愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

『老人と海』は何度も読んだ本だけど、今回は100回連続で読んでみようと思う。一つの作品を読み込めば自分の小説に活かせるかもしれないという意図もある。ついでに言えば150ページぐらいなので繰り返し読むのにちょうど良いサイズだ。その気になれば一日で読めるし、場合によっては日に二度、三度と読める。

 

1回目

 

老人が海へ漕ぎ出してカジキマグロと四日間にわたる格闘の末に釣り上げるが、帰る途中でサメに襲われてカジキマグロは骨だけになってしまう。老人サンチャゴは84日も魚が釣れなくて、作中でもまったくの徒労で終わってしまうのだが、最後に老人は小屋でうつ伏せになりライオンの夢を見ているところで終わる。この場面がなければヘミングウェイは削ぎ落とした文体を生み出した作家、ロストジェネレーションの一作家という評価で終わっていただろう。死後に著作が読まれることはなく、時々文学オタクに掘り起こされて、なんでこれが評価されないんだと憤るような作家だったに違いない。スティーヴン・クレインみたいな。

ライオンの夢には何をやっても困難に遭っても心が負けなければ負けではない、みたいなカッコ良さがある。サメを殺した後の「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」という台詞にもそういう哲学がある。負けてたまるか、戦ってやるぞ、という気概が絶望を退けるんだろう。それはしんどい生き方だし、ヘミングウェイも途中で疲れたのか頭をショットガンで吹き飛ばしちゃうわけだけど、たとえ彼が暗い気持ちで死んだとしても、老人と海は孤独と絶望に襲われても負けはしないタフな人間の姿を書いていることに変わりはない。

浪漫主義っぽいけど、あまりにみんなが自然主義に傾くと世の中が腐っていきそうだし、老人がカジキマグロを追うように、希望を追わなきゃ生きていけないんじゃないかな。蟹工船より老人と海だよ。

 

2回目

 

二回目はあやふやな語句を調べながら読んでみた。読んでいる時間より調べている時間が長かった。

 

3回目

 

投網でびっしり鰯が取れると少年が言っているところがあったので、ディマジオが活躍している頃の鰯の生息数を調べてみたが、見つからなかった。その代わりに鰯というのは100年、2、30年単位で豊漁不漁の時期がある魚だと分かった。この港の鰯は豊漁の時期だったのだろう。

 p.23に“二人は燈火なしで”という文言を見て、最初の場面は夜から始まるのだと分かった。中米の太陽で白く灼かられた漁村の風景ではない。それでまた最初から読み返してみると、老人が漁から帰ってきたところから始まり、少年にビールをおごると言われて(どんな世界だ)、テラス軒という酒場か定職屋かよく分からない店へ行っている。老人と海には語られていない84日の不漁があり、物語に書かれていることは、ほんの薄っぺらい部分でしかない。たとえるなら老人の人生という海に84日の不漁という氷山が浮かんでいて、海から出たわずかな部分が小説なのだ。

 老人は84日の不漁の間もライオンの夢を見ていたに違いない。

 

4回目

 

 小説内ではサンチャゴは84日の不漁を経験しているところから始まるけれど、その前には87日の不漁があって、その後3週間は大きな獲物を毎日取れたらしい(p.6)。だからそれほど絶望感がないのかな。しかし87日間の不漁の時はどうしていたのだろう。「あの子がいたらなぁ」と何度もつぶやいているから、彼が心の支えになったのかな。

 老人が心の中で前に1000ポンドの魚を2度釣ったことがあると言っていたが、グーグルで調べてみると約453kg。日本テレビで毎年年末にやっている大間のマグロの番組を見ていると、100kgのマグロでも船に上げるのは大変そうだから1000ポンドなら超大変だ(ちなみにサンチャゴが取ったカジキは大きすぎるので船に横付けにした)。

 

5回目

 

