よう、俺だ。ヘリマルだ。おまえら、もし仙台で働くような事があれば隙間社だけはやめておけ。第一印象は“怪しい”だろうが、事実それは正しい。真っ当な顔をして実は……という事がないので、ある意味良心的かもしれない。仙台で働くなら白昼社へ行け。あそこは良心的だ。給料も良いし、定時で帰れる。俺だってチャンスがあれば入りたい。

ヘリマル2

  東京と比べれば仙台なんて秘境のような場所だ。東北の都会と言ってもしょせんは地方都市。どんぐりの背比べに過ぎない。それでも通勤帰宅ラッシュは存在する。俺は寿司詰めの電車で職場と自宅を往復している。ここでは精神がマトモなやつから病んでいく。一度見てみろよ。みんな死んだ顔している。こんな奴らもいざ外へ出た途端に正常な人間へ戻るから恐ろしい。

 

 先日、空いている時間の電車に乗る事ができた。あんな会社でも時には定時前に帰してくれる事がある。社会人はまだ少なくて学生が多い時間だった。俺のように病んだ青春を送っていそうな奴は一人もいない。どいつも真っ当に生きて、仙台か東京の大学へ行って、白昼社みたいなホワイト企業に就職して、健やかな人生を歩むのだろう。真っ当な人生の可能性にあふれていた。俺はもう四十路を越えた。若さはとうの昔に蒸発している。現状維持できればそれで良しとしなければならない。

 

 停車駅が近付くと電車が一度小さく揺れて、次に大きく揺れた。その拍子に吊り輪から手がすっぽ抜けた。おまえら、年取るとこういう事があるから若いうちに鍛えておけよ。オッサンになると筋トレしても筋肉はつかないからな。その代わり脂肪はV8のエンジンを積んだみたいに膨れ上がる。聞いただけで恐ろしいだろう? とにかくそのすっぽ抜けた手は大きくすっ飛んで柔らかい物に触れた。俺は顔を上げて人生が終わったと思った。

 

 俺の手は女子高生のおっぱいをがっしりと掴んでいた。しかもギャルっぽい。ヤバイ。鉄道警察に連行され、裁判にかけられ、最低の隙間社からも放り出される俺の姿が一瞬にして脳内に流れた。俺は社会不適応者だが、とうとう前科が付くのだ。社会の真っ当なレールから外れることが確定した。だがそのギャルっぽい女子高生は叫びもしないし、騒ぎもしなかった。俺は“すみません”と頭を下げて、おっぱいから吊り革に手を戻した。

SAKI5

 俺は窓の外を見ていたが意識は女子高生に向いていた。彼女が俺を見ているような気がする。何気なく目を向けると体を正面に向けて俺を見ていた。さっきはショックで声を出せなかったが、次の駅で俺を捕まえる気なのかもしれない。俺は大量の汗を脇と汗から流していた。

 

 電車が駅に着くと俺は何食わぬ顔をして電車を出た。女子高生は俺と一緒に電車を降りた。さっき流した汗が外気に当たって、氷みたいに冷たくなった。走って逃げるのはやましいことを認めたようなものだ。俺は何事も無い様に改札まで行ったが、軽い足音が後ろからついて来るのを背中で感じていた。

 

 改札を抜けても彼女はぴったりと俺の後ろについてきた。駅を出てもついてくる。帰る方向が一緒というわけではないだろう。明らかに後をつけてきている。それでも俺は歩き続け、人が少ないところまで来るとやっと振り返ることができた。

 

“なんでついてくんの?”
女子高生は俺が振り返ったことにちょっと驚いた顔をしていた。
“なんでついてくんの?”
また同じ事を言った。俺は彼女としばらく目を合わせていた。彼女は口を緩ませて
“さっきおっぱい揉んだ”
と言った。背中から汗が噴きだしてきた。

 俺は何も言い返せずに、回れ右して歩き出すと、女子高生もついてきた。居場所を突き止められるんじゃないかという恐怖があったが、俺は何故か部屋に帰ろうとしていて、すぐに近所のコンビニまで来た。X+エクスタシ。10年前まで日本中にある店だと思っていたが、実は仙台にしか存在しないらしい。

 

