『暴っちゃん』で味をしめたのか今度は芥川龍之介の『羅生門』をパロッた小説。

キモ金おじさん(元イケメンという設定だが)が主人公で、原作と同じように悪に身を落とそうかどうか煩悶しているということ(既に小悪党だけど)を下敷きにしているのだが、ここでもう少し踏み込んで悪に身を染めても救われないところまで書いている。羅生門ではまだ他に着物はあるし、老婆の抜いた髪もあるのに下人は老婆の着物だけを奪い、裸娼門ではギャルの下着や体がその辺に転がっているのにオッサンは老婆の下着だけを奪う。悪で身を立てるなら、もっと大きな収穫がすぐそばにあるのに小悪を犯しただけで舞台から消えてしまうのだ。ゆえに羅生門では下人の行方は知れないし、裸娼門でもオッサンは行方知らずとなってしまう。

ところどころにネットのネタが散見されて、最後は正義パンチの論考になるのだが、ここを中心のテーマに持ってくるとパロディ小説として一歩踏み込んだ内容となったのに、と書いている途中で、ふと下人もオッサンも最終的には悪に身を染めたのではなく、ただ単に老婆への正義パンチをかましただけではないかという疑念が湧いた。そして正義パンチをかましても老婆は生きているし、下人とオッサンは消える。

正義パンチは全方位へ向けられている。それは自分の心にも。自分で自分に正義パンチをすることによって、下人とオッサンは自分の中にある悪を消すのだが、それによって彼らは悪に身を染めても生き抜くという選択肢を潰してしまう。そう考えると『老婆はお前で、お前は老婆』という言葉が意味を持ってくる。老婆を否定するということは己の死に繋がっているのだ。

下人は羅生門を登り、オッサンは居酒屋のビルを見上げたように、悪の舞台は彼らより高い場所にある。悪は彼らより上回っていることが示されているのだが彼らは下界へ下りて老婆は最後まで上界に残っている。一見悪に染まったような下人とオッサンだが悪をぶん殴って正義に殉じていくようでもある。悪は命よりも上だが、それなら正義の下界で死ぬ方が良いという心意気だ。

この小説は単なる『羅生門』パロディ小説ではなく新しい解釈を提示した啓蒙小説だと言えるだろう。原作と同じように短い小説なので興味があればさっと読むのがおすすめ。


裸娼門
芥川龍之助平
2018-07-12
 昨今「正義とは何か」という論争が飛び交う中、本当の意味での正義を若者に考えさせる助平文学の原点として注目される予定であり、高校国語教科書に採用されるカオスな未来も遠からず予想される。