最近ある本を読んでいて(どうも読んだことがある気がするんだけど……)と思ったが、それでも読み進めていると、この本は読んだことはないけれど、この著者の本は読んだことがあるという確信を抱いた。それで本の後ろにある著者略歴を読んでみたが、そこで紹介されている本は読んでいない。でも読み慣れた感覚がある。作者は知らない人。不思議な気持ちを抱いた。それで謎が解けることもなく日が過ぎたのだが、日曜日の新聞を読んでいると、不思議な感覚がパパパッと繋がり、その人は日曜日の新聞にコラムを書いている人だと分かった。私が読んだのは10年以上も前の物だったが、それでも書いた人は同じだと分かるほどに文章は変わっていなかった。

 ある作家の新人賞を取った小説を読むと、既に今と同じ文体で書いているパターンはよくある。リチャード・バックマンの評には、とてもよくできたスティーヴン・キングの真似事。もし本人でないとしたら驚異的な文体模写だ。みたいなことがあったそうだ。文体って何? と訊かれても言葉では答えられないが分かる人には分かるものがあるようだ。

 ある本を読んでいると、村上春樹のパクリっぽいなと思って表紙を見ると訳が村上春樹ということがあった。○○の新境地と銘打たれて出た小説でも現代クライム小説が時代小説に変わっただけで文体は全然変わっていないということもあった。それほど文体とは硬いもののようだ。

 去年の11月から今年の5月まで過去作の改稿をして自分の文体は変わったと思っているのだけれど実は全然変わっていないのかもしれない。死人と同じで成長しないのだ。

 しかし、文体って一体何なのだろう?

 三島由紀夫と大宰治、人によってはどちらも柔らかく読みやすいという人も入れば、昔風の固い文章という人もいる。でも三島と太宰を比べれば太宰の方が柔らかいという意見はほぼ一致している。

 村上春樹は内容がないと言われているが、私なんかは余白が多い作家だと思っている。たぶん私も他の人も同じ文章を読めば感じるものは同じ。でも解釈が違う。余白を嫌えば内容がないとなるが、内容がないものを余白と取ることもできる。もし仮に豊かな余白を持つ作家という触れ込みの作家を読んでも、私はそれを構造だけの空虚な文章ととらえることもあるだろう。

 リンゴを見て、赤いという人もいれば、美味いという人もいる。固いという人もいれば、バーモンドカレーと言う人もいるだろう。中にはジョブズ!と叫ぶ人だっているかもしれない。でもリンゴはリンゴ。みんな同じものを見ている。

 つまり文体は文体であり、存在することは疑いようがないが、同時にわけの分からないもの。不思議なものなのだろう。

(おわり)
dead