『聖者の行進』を書いてみよう。week1 2017/2/15

 真論君家の猫は書き始めるまでに半年かかっている。聖者の行進は黒髪の殻を書いている間から書くかもしれないと考えていたから一年以上かかっている。物語上の繋がりはないが、系譜としては、黒髪の殻→エバーホワイト→聖者の行進、と続いていて、今作が到達点の予定である。感覚的にはこれが最高点なんだけどエバーホワイトがちょっと書けすぎてしまった気がするので、聖者の行進がとんでもない駄作になったらどうしようかと怯えている。
 途中までは書ける。自信はかなりある。それこそ時間さえかければ絶対に書けるというやつだ。問題は途中からどうしてもこれは書けないという領域に踏み込むことだ。もしかすると準備不足かもしれない。しかし書き始めてみると手応えはある。いや、ここは自信のあるところだからだとも思い直す。まだ懸念の場所には至っていないし、そこへ辿り着くにはまだ時間はある。
 今回は複数人で物語を回そうと考えている。幽霊になった私と獅子の檻ではアキと私、レオタ君とヤマダの二人で回したことはあったが、もっと距離の離れた感じで書いてみたい。最初に考えた三人のな線がなかなか交わってくれなかったのでだいぶ苦労したが、最終的には交じらわせなくても良いような気がした。人ではなく世界観を中心に置いて三人を世界の外周で回せばうまく回せるような気がしたのだ。
 と、大げさな口を叩いてもやっぱり書ける気はしない。だから進捗状況なんて堅いタイトルではなく、書いてみよう、にした。書かなくなったら自然に更新されなくなる記録である。

『聖者達の行進』を書いてみよう week2 鏡の国の宮台真司 2017/2/22

 ある人に宮台真司と似ていると言われたことを思い出したのは、宮台真司という文字列を図書館の棚で見つけた時だった。彼の名前は何年も前から知っていたが、その時には既にちょっとした有名人だったので、ずっと手を付けずにいた。ちょっとした反抗心だ。
 これも何かの縁なので自分を鏡で見るような気持ちで、宮台真司の本を借りて読んでみた。思わず声が出そうになったのは、地域開発か何かを語っているところで『人を主体とせず場所を主体にしなければならない』という誰かの言葉を引用していたことだ。これって先週書いたように三人の人物を交わらせずに世界観の外周で回せば良いんじゃないかという考えに似ている。
 今週ようやく冒頭を書き終えたのだが、たぶん聖者の行進は牛野小雪の持っているものを出し切る物になるだろう。作者が力作だと思った物は何故か外す傾向にあるが、三度目の正直が来るんじゃないかと期待している。

『聖者の行進』を書いてみよう week3 神になりたい 2017/3/1

 私は基本的に三人称で小説を書いている。『真論君家の猫』と『幽霊になった私』は珍しい例だ。でも短編だと一人称が多い。長編ならということか。とはいえ三人称と言っても、視点は一人の人間に固定されているので、一人称でも書けるような書き方でもある。『ターンワールド』なんかは一人称で書き始めて、主人公との距離が近すぎると感じたので途中から三人称で書き直した。 
 神視点の三人称という名称がある。小説ではほとんど見ないが映画や漫画など映像の世界では当たり前のように使われていて、むしろ一人の人間の視点で世界を描くことの方が珍しい。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の撮り方が話題になるぐらいだ(POV方式=Point Of View shotというらしい)。
 小説もそういう風に書けないかと考えている。神視点なら人間の感覚に縛られずに書くことができる。たとえば一人称で可聴域外の音が鳴っていることは描写できないが、神視点なら書くことができる。視界の外側も書けるし、まだ見ぬ未来や知らない過去も矛盾なく書ける。なんなら人間不在でもいい。海と風だけの小説も書けるはずだ。
 しかし、そんな大きなことを考えてもやっぱりまだ人間に縛られている。今は幽霊ぐらいが限界だ。神にはなれない。もっと高い位置から見下ろしていば安定するのだろうが、背後霊ぐらいの位置にいるのでフラフラ揺れているような気がする。
 この先どうなるかは分からないが、とにかくやれるところまではやってみるつもりだ。スウィングできるかどうかはできてからのお楽しみ。


『聖者の行進』を書いてみよう week4 三作目は駄作の法則 2017/3/8

『聖者の行進』は『黒髪の殻』→『エバーホワイト』の流れを受け継いだ三作目であり、このテーマとしては極限の作品という感じで書いているのだが、正直書き始めの頃は絶対に『エバーホワイト』を越えることができないと分かっていた。
 ロッキー、ターミネーター、マトリックス、マッドマックス・・・・三部作で三作目が名作だった映画があっただろうか。もしかして私も三作目の罠にハマっている? そんな不安が頭によぎっていた。
 私は執筆する時に雑感帳というのを付ける。 名前の通り、昨日は眠れなかっただとか、とりあえず1000字は書けたぞ!!!! 今日は0じゃない!とか書いてある。
 先週は月曜から全然書けなかったのだけれど、雑感帳はもりもりと書いていた。なぜ『聖者の行進』が書けないかについて細かい字で延々と書いていたら、話自体は変わらないけれど行間から物語が変化し始め、ついには新しい物語が飛び出してきた。書けないかもしれないと思っているところをさらに越えて、その先へジャンプ!エバーホワイトを超えた!
 あまりに飛びすぎたので、これを書いたら死ぬような気がしてきた。小説だけがどんどん先へ行って作者は置いてけぼりだ。
 これを書くにはまだ早いような気がする。でもこれを書かずに次へ行けるかという気持ちもある。それに聖者の行進はホップ・ステップ・ジャンプのジャンプの部分だ。図らずもこいつは期待通りにジャンプしてしまった。私はちゃんとこのジャンプを受け止められるだろうか。
 本当は『聖者の行進』の次に書く物が牛野小雪の本命だったけど、こっちが物になるかもしれない。あるいはさらにその先へ飛べるのだろうか。そういう物を書いている自分が想像できない。
 それと『真論君家の猫』を書いてからもう三年も経っていることにも驚いた。時間は人を待たない。もう一度あれぐらいの物を書けるのに五年はかかると思っていたから予想より二年は早い。
 最後にもうひとつ書いておくなら『ターンワールド』を書いている時は『火星へ行こう君の夢がそこにある』が思い浮かんだので、牛野小雪は一周したんだなという気持ちを抱いた。ということは『聖者の行進』で二周したということだ。去年season1がどうとか言い出したのは無意識の段階でこうなる予感があったのだろう。『聖者の行進』は今まで書いてきた地層の上にどっかりと乗った物になりそうだ。私としてはやっと『真論君家の猫』を越えられそうな物が出てきたので、手の奥が震えるぐらい嬉しかった。これが書けるなら死んでもいい。でも最後まで書ききれたら死なないだろうな。 


『聖者の行進』を書いてみよう week5 衝撃さえあればいい 2017/3/15

 今週は一山越えそうなところまできたので今まで書いてきた箇所を見直していた。現在と過去の繋がりが大事な場面だからだ。(こいつは誰だ?)と身に覚えがない人物が出てきて焦ったが、書いている途中で名前を変えたことを思い出した。
 今回は久々に頭を使う物を書いているので脳みそが詰まる。何時間もああだこうだと考えていると、誰もここまで考えて読まないんじゃないかと思ってしまう。というか作者自身もいざその場面を書こうとする時にえっちらおっちらノートを見たり、実際に書いているところをスクロールして読み直したりしているわけで、普通に本を読んでいて、そこまでする人は1万人に1人もいないのではないかと予想する。
 ということはだ。整った物語なんて必要なくて、むしろ意味がわからなくてもドカンと心を打ちのめす衝撃さえあれば良いような気もする。これはよくできた話だなで心を動かされることはないが、これは凄い話だったなで心が動くことはある。
 それと最初のプロットがかなり自壊してきたので、また新しく立て直した。我ながらよくぶっ壊してくれたと思う。おかげで書くのに苦労させられた。たまには注文通りに進んで欲しいという気持ちになる。
 とまぁ愚痴を吐いたわけだけど気持ちとしては充実している。なにはともあれ今は進んでいる手応えがあるのだから。書けている時はやっぱり気分が良い。いくらでも続けられるという気持ちになる。このまま最後まで書き通せたらいいのにな。


『聖者の行進』を書いてみよう week6 純文学とエンタメとか 2017/3/22

 今ではもう化石のような話題になってしまったが、昔はエンタメと純文学の違いは何かということで意見が別れていたそうだ。今で言うなろう小説とハードカバーで出る一般小説の扱いだろうか。(純文学なんて言葉を知っている人はもうほとんどいないだろう。芥川賞の名前は知っていても何の賞か知らない人が多い。)
 いわくエンタメは誰かのために書く物であり、純文学は自分のために書くものだとか。思想性がどうのとか、リアリティがどうのと、社会性うんぬん、色々ある。でも最近はそういう思想性だとか社会をどうとかだけではなく、自分のために書くことですら不純ではないかと思うようになった。
 思想も意思も個性もなく、河原に落ちている丸っこい石や雑草、山に空。土砂崩れに台風。そんな感じの小説こそが純文学ではないだろうか。そして、そういう定義で純文学を捉えるなら純文学は存在しないのではないかと思うようになった。
 しかし、何のためにも書かないのなら何を書くのだろう。そもそもそんな物が人間に書けるのだろうか。そんな小説を読む人がいるのだろうか。上に書いたような石や雑草でさえ書こうとしたからには何らかの意思があったわけで、その瞬間不純な物になる。でも書こうとする意思なくして小説なんか書けないんだよな。何だか禅問答みたいになってきた。
 文学性って何ぞやと聞かれても答えられないが、あるものはある。でもエンタメであっても全く文学性がないということはなく、エロゲのテキストにだって文学性を見つけられるだろう。そして文学性だけが小説ではない。何を書いたって自由なのだ。 


