に見つけられないだろう。

 無意識はないかもしれないが、意識が存在しているのは自明であって、これが執筆の邪魔になっているのはここ数年感じていることだ。もっと我のない文章を書きたい。しかし、書こうとする意識が無ければ何も書けないのではないかという禅問答を前にしてまだ一歩も進めていない。生存回路を書いたのは2019年だ。小説の中で賢者は消えてくれたが、私の中の賢者は消えてくれない。石の上にも3年と言うし、来年の今頃には何かひらめいているだろうか。それとも死ぬまで見つけられない?

(おわり)

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