 サンチャゴがカジキと引き合っている時に飛行機が空を飛んでいて驚いた。でも、作中ではディマジオがどうとか言っているので老人と海は第二次世界大戦の頃の話で、その頃なら飛行機はもちろん潜水艦まである。いわゆる古典と呼ばれる本を読んでいて電話や飛行機が出てくると、おっ、驚くが、歴史的にいえば小説は近代のもので当然当時からマシンガンがあるし、コンピューターもあるし、ミサイルだって飛んでいる。歴史的観点でみれば100年なんて誤差だ。現代に生きる人間にとって令和と昭和は全然違うものだが、文禄時代と元禄時代は二つ一緒に昔のことで一括りにされているようなものだ。ちなみに文禄時代は豊臣秀吉が天下を治めていたが、元禄時代には徳川幕府になっている。理屈で考えれば当時を生きる人にとって大変革だが、今を生きる人間からすればやっぱり昔のことだ。足利尊氏ぐらいまで遡らないと大昔にはならない。あと100年もすれば、2020年にはもう飛行機が飛んでいて驚いた。なんて未来人に言われているだろう。
 小説で潜水艦の描写を見ないのは身近に潜水艦がないからだろうな。潜水艦が足元を通り過ぎるのはクジラが船の下を通り過ぎるようなものだろうか。といってもクジラが船の下を通り過ぎるのかがどんなものかも私には分からない。クジラも身近ではない。

 老人と海における飛行機の描写はたった二行しかない。それが引っかかった理由は、永劫回帰だ。ここ数日、サンチャゴは突然キューバの港に出現して85日目の不漁を背負って海に漕ぎ出し、二日間カジキと引き合い、サメと格闘することを繰り返している。もう一度読んでいる時にサンチャゴは一昨日も同じことがあったぞ、と思い返すことはない。最後にライオンの夢を見れば、一切の記憶は忘却され再びキューバの港に85日目の不漁を背負って出現する。彼はこの後、ボートより大きなカジキをつかまえて、サメと格闘するなんて露にも思っていない。そんなことを考えていると、これは永劫回帰そのものではないかと気付いた。そこではどんな瞬間も無限の厚みを持ち、何一つ逃されることがない。たった二行の、海から外れた空を飛ぶ飛行機のことでさえもだ。なるほどこれが永劫回帰か、と肌で分かったような気がしたが、やっぱり永劫回帰は直感的にありえない気がする。有限の宇宙と無限の時間があればいつかはまた同じ原子が揃うので、私達の人生、そして宇宙が寸分たがわずに繰り返される、というのが永劫回帰の前提だが、私の肌感覚では宇宙は無限っぽいし時間は有限だ。そうでなければTime is Money、時は金なりなんてことわざは生まれない。だが、それはそれとして永劫回帰の思想はロマンチックだ。たとえば今日のような10月の初秋の気持ちのいい朝を1000回繰り返しているとと想像すると肌が泡立つような感じがする。でもさらに、たとえばタンスの角に小指をぶつけて悶絶している時に、これも1000回繰り返していると想像したら、きっと一回で勘弁してくれと思うだろう。やっぱり永劫回帰なんてあって欲しくない。ニーチェだって発狂した。彼だって永劫回帰から解脱したいと思っていたに違いない。

 

※メモ:もし時間が有限とするならば、時の終末以後に時間のない無限の宇宙が誕生するが、それがどんなものなのかは想像がつかない。と考えるのは有限の時間を生きる人間の発想であって、やっぱり時間は無限なのかな。

 

※メモ2: かつて地上は4匹の象の背中に乗っていて、その像達の下には亀がいた。その亀の下にはまた別の亀がいて、その亀もまた別の亀がいて、亀は無限に支え合っている、どこまでも、どこまでも永遠に・・・・・と考えられていた。宇宙の外側には何もない空間がどこまでも、どこまでも永遠に・・・・に広がっていると私は想像しているのだが、実は宇宙も4次元的平面ではなく球体であり、宇宙の端は反対側の宇宙に繋がっているのかもしれない。4次元的球体なんて意味が分からないけれど・・・・。

 

6回目

 

