blood execaoution ver1-3
 去年の12月からよしもと原作開発プロジェクトに出す短編を書いていた。題名は『ブラッド・エグゼキューション』。『それゆけアキちゃん!ゴーゴーゴー!』という案もあったが、表紙の文字入れがどうしてもうまくキマらなかったので仮題のままでいくことにした。
最近『幽霊にならなかった私』を読んだ人ならピンときたかもしれないが、主人公は同じアキという名前で、話としては幽霊にならなかった私の話である。書き終わったのは一週間以上も前だが、色々あって今まで伸びていた。

 今回はちょっとだけ人の手を借りることにした。表紙をどこかから(
PIXTAからがほとんどだが)調達してくるのではなく、中身の方でだ。こういうことは初めての試みだ。 ちなみに表紙は自分で書いた。作中の挿絵に文字入れしただけなんだけど。

 人の手を借りるまでにはかなりの時間が必要だった。 正直言って牛野小雪の小説を一番分かっているのは牛野小雪だけで、たとえ村上春樹が同じ材料を持って書いたとしても、この小説を一番うまく書けるのは私だけという思いがある(
←傲慢だな)。それじゃあどうして人の手を借りる必要があるのだろうかと一週間ぐらい悩んでいた。

 もし何か言われたら殺してしまうかもしれないとか、ヤバいことも考えていたけど、どうせネットの向こう側にナイフは届かないし、顔や住所を知ることができても本当にそこまではやらなかっただろう。でもそこまで思いつめていた(
じゃあやめればいいのに)。

  では、どうして牛野小雪は他人に手を貸してもらえるようになったのだろう。それは私にも分からない。はっきりとした理由があって声をかけられるようになったわけではないのだ。ずっと悩んで迷って思い詰めていると、ある時すっと気持ちがどこかに抜けて、やれるところまではやってみようという気持ちになった。何か気に食わない言われても殺すことはないだろうとも思った(
殺せないだろうけど)。

 とある縁で、ある人に声をかけると軽い感じで承諾してくれた。それでブラッド・エグゼキューションの原稿を読んでもらった。いくつか指摘があって、なるほど確かにそうだと思えるところもあれば、そのままにしたところもあるし、いくつか意見を交わしてある形に落ち着いたところもある。半々というところだろうか。

 結果的には声をかけてよかったと思う。でも私はどうしてあんなに思いつめていたんだろう。

  思うに、私は誰かに意見を求めるということは相手の存在を丸ごと全部100%受け止めなければならないと思い込んでいたのかもしれない。だから、自分が受け入れられる物ならともかく、受け入れられない言葉が出た時に『私が死ぬか、お前が死ぬか』みたいな状況になるのを恐れていたのだろう。

 実際に蓋を開けてみれば、どちらもほどほどに死んで、ほどほどに生きたのではないだろうか。総体的に見ればプラマイゼロではなく活きが良くなった。摩擦のあるところにエネルギーありということか。でも、あの思いつめた状態で声をかけていたら、こうはなっていなかっただろうとは思う。


 ↑というのは私の推測で、他人の心が分からないように、自分の心にも自分では分からない不可侵の領域がある。そういうところで何かが収まるところが収まったのだろう。なんだかんだで良い方向に転んだ。ただそれだけの話。ブラッド・エグゼキューションは良い小説ですよ。それではまた。

(2017/01/22 牛野小雪 記)

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