 俺が今の部屋に越してきた時にその店舗も開店したが、二年もしないうちに潰れた。近所の不良共が万引きしすぎたからという噂を、通りすがりに耳にしたが本当のことかどうか分からない。不良共がいるのは本当で、その時俺が通った時も三人の柄の悪そうな奴らが照明の消えた寂しい店舗を背にタバコを吸っていた。俺とは別次元で真っ当なレールを外れようとしている奴等だが、こちらが何もしなければむこうも何もしてこない。

 

“えっ、マジマジ!?”
“マテマテマッテ! スッゲエ可愛いじゃん!!!”
見た目より幼い声が後ろから聞こえた。やはりまだ若いのだ。振り返ると俺をつけていた子が少し離れた場所で不良達に絡まれていた。
“ね、どこ高? 俺達と一緒に遊ぼうず”
 “ヤッベ、ハハハハ、ヤッベ、”
とはしゃいでいる。彼女は俺を見ていた。不良達は脅すようなナンパを続けている。
“帰るところだから”
と彼女は言った。
“いいって。まだ夜は始まったばかりだし”
“家も近いし” “それじゃ一緒に帰ろうぜ”
と不良達は無茶な事ばかり言っている。さすがに何度も視線を送っていたからか、不良の一人が俺に気付いた。それをきっかけに残りの二人も俺を見て、三人一緒に近付いてきた。

 

 ヤバイ気配を感じたが俺は動けなかった。三人の中で正面にいた奴が顔を俺の目の前まで近付けてきた。一瞬キスするんじゃないかと思ったが、キスしたのは奴の拳で、俺の頭を思いっきり横に殴り抜けた・・・・らしい。

 らしいというのは目の前が真っ暗になってどうなったか分からなかったからだ。
“オラァアアアア!”
この時ばかりは幼さが消えてドスの効いた声だった。そういえば不良に絡まれたのは人生初だ。あいつらマジで話が通じない。火星人が人間の姿をしているんじゃないかってぐらいコミュニケーションができない。俺は続けて殴ったり蹴られたりして、目も開けていられなくなった。
“コラアァアァァァ!” “ナメンじゃねえぞ、オッサン!”
“死ねや、カス”
そんな感じで不良達は叫びながら俺を蹴り続けていた。

 

 目を開けても視界は真っ暗なままだった。俺はゴミ箱の中に体を突っ込まれていた。燃えるゴミの方だというのは入れられる前に見た。3人がかりだった。いざ修羅場になると何にもできないってのは本当だな。ケンカで一番強いのは躊躇無く人を殴れる奴だ。

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 ゴミはゴミ同士ゴミ箱の中でヘイトし合っている。俺もゴミは嫌いだ。だが変な具合に体を突っ込まれてゴミ箱から出られない。クソッ、マトモに死ぬとは思っていなかったが、ゴミ箱に体を突っ込んだまま死ぬなんて想像もしなかったぞ。こんな最低な死に方をするんだなと嘆いていたら
“オジサン、生きてる?”
と声がした。

 

“おーい、助けてくれ!”
俺は叫んだ。ゴミ箱の中に情けない40男の声が響く。
“どうしよう?”
と頼りない言葉と声が帰ってきた時は殺意が湧いた。人間、下手に希望があると怒りや絶望を感じるらしい。
“何でも良いから引っ張ってくれ”
と俺は言った。頼りない手が俺の足首を掴んだ。

 

“ムリ、全然動かない”
ちっとも引っ張っていないのに声の主が言ったので、本気で殺したくなった。
“ベルトを持て。それで思いっきり引っ張れ”
と俺が言うと
 “なにそれ、上から目線。自分で出ればいいのに”
と冷ややかな声が返ってきた。このまま一人残されると恐くなった俺は
“頼む。出られないんだ。助けてください。引っ張ってください”
と頼んだ。
“マジ笑える”
馬鹿にするような声がゴミ箱の外から聞こえた。不良共が綺麗に俺を殺してくれなかった事を俺は恨んだ。
 

 今度はベルトを掴まれる感触があった。俺も目の前にあるゴミを手で押して何とか出ようとする。少し体が動いたと思ったら、ゴミ箱も一緒に動いた。夜の町にゴミ箱が派手にひっくり返る。だが視界は夜の暗さに戻っていた。俺は年代物のゴミと一緒にゴミ箱から脱出する事ができた。