『聖者の行進』を書いてみようweek7 夏目漱石の重力とKDPの魔力 2017/3/29

 先日ブログにこういう事を書いた。別に読み飛ばしても問題はない。

思想も意思も個性もなく、河原に落ちている丸っこい石や雑草、山に空。土砂崩れに台風。そんな感じの小説こそが純文学ではないだろうか。
 
 それで、この記事が公開された後にふとこれは夏目漱石の『草枕』ではないかという疑念が持ち上がった。あの本は凄く読みづらかったので、まだ一回しか読んだことがないが、試しにページを開いてみるとわりと早いところでこういう文章で出くわした。 長いけれど引用する。別に読み飛ばしても問題はない。

 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽き飽きした。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。 いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義とか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を駆けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

 なんだ。すでに夏目先生が百年以上前に同じことを考えていたのかとがっかりした。この後もまだ続くのだが、私の言いたいことを私よりうまく言葉にしている。ちょっと怖くなった。
 三年前に『真論君家の猫』を書いてようやく夏目漱石から精神的に自立して、これからは自分の小説を書いてやるぞと意気込んでいたのに、実はまだ猫の惑星を脱出しただけで夏目漱石の重力圏に囚われていることを知った。いつになったら夏目漱石を離れられるのだろう。はぁ、ヤダな。まだ半人前なのか。

 『聖者の行進』はようやく第1部が終わりそうだ。まぁここまでは書けるだろうとは思っていた。でも第2部からは書けない。見えているだけでも奇跡が4回起きないと最後まで書けないことが分かっている。これは明らかに私の手に余るものだ。今の牛野小雪には絶対に書けない。今までと違って時間だけでは書けない。でも書く。どうにもならないところまで。


『聖者の行進』を書いてみよう week8 神視点と芥川龍之介 2017/4/5

 人称や視点がコロコロ変わるのは素人が書いた小説にありがちなことらしい。聖者の行進も人称は変わらないが視点は変わるので、それを知ってからドキドキしている。
 視点の変化がない小説がないわけではない。むしろ名作と言われる物は変化する物が多いのではないだろうか。ただし日本文学の名作だと私小説が多いように思われる。ここに視点の変化が素人と言われる所以があるのかもしれない。
 何故海外(欧米)の小説は神視点で書かれることが多いのか。普段から考えていたわけではないけれど、ある日ふとひらめきが降りてきた。これは至って単純な話で海外にはキリスト教的な神の概念があるからと思った。だから神視点の小説というものが成立する。ということは科学が発展した近代作家は神視点で小説を書けないということになる(神は死んだ!)。
 こんなことを書いていると、太宰治は人間失格のような私小説が有名だが走れメロスみたいな神視点の小説も書いていることを思い出した。もしかして彼はキリスト教なのではないかという疑念が湧く。しかし調べてみると、どうも違うらしい。しかし太宰治が崇拝していた芥川龍之介は自殺する時に聖書を枕元に置いていたそうだ。キリスト教徒だったかどうかは分からないが強い興味があったのは間違いないだろう。そして羅生門、蜘蛛の糸、地獄変、と読んでみると、おお、やっぱり神視点じゃないかと発見する。鼻も確かそうだったはずだ。 
 他の作家も読んでいると視点の変化は難しい。書くだけならともかくよく書けているというのは珍しい。芥川龍之介もあの調子で長編を書くのは無理だったのではないか。
 死にそうといえば私も死にそうだ。聖者の行進が私の予定を内側からぶっ壊してくれるので、そのたびに新しい聖者の行進を作り直している。これを書いたらもう何も書けなくなるんじゃないかという気分がしてくる。乾いた棒きれみたいな物になるんじゃないかなぁ。


『聖者の行進』を書いてみよう week9 語りと執筆 2017/4/12

 もしかすると会話と執筆は同じなのかもしれない。どちらも言葉を使う行為だ。思い返してみると普段話さない人と話した後は必ず書けなくなる。やっぱりそうに違いない。
 この前又吉がテレビに出ていて一日四、五千字書くと言っていて驚いたのだけれど(それも四、五千字では少ないという雰囲気)、お笑い芸人みたいにいっぱい喋る人はいっぱい書けたりするのだろうか。お笑い芸人で小説書いたのは彼だけじゃないし、エッセイとかになると他にも書いている人がいっぱいいる。
 それじゃあ私がいっぱい書けるようになるためにはいっぱい喋れるようになればいいわけだ。
 ということを考えていると、数年前に書いた文章を評価するサイトで書くことを恥ずかしがっていると評価されたことがあることを思い出した(なんというサイトかは忘れた。一人でやっているみたいだったのでもう機能していないだろう)。書くことと話すことが繋がっているとするのなら、つまり私は話すことを恥ずかしがっているわけで、それは全くの図星であった。
 じゃあどうやって恥ずかしがり屋を治せばいいのか。と考えていたのだが、こと執筆に限っては作者と小説の一対一の関係なので、リア充みたいなコミュ力お化けを目指さなくても『聖者の行進』と仲良くなればいいのだと気付いた。肝胆相照らす仲になれば月が昇って雄鶏が鳴くまでに百万字を書くことだって可能かもしれない。
 しかし脳内会議はまだまだ終わらない。どうやったら『聖者の行進』と仲良くなれるのか。まずは挨拶からかな。でも小説は喋ってくれないからなぁ。ノンバーバルコミュニケーションでぶん殴ってみるといいかもしれない。でも小説に姿形は存在しないから撫でることもできない。そもそも『聖者の行進』はまだこの世に存在していない。これじゃあ一休さんに出てくる屏風の虎だ。どうぞ出してくださいとなっても殿様みたいに笑うしかない。でも小説家は屏風から虎を出すように、あの世からこの世に小説を引き出さなければならない。笑っている場合じゃないのだ。
 さて、どうやったら屏風から虎を出せるのだろう?
 湖中の月を掴むようで、どう考えても無理難題の話だ。真っ直ぐな理屈ではなくスト〜ンと腹に落ちる頓知(とんち)が必要とされている。石頭ではいけない。こういう時こそ『慌てない慌てない一休み一休み』の精神を持たなければ。

追記:しかし、一休さん。もし本当に虎が出てきたらどうなっていたんだろう。小説も安易に引き出してしまうと作者は喰い殺されてしまうのかもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week10 好奇心猫を殺し、才能は人を溺れさせる 2017/4/19

 人間性を疑うことばかり書いていると本当にこんなもの書いちゃっていいのかなぁという気分になる。
 おかしな小説を書いているとおかしな現象に見舞われるようで、最近身の回りでおかしな現象が起きている。どれも書くに価しないほどしょうもないことなのだけれど、幽霊か鬼に取り憑かれているんじゃないかと不気味な感じがする(もし生きている人間の仕業だったらそっちの方が恐い)。
 正体は見えないので怖くはないがただ不気味なのである。『ドアノッカー』や『蒲生田岬』を書いている時は誰かに後ろから見られているような感覚があったが、今回はそれより強い感じがする。やっぱり罪深い小説なのだなぁ。
『聖者の行進』は先々週に第一部を書き終えているのだが最初に考えていたのと違ってきている。第二部は書く前から変わってしまった。この小説は書くのがしんどいので、もうここで終わらせてもいいんじゃないかと思うのだけれど、まだまだ書ける、
『こんなの書いちゃったらどうなるんだろう?』の精神が頭をよぎると、作者がそっちへ進んではいけないと思っていても、知らず知らずのうちに小説がいけない方向へ回転してしまう。ワルを好きになってはいけないと分かっているのにどうしても気になってしまう女の子みたいな感じで、気付けば惹き寄せられている。
 まだ書き終わっていない小説の話をするのも変だが、第二部の一章だけで『エバーホワイト』を超えた気がする。事前の予想は外れても予感は当たるようだ。最初はダメかもしれないと不安だったが、やっぱり『聖者の行進』がホップ・ステップ・ジャンプのジャンプになったので嬉しい。 
 そうそう。先週Twitterで才能がどうとの話が出ていたので書くと、原稿用紙10枚書ける時点で私は才能があると思う。日曜日のイオンで人を集めて、来月までに原稿用紙10枚分の何かを書いてこいと言った時に、本当に書いてこられるのは1割もいないのではないだろうか。
 私が思うに10枚、30枚、50枚、100枚、300枚、500枚で壁があるように思う。それ以上の壁は未知の世界なので知らないが、ほとんどの人は10枚の壁を超えられない。
 初めて原稿用紙10枚書いた時は自分でも奇跡だと思った。もっと露骨に言えば自分のことを天才だと思った。30枚、50枚の時でもそう。100枚の時は夏目漱石を知っていたから、そこまで自惚れられなかったけど、それでも凄いとは思った。
 いっぱい書けばいいのかって話だけど。量は嘘をつかない。野球で言えばストレートの球速みたいなもので、原稿用紙100枚は誰が書いたって原稿用紙100枚なのだ。
 話を戻すと、やっぱり小説でも才能というのはあると思う。量的な意味でなく質的な意味で。しかし、悲しいかな。ある種の才能は重たいバットみたいな物で、それを振る力が無ければうまく扱えない物のようだ。あんまり頼りすぎると自分まで振り回されてしまう。才能を使うにもある種の力が必要のようだ。
 俺は天才だと嘯く人がいる。たぶん本当なのだろう。その人の中に凄い才能があるのは自明のことで、それがうまく振るえないだけなのだ。野球で喩えればどんな球でもホームランにできるゴールデンくじらバットを持っているのに、それを振ることができない悲劇に見舞われているようなものだ。バットも才能も使って初めて価値が出る。持っているだけではダメなのだ。
 こうなってくると才能があるのが良いことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。なまじ才能があるばかりに、それを発揮できないという悲劇が起こりうるのだ。最初から才能が無ければ嘆いたりはしないだろう。
 いっそ自分には才能が無いと思っていたほうがいいんじゃないかな。才能以外のところで勝負すればいいんだよ。えっ、それってなに? う〜ん、気合とか根性? ・・・・よく分からないなぁ。でも積み上げられる物もある。目に見える形でいえば原稿用紙とか。あれが今の肥やしになっている。最初の10枚の感動が無ければ『聖者の行進』も10万字まで書けなかっただろう。
 小説を書くのも才能だけじゃダメだ。野球だってそうじゃないか。


