まだ決まっていないけど、なんとなく次に書く小説は決定論的なことを書くような気がしていて、私こと牛野小雪が小説の中の運命を書いていて、それを小説の中の人物がどうこうするというイメージが頭の中にある。作中の人物も小説のプロットを知っているという感じだ。

 よくある話なら登場人物がプロットに抗うんだろうな、とは思うのだけれど、それじゃあ当たり前すぎて面白くないので、逆にプロット通りに生きてみるのはどうかと考えていたら、そもそも世界で一番印刷されていて、最近は人気が落ちてきたとはいえ未だに根強いファンがいる物語では、大工の息子が予言通りに民衆によって処刑されるという筋書きだと気付いた。否定の否定で過去に逆戻りだ。このプロットは飽きられ始めている。とはいえ抗うのもダサい感じがする。自分の運命を自分の意志で選べるというプロットは、現代ではかなり仕掛けがないと受け入れられない気がするし、私だって信じられない。とはいえ運命に流されるだけというのも違う気がする。ああ、八方ふさがりだ。

 決定論について調べていると、やっぱり色んな人が考えているんだなと知れて面白い。肯定派も否定派ももっともなことを言っているし、穴もある。つまり決定論に決定的なものはないってこと。もう肯定も否定も面倒くさいので両立派というのが最近台頭しているそうだ。とはいえ、それも決定的ではない。最終的には決定された運命というのを知れなくては答えは出ないし、知れたら否定できるような気もするけど、あらゆる可能性の最終解が運命として存在しているのかもしれない。

 自分に意志があることは自明だが、自由かどうかはあやしいものだ。納豆なんてどうやっても好きになれないが、私の親は毎日狂ったように食べていて、冷蔵庫の棚の一つは納豆で埋まっているほどだ。自由意志があるなら私が納豆を好きになれても良いはずだが私の体が断固拒否するし、なんなら私も拒否している。でも元々拒否しているのは私の意志ではない。納豆と私の体が織り成す科学的反応によって、こいつはダメだという意志が発生しているわけで、私がおぎゃあと生まれた時に、よ~し、私は納豆を否定して生きてやるぞ、と決めたからではない。そういうことは自分が預かり知らぬところで決まっていて全然自由ではない。昔はしいたけが食べられなかったが、今は食べられるようになったのも、そろそろ小6だししいたけぐらい食べられなきゃダメだろうと思い詰めたからではなく、何故か突然食べられるようになったから食べているだけだ。自由意志は関係ない。

 決定論の証拠としてリベットの実験が挙げられる。意志より先に脳が行動を決定しているという話だ。でもこれは話を面白くするために後半が端折られていて、意志の発生は自動的でも行動を拒否することは可能という実験結果がある。リベット自身は自由意志の存在証明と捉えたようだ。いや待てよ、意志の発生は自由じゃないのかという気もしたが、少なくとも否定だけは自由らしい。そういえば知的な人のイメージって何かを否定している感じがするよなぁ。否定が自由意志なのかもしれない。

 決定論の否定がよくある話なら、否定の否定は大昔の名作、それなら私は否定の否定の否定ぐらいは最低書かなきゃいけないよなぁと勝手に思っている。でもこれは自由意志なのだろうか。

(おわり)

追記:知的な人が否定的ということに否定的なのは最新の自己啓発書。否定の否定だ。自己啓発書は知的前衛フィールドでプレイしている。





ばなな

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