 

“うわっ、サイアク。制服についたんだけど”
女子高生が制服を手で払った。俺の後をつけていた子だ。
“あいつらは?”
俺が訊くと
“あいつらって?”
と、とぼけたような事を言った。
”ここにいた不良達だ”
“知らない。私、避難してたから。オジサンっておっきい体してるのに弱いんだね”
また女子高生が笑った。その笑い声にサイレンの音が混じる。
“ヤッバ、早く逃げよ。ケーサツが来る”
この時の彼女はさっきまでの余裕が無くなってマジだった。
“なんで?”
と俺が言うと
“私が呼んだから。DQN達が10人ぐらいバット振り回してるって”
俺は痛む体をひきづってその場から逃げた。

 

 俺は自分の部屋に逃げ込んだ。俺は一緒に逃げ込んだ女子高生を見た。入れとも言っていないのに勝手に入って
“ここってオジサンの家?”
と訊いた。
“なんでついてくるんだよ”
俺がそう言ったそばでパトカーが近くに停まった。
“だって電車で痴漢したじゃない。あっ、ちょうどケーサツもいるし、どうしようかな?”
女子高生が立ち上がったので、俺は玄関のドアを守るように立ちふさがると、彼女は勝ち誇るようにニヤついた。

 

“オジサン、なんて名前?わたしサキ”
彼女の問いに
“マルヲ”
と答えると
“それって本名? 何だか芸名みたい”
と言われた。知るか。親が勝手に付けた名前だ。俺だってこの名前を気にしないようになるまで30年かかった。それからお互いに年齢を教え合った。サキは17歳らしい。高校生なら当たり前だが俺は驚いた。ケバい化粧が年齢を隠していた。サキは俺の部屋にある物を勝手にいじっている。俺の
“帰れよ”
の言葉に
“本当に帰っていいの?”
だ。頭二つ慎重が低い女子高生に俺は精神的に負けていた。ドアから動く事ができない。

 

 しばらくするとサイレンの音が遠ざかっていった。
“もう帰れよ”
と俺は言った。ずっと居座られそうな気がしたが、彼女は
“それじゃ帰るね”
と立ち上がった。彼女を玄関で見送り、姿が見えなくなると俺は立っていられなくなった。不良達にやられた体がようやく痛んでくる。

 

 数日後、俺が会社で最低の仕事を終えて部屋に帰ってくると、玄関のドアにサキが座っていた。
“おっはー”
 10年以上前のネタを使う女子高生は変な気分がした。
“なんでいるんだよ”。
“遊びに来たの”
“帰れ、俺は仕事をした後なんだ”
“ひどい。私のおっぱい揉んだくせに!”
サキがアパート中に響く声を出したから俺は彼女を中に入れた。

 

“何か食べたい”
というので、ポテトチップスのコンソメパンチを食わせてやった。俺もカップヌードルと一緒に食った。変な緊張で俺が麺をつまらせると
“ダサい……”
とサキは小声でののしった。かっこいいオッサンなんていない。いつかはお前もオバサンになる。俺だってオッサンになるとは思わなかった。なったとしてもかっこいいオッサンになると思っていた。
 

 サキはスマホをいじりながらTVを見ていたが、俺が風呂に入っている間に書き置きを残して部屋を出ていた。そこにはこう書いてある。
“これ、ワタシのLINE”

 LINEの連絡先を残していったという事はまだ俺につきまとうつもりか。冗談じゃない。明日も朝早いっていうのに複雑な事情を抱えて眠れるわけがないと俺は思ったが、最低の仕事をした後は不思議と寝つきがいい。今日も例外ではなかった。

 

 会社の同僚に牛野小雪という男がいる。女みたいな名前だが男だ。あれを本当のイケメンというのだろう。時々やつにときめいている自分に気付いて恐くなる。俺は彼にサキのことを説明した。女のことなら解決してくれそうだったからだ。

“ウンコを漏らせばイチコロだよ。若い子なら一瞬で逃げていく”
最初に受けたアドバイスは俺の斜め上だった。こんな事を言うから、奴は人間のふりをした火星人なんじゃないかと思う時がある。