『聖者の行進』を書いてみよう week11 小説の外側でやれることはまだある 2017/4/26

 やっぱり止まった。ここ一週間で一文字も書けていない。ここが私の限界なんだろうかと落ち込んでしまう。あまりに書けないのでしょうもないことを書いてみたら拍子抜けしてしまうほどあっさり書けた。書けないのは小説ではなくて『聖者の行進』ということだ。 しょうもないことを書いたら、ちょっとだけ書けるようになった。私に足りないのはしょうもないことをする心の余裕なのかもしれない。 だから今週はこれだけでおわり。

『聖者の行進』を書いてみよう week12 ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ 2017/5/3

誰が言い出したのかは忘れたが、どうやら現代は灰色のルネッサンスと言われているらしい。多分意味はルネッサンスの逆で文化が後退しているということなのだろう。その論拠は説明できないが、何となく感じるところはある。 最近Googleの検索ツールで古いサイトを回っていると今と違って文章に個性があって面白い。段落の一行開けルールは90年代から提唱されていたが、そんなこと関係なしに書いている人も多いし、画面の端から端まで字が並んでいたりする。そういうサイトはえあ草紙なるサイトで変換すると非常に読みやすくなる。(えあ草紙工房) これを書いている時にTVを見ていると『〇〇の言葉の正しい意味は?』というクイズをやっていた。これなんてまさに後退を示すいい例だ。本当は『〇〇の言葉の古い意味は?』とするべきなのに『正しい意味は?』にすると、それ以外に使い道がなくなってしまう。そもそも言葉の意味に正しいも間違いもない。その時代々々で意味が変わるだけだ。クイズ問題として成立すること自体がその証拠だ。
 ちょっと前に『お疲れ様でした&ご苦労様でした』問題があった。『ご苦労様でした』を目上の人に使うのは失礼というのがあって、わりと大きな扱いになっていた。今では『ご苦労様でした』を使うのは失礼みたいな常識ができつつあるが、でもちょっと待ってほしい。もしこれが目上の人に『くたばれクソ野郎』というのは失礼というニュースだとしたら話題にもならなかっただろう。何故なら誰も仕事終わりに上司に向かって『くたばれクソ野郎』という言葉を使わないからだ。  上のお疲れ&ご苦労様でした問題も『実は』という枕詞が付いている。逆に考えれば、それまでみんな違和感なくお疲れ様とご苦労様を使っていたわけだ。ご苦労様を使ってはいけない理由は色々と説明されているが、お疲れとご苦労を逆にしても通じる意味ばかりで馬鹿らしい。馬鹿らしいのにご苦労様は失礼ということにされているのはもっと馬鹿らしい。 もっと前には『違和感を感じるは誤用』というのがあった。感が続いているのは重複表現というわけだ。これもやはり上と同じ理由で、みんなが『違和感を感じていた』のに、それが誤用だからと指摘されたので大きく取り扱われたのだ。それまではみんなコーラを飲んで爽快感を感じたり、大好きなバンドが奏でるフレーズに快感を感じたり、野球選手がヒジの靭帯に違和感を感じたりしていた。『違和感を感じるは誤用』というのはもう古典的な響きがあって、ネットの人目に付く場所に書き込むとすぐに文法警察がやってくる。この影響は小説家にも伝わっていて、何年か前に直木賞を取ったとある現代作家の書いた文章で『違和を感じる』というところを見つけて、ずっこけそうになった。千円賭けてもいいが、これがもし印刷ミスでないとしたら、この部分は絶対に『違和感を感じるは誤用』を意識して書かれた文章に違いない。その作家の直木賞候補になった作品では主人公が『違和感を感じていた』のだから(Kindleの検索機能は便利だ)。
 ちなみに『違和を感じる』が正しい表現だそうで、なるほど、だからあそこだけ強烈な四角四面の正義感を放っていたわけだ。 だからといって私は『違和を感じる』を使うのはおかしいとは言いたくない。ただそういう雰囲気を感じ取って気を使ったであろうことに違和感を感じているのだ。 今の時代は政治的な理由であったり、文法警察によって表現が変えられることはよくある。どちらも背後に正しさが掲げられているのは同じだ。 ジョジョの奇妙な冒険の文庫版でセリフが変わったというのは有名な話だ。ことさら汚い言葉を使えと言いたいわけではないけれど、普通ではない状態で普通ではない言葉が出てこないのはちょっとおかしい。迫力に欠けるような気がする。水清ければ魚棲まずというではないか。非実在青少年問題もあるし、表現のあり方はこれからもどんどん正しくなっていくだろう。  出版不況は世界共通らしくイギリスではタレント本ばかり売れているという記事をどこかで読んだことがある。アメリカではKindleが凄い勢いで広まった。日本では何故か流行らないけれど、ひとつの理由に本屋が多いという理由が挙げられる。アメリカの国土は日本の十倍以上あるのに、本屋の数は日本より少ない。もちろん都市部に住んでいれば日本と同じだろうが、それ以外の場所では一時間ぐらい車を走らせて、本を買いに行かなければならない事情があるわけで、スーパーマーケットで大人が乗れるぐらいの大きなカートに食料を一杯買い込むのも、毎日買い物に行くのがしんどいというのが理由である。Amazonが成功したのも店へ行く金銭的&労力的コストが高いからで、なぜAmazonみたいな企業が日本で誕生しなかったかといえば広大な空き地がないからというのがひとつの理由だろう。 だが、ここで疑問にぶつかる。それならどうしてAmazonは日本でも勢力を伸ばしているのだろう。その気になればいつでも本屋に行けるのに、わざわざAmazonで買うのには理由があるはずだ。私は本屋にはよく足を運ぶが、実際に本を買うのはよくて半々ぐらいの確率で、ここ数年はAmazonで買うことが多い。本屋をショーケース的な使い方をしているのではなくAmazonで見つけた本を買うという感じだ。そういえば本屋に行っても本棚から本を手に取ること自体少なくなった気がする。 別に本を買わなくなったわけではない。むしろ年々本に使うお金は上がっているので需要自体はある。でも本屋には何故か手に取りたくなるような本が少ない。この理由が分かれば、日本の本屋はルネッサンスの時代を迎えるかもしれない。 でも、そんなに言うほど今は暗黒の時代だろうか。近年は『火花』がどうとかいうニュースもあったし『君の膵臓を食べたい』もわりと伸びていた。新聞を見ていると、ところどころでヒット作も出ている。ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つという。出版不況が続いていると言われるが、実は太陽が少し傾いただけで、本当の黄昏はまだまだ先かもしれない。
 それはそうと先週から『聖者の行進』が全然書けなくて困っている。執筆時期の日記や雑感帳を読み返して分かったのだが書けない時は今向き合っている物が変わる時なのだ。変わるから書けないのか、書けないから変わるのかは分からないが、とにかく変わる。それまでは書けない『聖者の行進』がまだ変わらないのは黄昏具合が足りないのだろう。フクロウはまだ巣穴の中で眠っている。

『聖者の行進』を書いてみよう week13  車輪の再発明 2017/5/10

 色々本を読んだりノートを読み返したりしていて閃いたことは、この小説に中心となる人物がいないということだった。凄い発見をしたと驚いたのも束の間最初に考えていたことだと気付いた。また振り出しに戻ったというわけだ。 一周したのではなく螺旋状に深く潜った。そう思いたい。もしかしたら今週は書けるかもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week14 ニーチェの中に聖者を見つけた  2017/5/17

 この一週間ずっと雑感帳を書いていた。『聖者の行進』は今月1万字しか進んでいない。これは予定通りで、書く前からここら辺で壁にぶつかると思っていた。書けないことはそう驚くことではない。ターンワールドとか蒲生田岬、猫の時は一ヶ月以上書けないこともあったから、あと二週間ぐらい書けないこともあるだろうぐらいに思っている。明日書けるようになるともちろん嬉しいんだけど。
 ずっと自分に語りかけているような文章を書いていると、結局突き詰めれば自分のために小説を書いているんだなということが分かってくる。他人のためだとか、読者のためだとか言ってもそれはどこまでも自分の中に作った他人でしかなくて、つまるところ作家は誰のためでもなく自分のためにしか書けないということになる。昨日深いところまで思考が伸びて、ふとそれに気付いた。
 自己満足もできないような小説は他人も満足させられない。せめて自己満足にひたれるぐらいには仕上げたいなと思いながら一文字も書けない自分に悶々としている。でも自己満足でさえ自分に縛られているよなと考える時もある。そうするとどうすればいいのか分からなくなって身の置き所がない気分がする。書ける時はいくらでも書いて良い気分になれるけれど、書けない時にどうしているか。それがまだ自分でも分からない。もっと快適に書けない時間を過ごせたらいいのに。
 最近ニーチェを読んでいるんだけど、あれは哲学書じゃなくて小説と思って読むとすんなり頭に入ってくることに気付いた。もしかするとニーチェはフィロソフィー(哲学)ではなくファンタジーなのかもしれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week15 無記 2017/5/24



『聖者の行進』を書いてみよう week16 ぶつかったのは壁ではなく階段である 2017/5/31

 もうこれ以上進めないと思ったとき、そこでふと立ち止まり空を見上げると、壁に切れ目があるのを見つけられるはずだ。実はあなたの前にに立ちはだかる壁はより高みへ昇るための階段だった。人生があなたに成長しなさいと試練を与えているのだ。
 あんなところ届きそうにない。
 もし登れたとしてもこの壁をまた落ちたらどうしよう。
 そんな不安があなたの成長を阻んでいる。
 あなたは勘違いしているのだ。人生はあなたに階段を登れといいましたか?
 人生は常にあなたの成長を望んでいる。あなたが今より十倍、百倍、あるいは千倍も大きくなれたとしたらどうだろう。その時、目の前は壁でもなく、階段でもなく、平坦な道になっている。
 階段を登らなければ、高いところに登らなければ、その考えを捨てましょう。
 あなたが大きくなれば壁は自然となくなります。問題は解決するまでもなく、通り抜けられるのです。
 成長することを恐れることはありません。あなたが階段に立ち向かったということはすでに成長している証拠なのだから。