釣りで太刀魚が針にかかるとぬ~っとした手応えがする。カジキマグロはどうなのだろう。老人と海を読んでいる限りではアジやサバみたいにビビビと振動しているイメージはない。マグロとかはテレビで見ていると船の床をバタン、バタンと叩いているので竿の感覚は太刀魚に近いのではと予想する。

 

7回目

 カフカの『変身』は主人公のグレーゴル・ザムサがある朝起きると毒虫(どんな虫かは分からないが原語のUngeziefer的には体の小さな有害生物全般を指すらしい。スカンクとかハクビシンもその内に入るが、カフカは表紙の注文に昆虫を書いてはいけないと言っていたそうなので昆虫系だろう。ちなみに私はアゲハチョウの幼虫をイメージしている。柑橘系の果樹を育てている人なら知っているが害獣に分類される。)になっていたという話だ。もし朝起きてカジキマグロになっていたらどんな気分がするだろう。少なくとも私の布団でそんなことが起きたら、鼻先は枕元の本棚に尽き刺さるだろうし、体の水分を布団に吸い取られて、たちまち干物になること請け合いだ。
『老人と海』ではサンチャゴがカジキになって海の中でカジキと戦いたいと言っていたような気がする。気がするというのは、これを書くにあたってパラッと読み返してもそんな部分は見当たらなかったからだ。とはいえ、それを抜きにしてもサンチャゴはカジキに自分と同じ心があると想定している。それどころか他の人間より一等高い価値を置いている。
 カジキに心はあるのだろうか。昔は魚に限らず人間以外の動物に心はないと思われていた。今でもないと思っている人はいる。何故なら心は科学的に存在すると確かめられないからだ。私に心があるのは自明だが、他人はもしかしたら哲学的ゾンビかもしれないというのはいまだに解決されない難問だ。とはいえ、科学的に証明できないからといって他人に心ないことをすれば、復讐という感情的な報復が返ってくることは間違いない。もっともそれも哲学的ゾンビを仮定すればおかしくはないのだが・・・・・このように心の問題は解決どころか、そもそも存在するのかどうかというところで行き詰っている。
 とりあえず現代の科学がやっていることは知能があるかどうかだ。知能があれば心がある。その逆に馬鹿なら心がない・・・・ということになっている。しかしこれも最初は大きな間違いがあった。
 テナガザルの親指は他の指と対向になっておらず、指が非常に長い。これは木の枝にぶら下がるのに適してはいるが、つるつるしている平らな床から物を拾うようにはできていない。それでTVでよく見るような檻の中にいる猿が棒を使って、檻の外側にあるバナナを取れるかどうかで知能を測る実験をすると、テナガザルの知能は非常に低かった。科学的には馬鹿ということだ。しかし、ある研究者が棒を高い位置に、樹上にある枝を掴むように棒を取れるようにするとテナガザルはあっさりと問題をパスしてしまった。この例のように馬鹿と言われている人も実は今の環境が自分に合っていないだけで、別の環境では天才かもしれない。私達だって裸でジャングルに放り込まれればテナガザルに馬鹿にされるだろうし、海の中なら知能の問題より先に生き死にの問題に直面する。
 現代は科学が宗教の代わりを担っている、言われている。科学で証明できないことは存在しないと考える人は意外に多い。昔々そういう人に、それなら顕微鏡ができる以前に微生物は存在しなかったのかと問うと、そりゃそうだろう、と自信満々の答えが返ってきた。実在と科学的存在では、前者が後者より大きいように思うが、世の中にはそれがイコール、あるいは後者の方が大きいように見受けられる人が多い。もしかしたら彼らの中では生死も存在しないのかもしれない。
 科学的というけれど、先のテナガザルの問題にしても、ある研究者のテナガザルが馬鹿なはずがないという非科学的な直感があったからだ。もしその直感をまず科学的に証明できなければ実験をしてはいけないということになっていれば、テナガザルはいまでも馬鹿なままだった。科学の発見には非科学的なものが関わっている。実在が科学的存在を上回っているのは間違いない。
 心の問題に話を戻すと、一昔前は、内心はどうであれ建前上は、私たち人間はみんな姿形は違っても心は同じ、だから仲良くやっていこうということになっていた。しかし、近年では、脳とか、神経系とか、遺伝子とか、体の中にあるものも違うらしいということが分かってきた。感じ方が違えば考えることも違うはずで、同じ心を持っていると信じることはできないし、たぶん実際に違うだろう(そもそも心は存在するのか!? という問いは脇に置いて)し、それがために一つにまとまれないのだと思う。そもそもの始まりとして、同じ性質の人達は元々うまくいくように『みんな同じ』なら自然にそうなるわけで、そこを出発点にしたのが間違いだったのだと思う。『みんな違う』でまとまるには、ただお題目を掲げるだけではなく広い心を持たなければならないだろう。が、それは難しい。寛容を説く人達だって、いざ受け入れがたい人を受け入れなければならなくなれば、不断の努力をもって排除する理屈を発明するだろう。
 こんなことを書くのは最近あるネットゲーで、突然ギルド主が抜けて私が主にされてしまったからだ。ネットだとテキストのやり取りだけで姿形は関係ないと思われるだろうが、実際はテキストにも個性はある。文学における文体のようなものだ。中にはそりの合う人もいるし、合わない人もいる。というより合わない人と遭遇する方が多い。主をやりたくないというのはある意味ネットの総意みたいなもので、チャットでその出来事を書き込むと大変同情された。しかし、これも一つの経験として、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした多様性っていうのをどこまで受け止められるか試してみることにした。