二言目にはこうだ。
“女子高生につきまとわれるなんてご褒美じゃないか。付き合っちゃえよ”
駄目だ。こいつじゃ話にならない。でも他に話せる相手もいなかった。

解決策がないまま部屋に帰るとサキがいた。しかも怒っていた。

 

“どうしてLINEに連絡くれないの!”
サキが大きな声を出した。俺は彼女を部屋へ入れた。まさか毎回この手を使うつもりじゃないだろうな。サキはテレビを点けると自分の家みたいにくつろぎ始めた。
“帰れよ”
“どうして?来たばっかじゃん、笑える”
俺は晩飯を食うことした。
“オジサン、毎日それ食べてるの?”
カップヌードルをすすっているとサキが言った。目はスマホに向けたままだ。
“なに喰おうが勝手だろ”
“なんだか冴えないオッサンみたい、超ダサい”
オッサンはメシを食っているだけでダサくなってしまうらしい。

 

 俺はサキの顔を見た。まだ若い。若いという言葉がまだ早いほどだ。幼さが残る顔は化粧を薄く弾いている。無理して大人ぶろうとしているようだった。牛野め。こんな子と付き合えるわけないだろ、犯罪じゃねえか。

 

 俺はカップヌードルをすすった。なんてマズイんだ。健康と寿命を引き換えに明日へ命をつなぐ食事だ。この子が言うようにたまには美味いもんを食った方がいい。明日もう一度カップヌードルを食ったら死ぬような気がする。明日は天ぷらうどんを食いにいこう。くそっ、結局油物か、どうやら俺は思考まで不健康にできているらしい。

“オジサン、さっき私のこと見てたよね?”
サキがTVから目を逸らさずに言った。俺はすすりかけの麺をブハッと容器に戻してしまった。
“見てたよね?”
今度は俺の顔をはっきり見て言う。
“見てねえよ、バカ”
“絶対に見てた。うわぁぁぁぁぁぁ、気持ち悪い。私、こんな汚い部屋でオジサンにレイプされるんだ。ヤダー、オジサンの子どもなんて生みたくなーい!”
サキが立ち上がって、わざとらしく脅えた。立ち上がった瞬間にブルーの下着が一瞬だけ見えると
“いやー、パンツまで見られた。そこだけはやめてー!”
と叫んだ。こいつ、細かいところまで気付いていやがる。それならここからいなくなって欲しいという気持ちにも気付いて欲しいものだ。彼女は脅えた顔でスカートを股の間に挟んでいたが、とても楽しそうだった。

“もし俺が本気で襲ってきたらどうするんだ?”
サキが悲鳴を上げ続ける中で俺はやっとそう言い返した。
“オジサンはそんなことできないもんね”
彼女は笑ってTVの前に座り込んだ。“しない”じゃなくて“できない”か。俺はカップヌードルを流しに捨てに行く時に、ことさら勢い良く立ち上がったのだが彼女は“やっぱりできない”と笑った。

 SAKI4

“そろそろ私帰るね。帰りが遅いとお母さんが心配するし”
さんざん俺をからかった後で、珍しく向こうから帰ってくれることになった。
“この部屋汚いね、ゴミぐらい捨てたら?”
という小言もオマケにつけて、部屋に貯まったゴミ袋を軽く蹴った。
“もう来るなよ”
“また来たくなったら来るし”
しかしサキは明日も明後日も彼女は来なかった。俺は毎日部屋へ帰ってくるたびにほっとしたが、ほんの少しだけ寂しさも感じた。

 

 隙間社から人がいなくなるのは珍しい事ではない。牛野小雪もついに姿を消した。あのイケメンですら姿を消えたことに俺はショックを受けている。イケメンはこの世の常識から外れていると思っていた。無性に連絡を取りたくなったが俺はやつの連絡先を知らないことに気付いた。ネットで偶然やつと同姓同名のGoogle+アカウントを見つけたので呼びかけてみたが返事はない。軽い喪失感を抱えながら部屋の前まで帰ってくると、まだゴミの日ではないのに、大量のゴミ袋がゴミ捨て場に捨てられていた。俺の住んでいる場所はロクな場所じゃないが最低限のマナーは守られていた。しかし、それも今日まで。どんどん規律は崩れてゴミのような人間が集まってくる。俺もその中の一人だろう。それでも俺は怒っていた。世の中を悪くするやつはみんな嫌いだ。誰にも迷惑をかけずに一人で死ねばいいのに。