 今月はちっとも書けないので、自己啓発本をたくさん読んでいた。上の文章は自分で考えた自己啓発文。読むたびにエネルギーがみなぎってくるのだが、パソコンの前に座ると現実に引き戻された。気持ちと執筆はあんまり関係ないということが分かっただけだ。
 他にも色々試してみたが自己啓発と小説って相性が悪いんじゃないかと思えてきた。気持ちが昂揚するほど聖者の行進が遠ざかっていくように感じた。たぶんこの直観はそれほど外れていないだろう。
 転機は何の前触れもなくやってきた。朝起きると皮膚の裏に無感覚の麻痺した空白の層が広がっている感じがした。起きた瞬間に、あっ、今日は書けるな、と分かった。その日は少しだけ書けて、次の日はもっと書けた。さらに次の日も書けて、たった三日書いただけで、今月書いた分を超えてしまった。といっても一万字くらいなんだけど。
 後で振り返ってみても何が原因なのか分からない。特別何かアイデアが降ってきたわけでもないし、美味いものを食ったわけでもないし、何か変わったことをしたわけでもない。おまけに最初の日は寝不足で体の調子はかなり悪かった。それなのに書けてしまった。執筆は理不尽だ。


『聖者の行進』を書いてみよう week17 チャーリーが出てこない 2017/6/7

 先月は散歩中にずっと『聖者の行進』のことを考えていたが、これはもう書けない物なんだとあきらめて、次に書こうとしている『John to the world』を考えていると何故か『聖者の行進』が書けるようになった。そうか、別のことを考えれば良いのかと『John to the world』のことを考えて歩くようにするとまた書けなくなった。思い通りにはいかないようだ。今は何を考えて歩いているのかというと……何を考えているんだろう? ただ歩いているだけのような気がする。
 先月末からちょっとずつ進むようになった。一番理由で思い当たるのは先月まで目の前に置いていたプロットを壊してしまったことだ。新しくプロットを立て直して、しかも書いている途中にそれも壊してしまった。この先どうなってしまうんだろう、袋小路に向かって進んでいるような不安に駆られるが、それとは別に筆は進んでいく。
 今書いている章でチャーリーという人物を書く予定だったが、途中から「あれっ、このまま進めるとチャーリーが出てこないんじゃないか?」と思っていて、やっぱりチャーリーが出ないまま終わった。なんてこった。チャーリーの出番は後ろにずれこんだが、もしかするとこのままずっと出ないなんてことがあるかもしれない。もしそうなると『聖者の行進』はどうなってしまうのか心配になる。
 でもたぶん出てくるだろう。重要だと思った人物はかなり遅れても結局出てきたのだから。しかし『聖者の行進』も最初に想定していたものと変わってしまった。チャーリーもそうなるかもしれない。どちらにせよ早くチャーリーに会いたい。早く生まれてこい。


『聖者の行進』を書いてみよう week18 もう一人の私 2017/6/14

 先週は二重人格の本を読んでいた。二重人格とは普通想像するような一人の人間に別々の人間が二人いるという風なものではなく、大抵は主人格といわれる人物に記憶の連続性があるらしい。 たとえばAという人格が車でどこかへ行く。そこで主人格Bに変わって家に帰ってくる。そしてまたAに戻る。この時Aは自分がワープしたように感じるが、BはちゃんとAが車で移動したことを知っている(実際に見聞きしているわけではない。知覚は常に過去形のようだ)。 しかし別人格同士で繋がりがないこともある。これは稀なケースで、どういうわけなのかは分からないこととなっていたが、門外漢の私が勝手に予想すると主人格が眠っているのだと予想する。AもBも主人格ではなくCという主となる人格が奥へ引っ込んでいる状態というわけだ。 そこまで考えてふと私も二重人格ではないかと疑い始めた。 今これを書いている私が私と思っているのは実は枝の先っぽで、本当は意識の後ろ側に別人格の牛野小雪Bがいるのかもしれない。 思い当たるフシはいくつもあって、たとえばよく執筆が止まることがあるが、それが後になって、ああ、あそこで止まったからこれが書けたということがよくある。そういう時は別の私がその先を書くのは待てと引き止めているのかもしれない。何故こんな物が書けたのかよく分からないというのも度々遭遇する。それもやっぱり別の私が書かせているのではないか? もしそういう自分を仮定するなら、私より頭が良いと分かる。何故ならそういうわけの分からないところから出てきたものは私を納得させるものがあるし、そこから別のアイデアが引き出されるから。 でも彼(あるいは彼女)はなかなか出てこない。顔は一度も見たことがない。声も聞いたことがない。どうやら恥ずかしがり屋のようだ。

『聖者の行進』を書いてみよう week19 馬野小雪 2017/6/21

 『聖者の行進』を書いてみようは今回でweek20。つまりPCに書くようになってから20週目。これを機(2017/06/19)に毎日Excelに記入している執筆字数を見ていくと、0だった日が32日あった。−の日が2日。合計すると丸々一ヶ月書いていないということになる。とんでもないなぁ。
 もう6月が終わろうとしているのもとんでもないことだ。気持ちとしてはまだ2月くらいなんじゃないかと感じている(暑いけど)。執筆中は季節が止まるようだ。そういえば去年も『幽霊になった私』が書き終わってから本当に年が明けたような気分がしていた。
 さて年が明けるまでに『聖者の行進』を書ききれるだろうか。先月はそればっかり考えていた。今のペースだと7月中には絶対に終わらない。
 今のところ20万字まで進んで、ようやく脂が乗ってきたところ。まだまだ終わりそうにない。そろそろ終わりそうだという時に一度ボツにしたアイデアが最後に復活するジンクスがあるので、予想以上に伸びるかもしれない。
 でも本当に恐いのは一生終わらないこと。終わらないとは、書き続けることではなく中止になるということであり、そもそもタイトルが進捗状況ではなく書いてみようなのは途中で書けなくなるかもしれないという危惧があったからで、今でももしかしたらと疑う時がある。こんな小説書いちゃっていいのかな、とか。こんな小説ぼくには無理、とあきらめそうになることが多々ある。
 そんなことを考えながら20週間も過ごしていると、今まで書いた物を振り返ってゾッとする。本当に自分でこれを書いてきたのだろうか。もしかして私じゃなくて『聖者の行進』が私に書かせているんじゃないかと考える時がある。思い通りにならないことが多いし、案外そうかもしれない。
 もしそうだとしたなら、私はどうすれば『聖者の行進』を乗りこなせるだろうか。いや、むしろ私が馬になって『聖者の行進』を背中に乗せなければならないのかもしれない。

『聖者の行進』を書いてみよう week20 チャーリーは出てこない? 2017/6/28

 最近聖者の行進を書くのが恐くて仕方がないので週一日か二日休むようにしている。まるで休肝日みたいだ。ということは聖者の行進はお酒ということなのかな。自分に酔うという言葉もあるしそんなものかもしれない。
 wordを立ち上げて最初に目次を見ると最近は吐き気がする。よくこんなに書いてきたな、と。よくよく考えてみると20万字を越えたのはターンワールド以来ではないか。ああ、恐い恐い。まるで自分で書いたような気分がしない。でも牛野小雪がいなければ聖者の行進も20万字まで進まなかったと感心するような気持ちもある。自分で言うのも何だけど凄いの書いている。
 一生終わらないような気もするけれど、こういう気持ちになった時はもうじき終わり近い頃で、予定ではもう折り返し地点は過ぎている。もう終わりに向けて傾いているのだけれど、ここからどうやって終わらせればいいのだろうと作者も不安である。一応最後の部分はノートに軽く書いてあるが、本当にそこへ辿り着けるのかは分からない。遠くに見えていた目標はいつも目の前で裏切ってきた。最後もやっぱり違う何かが出てくるかもしれない。
 それにしてもチャーリーがまだ出てこない。このまま聖者の行進が終わってしまうぞ。


『聖者の行進』執筆 week21 孤独な魂からLOVEが生まれる! 2017/7/5

 先月と今月に入ってからも身の回りで新刊ラッシュが続いているとはいえ、今年に入ってから何となくKDP周りの状況が寂しくなっていると感じている。私の肌感覚では2年前ぐらいからその兆候はあったように思う。Kindle Unlimitedが来てからその流れが加速したような気がする。なんでだろうと時々考えることがあったが、ふと『読まれているから』という理由が頭をよぎった。  Amazonプライム会員の特典でオーナーライブラリーというのがある。これは対象のKindle本を月1冊無料で読めるというものだ。この仕組み自体はけっこう前からあって、当初は短い本も長い本も一冊でカウントされて同じロイヤリティが支払われていたのだが、ある時から読まれたページ数でロイヤリティが払われるようになった。
 読まれたページ数でロイヤリティが支払われるということは、KDPの管理画面では読まれたページ数が表示されるようになる。以前はレンタル何冊だったのが、何ページで表示されるようになったので、いまどれくらい読まれているのかを肌で感じられるようになったことを覚えている。
 これがいつ始まったのだろうかと調べてみるとなんと2年前から! やっぱりそうだ。以前は無料ダウンロードされようが、有料で売れようが、レンタルされようが、本当に読まれているのかは分からなかったが、今は読まれていると分かるようになってしまった。
 『しまった。』という否定的な語尾を付けるのは、これがまさにKDP作家の生命線を脅かしているから。 読まれることが悪いのではない。読者の存在を感じているのが良くない。
 孤独になれない作家は想像力を失うと私はそう思っている。誰かとチームを組んで小説を書くなんて想像できない。 時々リレー小説をプロの作家でもするが、全くといいほどブームにならないのはそれが理由だろう。辻仁成と江國香織の『冷静と情熱のあいだ』が成功しているじゃないかというが、あれはそれぞれ別の物語として成立しているので、完全なリレー小説とは言い難い。その証拠にロッソとブリュに分けて出版されている。
 もちろん作家と読者はチームを組んで執筆しているわけではないのだが、どういう形であれ自分以外の誰かが心の中に存在しているのなら、その人は孤独ではない。
 はて、しかし何故孤独な精神がなければ想像力が失われるのだろう?
 人の心は不思議だ。