※メモ:動物にも心があるという人でも植物にはないという人は多い。でもバラやサボテンを育てている私は植物にも心があるように思えてならない。もちろんそれは私達がふだん意識しているような活発なものではないけれど、とても静かで固い意志が感じられる。もし植物に心があるとするならばヴィーガン達は何を食べたらいいのだろう? 生きることは罪深い。

8回目

 

 老人の見立てでは彼の釣り上げたカジキは1ポンド(約0.45kg)30セントで売れるらしい。推定1500ポンドのうち肉は3分の2取れるから、30×(1500÷3×2)で3万セントの計算になる。キューバの通貨が良く分からないけれど、もしこれが巨大なクロマグロが釣れたと類推するならば日本円で100万円以上の値が付くことは間違いない。老人が一人の人間が一冬過ごせるぐらいと言うのだから、やはりそれぐらいではないか。
 ここで不思議に思ったのは老人が金勘定をしていることだった。彼は漁師であり、魚を売って生計を立てているのにふと気付いた。私見だが、何日も魚が釣れないつらさというのは感じられても、何日も収入が無くてつらいという印象はあまり受けない。でもよくよく言葉を追ってみると、マストの帆がつぎはぎだらけだったり、毛布がなかったり、靴がなかったり、少年にエサのイワシや食べ物をもらったりしていて、いかにも貧乏なのだが、あえて意識しないと体に入ってこない。これはヘミングウェイ自身の生業が釣りではなく、小説だったからではないか。だから釣れない苦しみは書けても、釣れないことによる生活のプレッシャーは書けなかったのかもしれない。
 夏目漱石の『吾輩は猫である』でこういう描写がある。《吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。》これを読めば、吾輩は絶対に黒猫ではありえないのだが、私はずっと吾輩が黒猫だと思っているし、今でもそう思っている。市川崑の映画でも吾輩は黒猫だった。そしてこれは舞台裏の話なのだが、夏目漱石の家にいた吾輩のモデルになった猫も黒猫だった。こういうことがあると小説家は結局のところ自分のことしか書けないのでは? という疑問が湧く。また書かなくても伝わることがあるという不思議もある。色んな経験をしておきなさいと言われるのはこういうことがあるからなのかな。

※慇懃無礼という言葉があるように、言葉や態度以外にも伝わるものがあるんだろうな。もちろんそれは証明しようのないものだから、時に言いがかりになったり、水掛け論になるけれど、やはり心というものが現実に対して無視できないほどの影響力を持っているような気がする。


老人と海 (光文社古典新訳文庫)
ヘミングウェイ
光文社
2014-09-19




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