 

 玄関の鍵を開けるとドアが開かなかった。それでもう一度鍵をひねると開いた。どうやら鍵を閉めずに出て行ったらしい。ドアを開けるとゴミ袋が消えて部屋が片付いていた。
“おかえり”
部屋の奥からサキが出てきた。
“なんでお前がいるんだよ。まさかこれ・・・・”
俺が言葉に詰まると
“うん、汚れていたから片付けておいた。ゴミ袋も貯まっていたから出しておいたよ”とサキは笑った。

 

“てめえ、勝手なことしてんじゃねえぞ!”
俺が怒鳴るとサキから笑顔が消えた。
“超汚いから掃除してあげたんでしょ!”とサキは怒った。
“ここは俺の部屋だ!俺がどれだけ汚そうが俺の勝手だ!”
サキは今までに無いぐらい大人しくなった。前髪が垂れて顔は見えない。
“泣いてるのか?”
“知らないっ! おじさんのバカっ!”
 サキは俺の部屋を出て行った。サキのスマホが机の上に置かれていた。すぐに取りに戻るだろうと思っていたがスマホはいつまで経っても机の上に残されたままだ。俺は毎日それを見ながらカップヌードルをすすった。
 

 それから3ヶ月が経った。その間に3人の人間が隙間社に入ってきて、5人が消えた。牛野小雪とはまだ連絡が取れない。俺が最低の仕事を終え、駅に行くとサキが立っていた。俺を待っていたらしい。
“おっはー、おじさん。ひさしぶり。元気してた?”
サキは昨日会ったばかりのように話しかけてきた。
“なんだよ、お前。もう来ないかと思ってた”
サキは急に沈み込んで静かになった。変な雰囲気だ。だが、このまま立ち去るのも変だった。
“オジサンのとこ行こうよ”とサキは言って先に歩き始めた。
 簡単に断れない響きがあって、俺は彼女と一緒に歩く事にしたが、俺達は一言も喋らずに並んで歩き続けた。

 

 X+エクスタシが近付くと俺は彼女の手を引いて、別の道へ引き込んだ。
“えっ、なに。私とうとう犯されちゃうの?”
“バカ、そんなわけあるか。こっちが帰り道だ”
あの日以来俺はX+エクスタシの前を避けていた。
サキは不審そうな顔はしていたが俺についてきた。
“本当に変なとこいかない?”
暗い公園の近くを通るとサキが言った。
“行くわけないだろ”
“オジサンとだったら行っていいかも”
俺は背筋がゾクッとして振り返った。サキは俺の顔をまっすぐ見ている。どこか深いところへ無限に落ちていくような感覚があった。
“あっ、ブランコ”
サキは俺から目を逸らし、公園のブランコに座った。
“オジサンってブランコしたことある?”
“誰だって子どもだった時がある”
“オジサンも一緒にやろ?”
サキは楽しそうにブランコを漕いでいたが、俺にはそれが悲しいぐらい表面的な物だと理解できてしまった。二人の間にブランコのきしむ音が響く。

SAKI3

“一人でやってもつまんない”
サキはブランコを漕ぐのをやめた。
“何かあったのか?”
長い沈黙に耐え切れなくなって俺は口を開いた。
“エミちゃんって知ってる?”とサキは言った。俺は首を振った。
“英語の先生と付き合ってるんだって。卒業したら結婚するって言ってた。本当かな? ”
“そりゃ犯罪だろ”
“だよね。私もさ、げぇって思った。そりゃあオウキ先生はイケメンだけど、30歳だよ、30歳!”
サキは俺が顔も見た事もないオウキ先生の年齢を強調するが、俺にとって30歳はまだ若い。
“私ね、年上を好きになるって言っても2つか、3つ、それぐらいだと思っていたから一回り離れた相手を好きになるなんてありえないと思ってたけど、オジサン見てたらそれもアリかな、なんてね”
サキが小さくブランコを揺った。