 『聖者の行進』はやっとチャーリーが出てきた。彼が出てくればいよいよ終わりが始まるのでもうじき書き終わるのかな。全然そんな気がしない。でもノートを見るとあと10万字以内で終わる。今書いている二部が6万字。最後の第三部が2万字。第三部は膨らむ可能性があるが、ここからさらに10万字膨らむとは考えづらいので、どんなに多くなっても30万ちょっとで済むだろう。となると一週一万字のペースで書けているので初稿が書き終わるのは8月末というところか。う〜ん、長いような短いような。とても難産だというのは間違いない。できれば7月中に終わらせられるといいなぁ。でも焦っておかしなのを書きたくもない。方向性は違うが『真論君家の猫』を越える物を書いている手応えが間違いなくある。
 でも文学をこじらせただけかもしれない。

追記:孤独と孤立は違う。仲間外れになっているのは孤立。森の中に一人立っている、もしくはキリマンジェロの山頂に一人立っているのが孤独。孤立は他者を必要とする概念だが、孤独は他者を必要としない。 でも本質は場所の問題ではなく心の問題だ。森やキリマンジェロの頂上で物理的に一人でいたとしても誰かのことを思っていれば孤立感があるだろうし、見知らぬ人に囲まれていても、あるいは罵られていたとしても、それを受け付けない心を持っていれば孤立感を感じないだろう。
 もしかすると寂しいから作家は書けなくなるのかもしれない。
 読者の存在を感じていても、その誰かと繋がることは普通ないし、熱烈にコミットメントしてくるのは大抵悪意のあるパターンだ。
 作家はきっと愛を必要としているのだろう。でもそれは作家だけではなく誰もがそうだ。
 Everybody needs somebody to love.
 私は誰かにloveを与えているのかな。
 ということは想像力に必要なのは孤独じゃなくてloveなのかもしれない。孤立はloveマイナスで、孤独はlove0地点で、さらにその上のloveプラスの地平があるのだ。読者を怯えずに愛することができる作家はどんな小説を書くのだろう?
 と、ここまで書いて、作家が書けなくなるのは読者の存在に怯えているからという理由に思い至った。ある編集者の言によるとエゴサーチして書けなくなった作家は何人もいるそうだ。最初は世間の片隅で孤独に書いていたものがある日突然他人と出会ったので臆病になったのだろう。批判・中傷だけが理由ではないはずだ。村上春樹だってノルウェイの森が売れた時、最初は単純に嬉しかったけれど、あるところから恐くなったと何かの本に書いていた。他者の存在はどんな形であれストレスになる。期待や信頼も行き過ぎれば重荷になるのだ。
 そんなことを考えていると世間の評判なんて気にするなという使い古された言葉が力を帯びてくる。でもそんな考えで書いていると独り言になっていかないか、という疑問を感じないでもない。かといって読者のことを考えて書く、というのも何か違う気がする。お高いお菓子屋でケーキを買うと店員の人が入り口まで箱を持って見送ってきて気が引けるようなもので、気を使いすぎるのも良くない。
 本を出版するとは作家から読者に向けてのラブレターを出すようなものなのだろう、きっと。臆病すぎて当たり障りのない言葉ではいけないし、独りよがりの言葉でもいけない。
 もっと勇気を持たなければ。相手の心臓を掴むぐらい大胆に。

 追記2:新しくプロットを書き直して一章減らしたので二部はあと5万字くらいかな。第3部なんて1万字以内で終わって今月中に書き終わる可能性もある。まだ書いていないから予断は許さないけど。でも感覚ではともかく、設計図的なところではもう終わろうとしているのは間違いない。最近は終わらせ方をよく考えている。

追記3:今週は『アトモスフィアバーンアウト』と『死人失格』を読んで、あっ、私と同じ物を見て書いていると思った。でも前と違ってあまり焦らないのはふたつの本を比べて、同じものを見ていても書いている物は違うというのがよく分かったから。少年無人島物でも『蝿の王』から『十五少年漂流記』まであるようなものだ。同じ物を書いても作家それぞれの文体なり感性なりが違うので決して同じものにはならない。 それはそうと二人とも情景描写が多いと感じた。そう感じたのは私自身の情景描写が弱いと思っていて、他人の情景描写が気になっているからだろう。
 もっさり感をいつも感じているので『聖者の行進』は早い文体で書こうとしているのだが、情景描写まではなかなか手が回らない。何もかも追い求めることは無理だ。ひとつずつ。いつかそこまで気にかけられるようになるのかな。
追記4:書いたついでにwikipediaを読むと『蝿の王』の作者ウィリアム・ゴールディングがノーベル文学賞を取っていたのを知って驚いた。イギリス人だというのも驚いた。てっきりアメリカの人だと思っていた。アメリカっぽい気がするんだけどなぁ。
追記5:KinKi Kidsの『愛されるよりも愛したい』で"愛されるよりも愛したい真剣(マジ)で"という歌詞があるが、あれと一緒なのかな。愛し愛されるを、読まれ読ませるに置き換えてみれば"読まれるよりも読ませたい真剣(マジ)で"ということになるのだろうか。
 つまり読まれるかどうかを考えていると気持ちは受動的になり相手に振り回されるが、読ませようという気持ちになれば相手に振り回されることもなくなるってこと?
  うん、なにかしっくりこない。でも画面の向こうにいる誰かに読まれたいと待っているばかりで心を振り回されているのかもしれないとは思った。
 読者を得ることは嬉しいことだけれど、それを心の拠り所にしてしまうと読者に依存してしまう。読まれているうちはうまくいくが、何かの拍子に読まれなくなると心の支えがなくなるし、そうでなくてもそのうち相手に合わせすぎて疲れてしまう。作家のメンヘラ化。
 そう考えていくとやっぱり愛されるよりも愛したいで、作家が読者の存在を感じながらも書き続けていくには愛を撃ち続けるLoveマシーンになることではないだろうか?
 一方通行の情熱を本に打ちつけて世界に投げかける。
 読まれようとも考えない。
 でも、そんなことは言ってもやっぱり愛は欲しい! 真険(マジ)で!

『聖者の行進』を書いてみよう week22 小説が小説を救う? 2017/7/12

 KDPのコンテストがまたあるらしい。5万字以上20万字以下の規約があって高崎望は203,000字ぐらいだからちょっと削れば出せるということで手を加えていた。
 高崎望に手を加えるということは必然的に読むわけで、久しぶりに読んでみると悪くないと感じた。それと同時にまだまだ手を加えられるぞということも分かった。それで毎日1時間ずつ手を加えながら読み返していると、その副産物としてかなり精神状態が良くなった。 今まで『聖者の行進』が書けなくて落ち込んでいたけれど今は書けるかもしれないと思い始めている(書けていない)。執筆が進まなくてもうダメだと思っている時には、自分の小説を読み返してみるのも良いかもしれない。やっぱりそれは自分の心から出てきた自分の心に沿うものだから。

追記:やっぱり執筆中の文章は改稿しちゃダメだと思った。書けなくなりそうな気がしたのですぐにやめた。


『聖者の行進』を書いてみよう week23 当てずっぽうの予感通り 2017/7/19

『聖者の行進』を書き始める前に、これは4枚の壁にぶち当たる小説だと書いたような気がする。どこにも見当たらないんだけど、どこで書いたんだろう。検索でも出てこない。日記か雑感帳の方かな。とにかくそれを書いた時には既に1回目の壁にぶち当たって乗り越えた後だったというのは覚えている。
 5月に2回目の壁が来て、それを乗り越えると、このまま書き切れるのではないかと期待していたが、今は3回目なのかな。全然書けない。書けなくて嫌になっていたのだが、そうか、これは予感通り4回の壁の一つなのかと思い出した。ということはこれを乗り越えてもまたもう一つの壁があるのか。嫌だなぁ。
 エバーホワイトの執筆中に聖者の行進のノートを書いていたので、そろそろ執筆開始してから一周年になる。ああ、しんどい。もっと楽な小説を書きたいな。でも聖者の行進を書いてしまったらもう小説を書けなくなるんじゃないかとちょっと心配している。

 でも根拠のない予感通りの壁にぶち当たっているのなら、同じ理由ですんごい小説になるんじゃないかな。

『聖者の行進』を書いてみよう week24 やっとチャーリーの出番 2107/7/26

 聖者の行進にチャーリという人物が出てくるのだが、彼はプロットを書き始めたときから存在していた人物だ。名前は二転三転したが異質な存在なのでチャーリーという外国人の名前に落ち着いた。登場したのは二つ前の章だがいよいよ動き始めるということで、やっと来たかという気持ち。
 しかし、待っていたといってもなかなか書けるわけではない。今までで一番手応えのある章だが1日1000字書くのがやっとだ。おまけに他の章より長くなりそう。このペースだとチャーリーを書き終えるのに一ヶ月もかかってしまう。書かない間に成長してくれるのは良いが、ちょっとぐらい神(作者)を助けてくれたって良いじゃないか、なんて愚痴を言いたくなる。
 week24ということはもうじき半年になるわけで、こんなに長い執筆は初めてだ。火星の話がやはり半年ぐらいかかっているが、途中でドアノッカーに浮気したので実質の執筆期間は3ヶ月ぐらい。ターンワールドはどれくらいだったかな。
 『聖者の行進』を書いた後に何か書けるような気がしないので、今年はこれ一作で終わりそうだ。
 もっと早く書けるようになりたいな。今回は早い文体で書きたいなんて言っても実態はこんなものだ。