 

 なんてこった。俺は確信してしまった。俺は今、二回りも歳の離れた女子高生に告白されようとしている。空を見上げると月が俺の代わりに発狂していた。やけに黄色い光が俺の目の奥をくすぐってくる。
“ね、オジサン。私ね……”
サキが喋っている途中で俺は
“もう帰ったらどうだ、遅くなるとお母さんが心配するんだろ?” と遮った。
彼女は機先を挫かれてしばらく黙っていたが
“ゴメン、でも今日が最後だから” とまた口を開いた。
“最後って?”
“あたし、山形に引っ越すんだ……明日”
“どうして急に?”“急にじゃないよ。3ヶ月前から決まってた”
それっきり俺達は喋らなくなった。サキはブランコさえ漕がなかった。

 

“山形なんて行きたくないっ!”
突然サキが俺の胸に飛び込んできた。彼女の無防備な背中が俺の目の前で震えている。俺があと20歳若ければ、いや10歳でもいい。俺はこの背中をしっかりと抱きしめていただろう。でも俺は彼女の両肩に手を置いて、ただ泣くがままにさせた。サキの体中から若さが蒸発している。そのにおいは俺の体を燻し続ける。だが俺の心に火はつかないだろう。20年の月日はそれだけの距離がある。

 

“山形だって悪くないさ”サキが落ち着いてくると俺は声をかけた。“山形に行ってもサキなら上手くやれる。友達だってできる。もしかするといい男とだって出会えるかもな”“いい男って?”そう言ったサキは俺の胸から顔を離さない。

“若いうちから本を読んでいるような真面目なやつ”

“本って?”

“江戸川乱歩”

“乱歩? そんな人聞いた事ない。……その乱歩君はイケメン?”

“もちろんイケメンだ。髪は金髪で長く伸ばしている。サキより長いかもしれない”

“本を読んでいる真面目な人なのに?”

“ああ、若いうちから乱歩を読むやつは100人に1人もいない。頭のネジが一本ぐらい取れていてもおかしくはない、それに……”

“……それに?”

“乱歩君もいつかはオジサンになる”

 胸の中でサキが笑った。

“俺にだって若い頃はあった”そう言うと”私、オバサンになりたくないな……”とつぶやいた。

 

“ねえ、オジサン。私がいなくなったらどうする?”
サキはいつもの明るい声に戻っていた。
“毎朝仕事に行って、カップヌードルを食って、ベッドに横になったらまた朝だ”
“……ねえ、それって楽しいの?”
楽しくなくても生きていく。若いサキはまだそれを知らない。知らないで過ごせるなら一番いい。
“オッサンに楽しい事なんてないよ”
“なにそれ”
サキは俺の胸から顔を離した。彼女はもう泣いていない。若さは涙を顔から弾いていた。ほんの一瞬だけ俺は20年の隙間があることを忘れた。彼女はきっと今日流した涙を糧にこれから強く美しく成長するだろう。


 俺とサキは公園で別れた。彼女は別れ際に言った。
“オジサン、絶対に後悔するよ、オジサンにとって最後のチャンスかもしれないんだから”
もう後悔している。ガラスの破片が胸を刺してくるようだった。しかし俺は
”山形でも頑張れよ”と言って彼女を見送った。
彼女は一度も振り返らずに歩き続けて、俺の人生から消えた。もう二度と会うことはないだろう。

 

 それから3ヶ月が経ち、桜が咲いた。俺は相変わらず隙間社とかいう怪しい会社で働いている。サキのスマホは机に置かれたままだ。あいつは仙台の思い出をここに置いて山形に行った。

 40年生きていれば時々こんな嘘みたいなことが起こる。俺も若い頃に聞かされたら与太話だと思っただろう。でもこれは本当のことだ。淡波亮作ならきっと理解できる。さっ、新年早々始まった俺の昔話はこれで終わりだ。じゃあな、おまえら。付き合ってくれてありがとう。本年もよいお歳を。じゃあな全世界。

(おわり)

追記:写真素材 ぱくたそ【https://www.pakutaso.com
モデル 大川竜弥 河村友歌

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