追記:week10ぐらいまでは絵を描く余裕があって微笑ましい。小説で遊べるぐらいの腕前になりたい。


『聖者の行進』を書いてみよう week25 本文なし 2017/8/2

本文なし

追記1:またプロットの立て直し。何回やったんだろう。しかし立て直すたびに聖者の行進は良くなっていく気がする。あと一回ぐらい大きな波が来れば最後まで書けそうな気はするんだけどこればっかりはしょうがない。また書ける時が来るのを待つしかない。

追記2:時々こんな小説を書いていてどうなるんだろうという気持ちになる。こんな物は誰も読まないだろう、と。でも先が見えないことが救いになることもある。でもそこに救いを求めていると、いつまでも可能性を保っておきたくて完成させられないのかもしれない。

追記3:意味や価値を与える小説ではなく奪う小説があっても良いのではないか。なんてことを考えていた。それでいえば黒髪の殻とかエバーホワイトは奪う側の小説だと思った。あれを読んで得る物なんて何もない。聖者の行進はキチガイゲージをリセットするような小説にしたいな。人類を治療してみんな真人間にしたい。←マッドサイエンティストっぽい


『聖者の行進』を書いてみよう week26 チャーリーを書くその前に 2017/8/9

 聖者の行進を書いている間に、田んぼには水が張られ、田植えが始まり、稲が伸びて風に青臭い匂いが混じったと思っていたら、今はもう黄金色の稲穂が垂れている。早いところではもう収穫が始まっていた。頭では今が8月と分かっているのに、肌や内臓の感覚は2月のままなのでとても不思議なことに感じられる。何故2月なのかといえば聖者の行進を書き始めたのが2月だからだろう。あそこから時間が止まっている。
 進むのがとても遅くて嫌になる。この前チャーリーがどうとか言っていたが、先週からチャーリーが出る前に一つ章を足して、おまけにとても伸びているので結局チャーリーはちょっと動いただけで時間が止まっている。でもこの章を書いておけば、チャーリーがさらに活きるんじゃないかなという感じはしていて痛し痒しである。
 一体どこまで伸びるんだろう。このままだと隕石を落すか唐突な夢オチにしない限り、ターンワールドより長くなるのは確実だ。なんとか30万字以内に収める方法はないだろうか。

『聖者の行進』を書いてみよう week27 とうとう半年が経ってしまった件 2017/8/16

 本文の執筆を開始してから正真正銘半年が過ぎてしまった。字数も『ターンワールド』を越えてしまい作者自身が困惑している状況だ。書き始める前は「どうせこんなもの私に書けっこないから7万字くらいに縮小して。次のJohn to the worldで本気出す。っていうかこっちが本命だし。聖者の行進は黒髪の殻→エバーホワイトと来て、ホップ・ステップ・ジャンプのジャンプだなんて嘯いていたけどそんなことは知らね〜。どうせ誰も期待してね〜」なんてことを考えていた。結果的には思惑が外れて当初の目論見通りに事が運んでいる。
 ああ、恐ろしい。当初の目論見通りに事が運ぶつもりなら、まだ中編一個書くぐらいの勢いが必要だ。もっと恐ろしいのは目論見を超えてしまった場合、長編を書く精神力が必要とされている。聖者の行進なんて聖者っぽい名前だけど、こいつはひどい性格をしている。最後の一滴まで絞り出させるつもりだ。最近は書くのが恐くなる時がある。これを書いてしまったらJohn to the worldどころか、どんな小説も書けなくなるのではないか・・・・とは前にも書いた。つまりもっと恐くなったってこと。
  どうでもいい話だけど、チャーリーの章を書く前にひとつ章を足した(この辺りが目論見を越えるんじゃないかと予想させる)。3万字くらいの章なんだけど、おぉ・・・・凄く良いな・・・・凄く良い・・・・こんなの書いちゃっていいの? と自画自賛してしまった。聖者の行進を前提にしないと成立しない3万字だが、ここだけ抜き出して短編にして出したいぐらい気に入っている。
 弱音を吐きながら何だかんだで2部もあと3章半で終わり、3部もそれほど長くならないだろう。
 エバーホワイトから大分時間をかけてしまった。三部作の集大成を書きたいなんて意気込んだせいだ(話の繫がりはない)。うん、でもそれぐらい意気込まなきゃここまで書いてこられなかっただろう。緊張感がなければ力も入らないのだ。
 最後の最後に「一体何を読まされたんだ!?」と驚くような結末にしたい。でも、怒られるかな。「こんなもの読ませやがって!」って。とにかく物の善し悪しは脇の置いたとして、すっごく大きくて脳みそから空の天辺まで飲み込まれるようなすっごい小説になるのは間違いない。うん、それは本当。期待は裏切らない。
 でも最後まで書ききれるかな・・・・?

追記:しかし、自画自賛している真論君家の猫がさっぱりなので聖者の行進もさっぱりなのかもしれないなんてことを考えることがしょっちゅうである。でもそんな小説だからこそ私が見捨てずに愛してあげなくちゃダメなんだってことを考えると、共依存の泥濘の底に深く沈んでいるみたいでとっても気持ち良くなる。でも私が聖者の行進を書き続ける意思を持ち続けていれば、いつかは別れる運命なのだ。まるでつらい結末が分かっている恋をしているみたいだ。いつまでも小説を完成させられない人の気持ちが分かったような気がする。このまま時を止めて現状維持を続けたいって思うのは不思議じゃない。そんなことを考える一瞬がないといえば嘘になる。でもいつかは聖者の行進と別れることを考えている冷静な自分もいる。きっと悪い人間なんだろうね。聖者になんてなれない。


『聖者の行進』を書いてみよう week28 殺し合いにも似た執筆 2017/8/23

 執筆ってギャンブルみたいな物だなと思う時がある。今日4000字書けたとしても、明日も4000書けるとは限らない。今日6000書いたら次の日は8000書けたということもある(そういえば最近そういうことないな)。
 今日の執筆は明日の執筆を保証しない。それは理不尽でもあるけれど救いでもある。たとえ一文字も書けない日が続いても、ある日突然脈絡もなく書けるようになることもあるからだ。 あるいは立ち会いにも似ていて、お互いに剣を向け合って立っているけれど、二人がすれ違うとどちらかが倒れている。
 でも執筆の良いところは作者が切られても死なないことだ。それどころか切られたことが喜びに繋がる。私を切ったのはこんなに凄い相手なのかと。だから単純に勝ったとしても素直に良いとは言えないところが執筆にはある。 自分を殺してくれるような相手じゃないと殺す意味はない気はする。でもそういう相手を殺さなければならないという矛盾。 半年の間、聖者の行進と毎日首を締め合っていると負けることが快感になる瞬間がある。予想外に書けてしまうと、もしかして書かされたのではないかと不安になることさえある。私が弱くなったのか、聖者の行進が強すぎるのか。それはまだ分からないことだ。でもずっと負け続けている。 あといくつ黒星を積み上げれば聖者の行進に届くのだろうか。そもそも小説に勝ちなんて存在するのか?
 勝つ負けるじゃなくて、勝ち負けの超越。なんだそれ。でもそういうことなんじゃないか?
 そんなことを考えていた。

『聖者の行進』を書いてみよう week29 さようならチャーリー 2107/8/30

 先週とうとう『聖者の行進』からチャーリに退場願った。元々第二部はチャーリー(元々はチャーリーという名前でもなかった)のためにあったようなものだったので感慨深いものがある。一区切り着いた感があって、ここから第二部の終焉に向けて気合入るのかなと心配だったが、ちゃんと追い上げていけてる。自分でもちょっとビックリ。手加減なしだ。今すんごい物を書いている。むしろチャーリーがいなくなってからが本番だ。 第一部だけでも良いもん書いたな、なんて内心鼻高々だったけど、今書いている章と比べたら月とスッポン。半年も書いていたら変れるものなのだろうか。今まで積み上げたものがあるからそう感じられるのかな。最近『聖者の行進』を書くのが恐い。最後の最後に台無しにしちゃったらどうしようかな。もう第二部で締めちゃえよ、なんて考える時もあるけれど、恐がっている分だけすんごいのが出てきてワクワクする。 とにかく第三部の締めを意識するところまでは書けた。今はここが私の見えている極限ポイント。完全に閉じるか、完全に開放するか、あるいは半分締めるか。完全に閉じれば綺麗に収まるだろうけれど、それだと小さく収まりすぎる気がしていて、でも完全に開放するのも締まりがない気がする。じゃあ半分で締めるか、ということになるのだけれど、これには二通りの締め方があって、う〜ん、どっちも迷うなぁという感じ。はたして牛野小雪は『聖者の行進』を最後まで書ききれるだろうか?


『聖者の行進』を書いてみよう week30 ピカソと村上春樹 2017/9/6

 先月はあんまり書いていないような気がしていたけど6万字書いていた。書いた手応えはないのだけれどコツコツ書いていたのが利いたのだろう。
 休むことは難しい。書かない日、あるいは時間を作った方が結果的に書けることを私は知っている。でもいざ休もうとするとサボっているだけなんじゃないかと不安になる。一日の単位で見ればオールアウトすることが小説に対して誠実のように思えるが、一週間のスパンで見れば不誠実な行為だ。でも現実的に今日は書けなかったという日に、今日はもう書かないぞとはなかなか思えないものだ。
 時々こんなことを考える。小説を書くのは楽しい。楽しいというより充実感がある。ハイパーグラフィアという文章を書かずにはいられなくなる病気があるぐらいだ。もし仮に心の中を言葉にして吐き出せるサービスがあるなら一時間5万円は取れるんじゃないかと思う。でも実際に1時間執筆して、本当に書いている時間というのは5分もなくて残りの55分は書けない時間を過ごしている。書けない時間はとても苦しい。一日0字だと死にたい気持ちになる。だから誰も小説なんか書かない。逆に言えば小説家というのは書けない時間を過ごしているから価値があるのではないか?
 この世に価値がある物は、他では手に入らない物と、誰もやりたくない手間のかかることの二つ。一般的な小説の価値は前者であるが、後者の価値もなくはない。ただ供給量が多いからタダに近くなっている。
 私は執筆中に雑感帳というノートを書いている。これなんかは小説が書けない日でも書ける。むしろ書けない日の方が多く書いているぐらいだ。書くこと自体はそれほど難しくないのかもしれない。でも雑感帳を読み返すことは少ない。書くことを楽しんでいる文章は読んでいて面白くない。自己啓発っぽいネットの記事や本では作っている側が楽しめなきゃ良い物は作れないなんて言うけれど、圧力のない文章はやっぱりダメだ。雑感帳の文章を見ていつも思う。つい最近同じようなことを書いている人がいて、ちょっと嬉しかった。こんなことを考えているのは私だけかと思っていた。
 筋トレだって負荷をかけなきゃ筋肉はつかない。サッカーで何もないところにシュートできることなんてまずない。常にDFやゴールキーパの圧力がある。F1だってギリギリのライン、ギリギリのスピードを攻めて走る。だからこそ人を引きつける力があるんじゃないか。
 だけど、だ。圧力があるとか、文学的に言えば『魂がこもって』いれば、あるいは『魂を削れ』ば正しいのか。いや、もっと踏み込んで考えれば小説に正しいことを求めているのか?
 実は正しいことにあぐらを書いてサボっているのかもしれない。
 努力は素晴らしいことだと言われている。同時に努力の跡が見えるのは二流だとも言われている。私は今まで圧力をかけることに熱中していて、圧力の跡を消すことは意識していなかったので今回は推敲する時に「コイツ、鼻くそほじりながら書いたんじゃないか」と言われるぐらい圧力を消すことを意識しようと思っている。ピカソの絵は子供が書いたみたいだと言われているし、小説の世界でも村上春樹は「俺でも書ける」なんて言葉がよく聞かれる。私もそういうところを目指してみよう。
 今回は速い文体で書くとか3つのラインで回すとか色々あって色々大変だけど、でもとりあえずは初稿を仕上げないとね。やっと第二部の最後の章まで来た。
 長編を書いていると、現実との奇妙な一致があったり、偶然の出会いがあったりする。それはいつもほのめかしの様なものであったり、極々些細なことであったりするのだけれど、今日もまたそういう出会いがあった。そんな偶然や奇跡が重なって、たぶんきっと聖者の行進は小説的には成功するんじゃないかな。これを書いたことで胸を張れるような。って、そんなことは最初に書いていたか。
 日記帳を読み返していて真論君家の猫を書く前のところを読んだ。これは途中で書けなくなるかもしれない、なんて聖者の行進と同じことを考えていた。それなら最後まで書けるんじゃないかと思うのだけれど、心情的には最後まで書ききれないと思っている。でも聖者の行進はもうじき終わる。脳みそでは分かっている。でもまだ全然そうは思えない。


『聖者の行進』を書いてみよう week31 小説のアイデアはどこから湧くの? 2017/9/13

 自分でも何故書いたのか分からない部分があって、それでも消すには何かおかしい気がして、そのまま書き進めているうちに最後の最後になってようやく繋がるということがある。
 小説のアイデアは自分でも分からないところから湧いてきて、それはたいてい心の死角から育ってくる。そんなことをターンワールドのあとがきに書いた。
 先日受信メールを整理していると、そのターンワールドについてのメールを見つけた。そこにはターンワールドは書ききれなかったところがあったけれど、今の自分には書けない物なのでホップ・ステップ・ジャンプで段階的に書いていこうと思っていると書いてあったので、ちょっと驚いた。聖者の行進もホップ・ステップ・ジャンプじゃないか。私がその時考えていたのはJohn to the worldという小説なのだが(この時はまだ名前すらなかった)、その裏側で育ったのが聖者の行進なのかもしれない。
 ということはJohn to the worldは書けないまま終わるのかなと思いがちなのだが、実は聖者の行進を書き始めてからJohn to the worldの構想が動き始めた。裏が表となり表が裏になったのだ。小説のアイデアに詰まれば別の小説を書くのが良いのかもしれない。
 もしかすると近いうちにお目見えするかもしれないが、実は5月頃に聖者の行進が行き詰まっていた時に別の小説を書いていた。そんなことしている場合じゃなかったのだけれど、思い切って書いてみたら聖者の行進も書けるようになったので、書く必要もないのにたくさん書いてしまった。
 もうじき第二部も終わり。なんだかんだでエンドが見えてきた。執筆を開始したのは31週間前だが、雑感帳によると構想を形にし始めたのは1月23日からだから、今年は聖者の行進と過ごした一年になりそうだ。


『聖者の行進』を書いてみよう week32 最後の跳躍? 2017/9/20

 聖者の行進を書くにあたって決めたことがひとつある。それは『後からひらめいたことは絶対に正しい』ということだ。基本的にプロットに沿って書き進めるが、途中でプロットを破壊するひらめきが降ってきても、そちらを優先するということだ。 第三部を書き始めてそろそろ締めが見えてきたところで、まさかのひらめきがやって来た。台風が来て雨風が雨戸をドンドン叩いていた夜だ。おいおい冗談だろ、そんなのありえないって最初は無視しようとしたけれど、布団に入って考えているうちにやっぱりそうしなきゃな、と思い始めて、結局考えていたラストは無しになってしまった。どうやって終わらせるんだよ・・・・と不安になるがしかたがない。
 そもそも『聖者の行進』はここまで書くつもりはなくて、チャーリーが死んで終わりの長い中編が、チャーリーの出番が遅くなって、最後に出会うはずの二人が出会わなくて、そうやってプロットを壊しては立て直すことを続けてきたのだから、最後の最後もすんなり書けるはずがあるまい。なんだか反抗期の不良を手なずけようとしているようだ。「聖者君・・・・予定ではこうなるんだけど?
 そんなことしたら牛野君が困るよね?」「知るかよ、バカ。後はてめぇで考えろや。じゃあな!」みたいな。
 今のところは最後まで聖者が出てこない予定だ。なら、なぜ『聖者の行進』なのか。もしかするとこの小説は本の中にではなく本を読んだ人に聖者を見出すのではないかと考えたことがある。行間が文字の間ではなく本の外にある感じ。でも、もしそうでなければ名前倒れの小説になってしまう・・・・それとも最後に「おぎゃあ」と聖者が生まれてくるのか?


『聖者の行進』を推敲してみよう week33 獣性でも理性でもなくお化けみたいなもの 2017/9/27

 やっと終わった! 33週目にしてついに書き終えた。358,343字にて初稿完成。本当に終わるなんてちょっと信じられなくて半日ぐらい呆然としていた。
 去年の私に言ってやりたい。「ちゃんと書けるから、33週間もかかるけど」って。
「33週間も書けない、死ぬ」って去年の私なら言いそうだけど。 そういう意味では中編として書き始めたのは心の深いところで自分に嘘をついたんだろうな。最初から大きい物だとは感じていたけれど、こんなのは絶対に書けないと思っていたから「まぁ、牛野君、短くして書いちゃえばいいじゃないか。本命はJohn to the worldなんだろう?」という感じで。
 最初から35万字だと分かっていたら絶対に書かなかった。 聖者の行進を書き終わって考えたのは、理性と獣性の果てには孤独に死ぬしかなくて、その先に行くには幽霊性が必要なんじゃないかということ。幽霊性は別に幽霊じゃなくてもいいんだけど、直接的には『幽霊になった私』でアキを死なせないため出てきた幽霊とか『ブラッド・エグゼキューション』のギャルっぽさでもいいし『ヒッチハイク』みたいにトラックのエンジンから茹でたカニが出てくるシュールさでもいい。明確な形や言葉にはできないけど、そんな感じのもの。『聖者の行進』は小説的にはかなり書けたけど、このラインを進んでも、そう遠くない場所で行き詰まると感じた。まだもうちょっと踏み込めそうだけど一寸先の闇に断崖しか待っていないと感じる。そもそもそれは『黒髪の殻』から感じていた。やっぱり『幽霊になった私』とか『ヒッチハイク』みたいな方向で書くべきだ。それを意識的に捉えられたところに書いてきた意義があるのかな。本当に長い寄り道だった。 さて0を1にする作業は終わった。ここからは推敲だ。牛野小雪Season2最後の小説にするつもりだから最高の最低傑作にしてやりたい。

『聖者の行進』推敲してみよう week34 小さな奇跡が重なってそれでどうなるって言うんだい? 2017/10/4

 執筆をしていると色んな偶然や発見が起きる。この前伊東なむあひさんが出した『49のパラグラフに及ぶリロの素晴らしき生涯』を読んでいると、あとがきにこれは第二期の集大成と書いてあって、『聖者の行進』が牛野小雪season2最後の作品というのもあって、ちょっとした運命の重なりを感じてしまった。 他人ではなく自分のことだけど、私はエクセルに執筆の文字数を記録していて、一番左の行には日付があって、それは10月2日まで記されていた。なぜ10月2日だったのかは分からない。8月の初め頃にセルを伸ばして、まぁそこぐらいには終わっているだろうと何故か思ったのだ。そして推敲の一周目が終わったのがちょうど10月2日。ここでもちょっとした運命の重なりだ(でも推敲自体はまだ続く。ほんの些細な偶然ということ)。 他にもまだ奇妙な重なり、あるいは偶然がある。あえて記さないが中には信じてもらえないようなことも起きた。私も信じられなかったので、日記に書いたほどだ。 ただの偶然、まぐれ、思い違い。色々可能性はあるけれど、それらがきっかけになって度々立ち止まった『聖者の行進』をふたたび書けるようになったのは私の中の真実だ。大きな奇跡は起きなかったけれど、小さな奇跡がたくさん起きた。 この小説は自分だけの力で書いた小説ではないという気がする。神も聖者も出てこない小説だからメフィスト・フェレスと契約でもしたんだろうか?
 悪魔も出てこないんだけどなぁ。 ある本に高等数学の世界では0から1を作ることは不可能だと書かれていた。意味は分からなかったがライプニッツの数式が書かれていて、分からないまま読み進めていくと、その数式は収束しないから間違っているなんて書かれていて、さらに分からなくなったが、執筆って0を1にする作業で基本的に奇跡だなと思った。
 執筆に再現性はない。たぶん私のノートを見て誰かが『聖者の行進』書いても、私が書いた『聖者の行進』にはならないだろうし、私自身がもう一度『聖者の行進』を書けば、また別の物ができあがるだろう。そう考えていくと究極的には小説の執筆って技術じゃないんだな、と嬉しいような恐ろしいような気持ちになる。小説は理不尽な奇跡だ。

『聖者の行進』を推敲してみよう week35 軽くて早い文体 2017/10/11

 今回は軽くて早い文体にしようと思っていて、執筆の最初期はヘミングウェイの『われらの時代』を何度も読んだ。
 それとスタインベックの『怒りの葡萄』。
 日本の作家だと村上春樹の『風の歌を聴け』
 ああ、そうだ。夏目先生の『こころ』も読んでいた。本としては猫が良いが、文体はこっちが軽くて早い(←こういう言い方すると語弊があるなぁ)。何度か読んでいると猫よりこころの方が教科書向きだと分かってきた。 そもそも軽くて早い文体とか言っておきながら、俗に言う『文学的』になっているかもしれない。途中でいくつかそういうところがある。でもそれは悪いことではないと感じた。ヘミングウェイを飲み込めなかったのではなく、ちゃんと飲み込んで自分の物にしたのかな。 さらにもう一つ、文章の視点を揺らそうと試していて、自分で読めばちゃんと揺らせているのだけれど、それは親の贔屓目で、ただ単に揺れているだけかもしれない。こういうことは疑おうと思えばどこまでも疑える。最後は自分を信じるしかない。 さらに、さらに、聖者の行進は主人公がいない小説にした。群像劇というのもちょっと違う。あえて大雑把に言えば三人の人間が出てくるけれど、それが三つのラインが一つの小説にまとまらなくて空中分解しているのではないかという不安がある。 色んなことを試しすぎて大丈夫かな、と思うけれど推敲を一周終えて、二周目に入るとこんなに凄い小説書いちゃって良いんだろうかと震えるぐらい手応えがある。あぁ、書いて良かったなと感激する。でもこれもやっぱり疑おうと思えばどこまでも疑える。 不安でも自信があっても自分の実力以上の物は書けないわけで、手を抜かずに推敲していくしかないんだと結局はそこに行き着く。基本的に三周目は見直し程度の事しかしないから、二周目でどこまでやれるかだ。 今回は一度死んで生まれ変わったぐらいに思っているけれど、全然変わっていなかったらどうしよう。あるいは死んだきりだったりして?

『聖者の行進』を推敲してみよう week36 紹介文を考え始めた季節 2017/10/18

 推敲の良いところはゴールが見えていることだ。いくら苦しんでも聖者の行進は26章で終わる。逆に言えば26章まで頑張らなければいけないという事だけど、見えている壁と見えない壁はどちらが苦しいだろうか。 推敲の2周目は11章まで終わった。そろそろ上巻分が終わるので、内容紹介を考えなければならない。そこで今回は二つのバージョンを作ってみた。ひとつは内容をお固い文章で、もうひとつは柔らかく。
◎お固いバージョン
町へ出るトンネルの出口で美男美女の二人が殺された
無軌道に犯行を重ねるまさやんと追いかけるタナカ
しかしそんな事とは別に破滅の車輪は回り始めていた


◎感性が試されるバージョン
あした世界が終わるとしても私は私であり続けた
おめでとう、ありがとう、そして、さようなら
神に救われる価値のない魂は孤独な沈黙を貫いた
 上のお固いバージョンにもあるように、聖者の行進の第一部ではまさやんという男が人を殺して、それを刑事のタナカが追いかけるのだが、三行目にあるように小説全体で見れば全然関係ない。小説全体の世界観は下のほうがよっぽど表している。でもこれじゃあ全然伝わらないよなぁ。内容紹介って難しい。 これを書いている時が11章の2周目、後半の章は字数が多いので残り3分の1。さて、今月中に3周できるだろうか。締切があるわけじゃないけど一年ぶりの長編という形で出せたらいいな。

『聖者の行進』を推敲してみよう week37 『夏目漱石先生の追憶』の追憶 2017/10/25

 相変わらず『聖者の行進』の推敲をやっている。最後の章は他の章と比べて短いので1日おきに推敲していたらどんどん短くなって、八百字ぐらいになると読み味が散文詩っぽくなってきたので文章を書き足したのだが、詩で終わって何の問題があるのかと思い至ると最後の章を詩に書き直した。
 そうすると頭の中でピョンピョンとインパルスが走り、夏目先生の言葉が思い出された。寺田寅彦の『夏目漱石先生の追憶』という本にはこうある(←青空文庫にあるよ)。
「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」
 なるほどなぁ、詩についての言葉ではないが、文章を煮詰めていくとそういう風になるのかと思った。先生の言葉が思い浮かぶとさらに文章を絞れて、俳句(575)にはできなかったけれど124字にまでできた。もうこの三行だけで『聖者の行進』で良いんじゃないかと思えたほどだ。

 な~んて、書いたけど1日経って読み返したら、詩としては弱い気がしたので小説できちっととどめを刺すことにした。生兵法は怪我の元。


『聖者の行進』を書いてみよう Week38 体でドクシャーの波を感じろ 2017/11/1

 やっと推敲二周目が終わった。先月の始めに二周目を開始したのでほぼ一ヶ月かかったということになる。正直一周目はどうなるんだろうかと不安になったが、二周目を終える頃にはだいぶ良くなった。でもこれは読むことに慣れたからかもしれないと思う時もある。何故なら作者は文章の背後にある文脈を把握しているのだから、文章がまずくても読めてしまうからだ。
 前にも書いたが、こういうことはいくらでも疑える。人間の想像力はたくましい。『聖者の行進』が世界で一番素晴らしい小説だと思い込むこともできるし、ゲロ以下の文章と想像することも可能だ。
 たとえ他者の反応があったとしても、やはり疑うことは可能である。世界中から酷評されても世界一と思うこともできれば、世界中から絶賛されてもそう思えないこともあるだろう。想像力に限界はないのだ。
 そんなことを考えていると、体は限界のある存在で、世界に存在する可能性は一つしかないということに気付いて『聖者の行進』の目次に手を当ててみた。
 すべすべした冷たい感触が腕の神経をはい上がってきて、胸がドキドキした。イケる、イケるよ。これこそが『聖者の行進』のリアルだ。たった一つの真実なんだ。きっと読者(ドクシャー)も同じことを体感するに違いない。聖者の行進を読むと心が空へ飛んでいくんだ!
 と、胸を弾ませたのだが、一日経つと何も信じられなくなった。あの時感じた胸の高まりは本物だったのだろうか。真実は小説の神だけが知っている。人間は迷い続けなければならない。


『聖者の行進』を推敲してみよう Week39 やっぱり最高の最低傑作 2017/11/8

『聖者の行進』は『黒髪の殻』と同じくらい七万字、伸びたとしても10万字を目標に書き初めて、それが35万字まで伸びて、そこから25万字にしたわけで、最初の想定の5倍膨らんで7割に縮めた感じだ。最初はこうなるとは思っていなかったし、初稿ができた9月末もまだそうなるとは思っていなかった。なんなら先月の中頃でもまだどうなるか分からないまま推敲していたが、一度削りすぎた時に(あっ、これはやりすぎだな)と文章を戻したことがあって、それで失敗してもちゃんと小説の方で反発してくれることが分かると、極限までやってみようと大胆になった。
 10万字も削って大丈夫かなと思うのだけれど、行くところまでは行けたという達成感はある。今回は重さに頼らない小説にしようと決めていて、初稿は軽くて早い文体を意識したし、推敲では重さを抜くことを意識した。9月の末にとんでもない物を書いたという達成感があったが、今月はとんでもない物に仕上げたというまた別の達成感があった。
 自分史上最高の何とかはいつも不振に終わるわけで、力み作の『グッドライフ高崎望』も最高傑作の『真論君家の猫』も全然振るわずに今に至るわけだが、今回は自分史上最高の最低傑作にできたと思う。
 これ以上ないぐらい全力で間違えてみた。第一部なんて視点の統一がされていない。第二部も3分の1がそう。小説作法としては最悪の手法で書いている。小説の新人賞に出したら一次で落とされるレベル。でも全力で書けば無理を通せるんじゃないかと挑んでみた。自分なりにはかなりやれたと思っている。でも自己満足かもしれない。しかし無謀を通せるのがセルパブの良いところじゃないか。それにもし成功すれば、あえて視点の統一をしないことで小説の幅を広く持てるようになる。
『聖者の行進』が小説的に成功するかどうかは分からない。だけど、小説家としては大きな成果が得られたとは感じている。それだけで満足・・・・・いや、やっぱり売れて評価されると嬉しいなぁ。
 実はこれを書いている時にはもう完成しているのだが、どうせなら一年ぶりの新刊というわけで上巻は11月10日に、下巻は11月13日に出版することにした。11月いっぱいは99円にしておくので、これを機会にぜひ読んでいただきたい。上巻だけでも一年前の牛野小雪とは違っていることが感じられるはずだ(違ってなかったらどうしよう・・・・)。
 牛野め、無茶しやがって・・・と哀悼するのもよし、あるいはすげえもん書いてきやがったと驚くのもよしである。今年の牛野小雪は何かが違う!町へ出るトンネルの出口で美男美女の二人が殺された
無軌道に犯行を重ねるまさやんと追いかけるタナカ
しかしそんな事とは別に破滅の車輪は回り始めていた
体育館で穴掘りの仕事を始めたタクヤ
ユリの手を引きながら焼け跡を歩くナツミ
二人はそれぞれ巨人と神の言葉を聞く


レビューとか