今年の8月に星新一賞に応募して、それからまた何か書こうとしている時に藤崎ほつまさんが文学会か、群像か、どちらに出そうか迷っていた。ブログを読んだ感じでは文学会になりそうなので、よし、それじゃあ私は群像に出してやろうと密かに計画していた。

9月10日から原稿を書き始めて10月8日に初稿を書き終わる。プロットでは6万字の構成で作り、予定通りに予定が狂って全部で84,030字。そこから19日まで推敲して84,121字にする。たった90字しか増えていない。いつもは消したり書いたりで結局増えるので何だかキツキツだと感じる。あと二万字あったらなぁとも思ったが、もしそれだけ余裕があったら、それに合わせて話を考えていたはずで、また二万字あったらなぁになったはずだ。とにかくこの話はこうなる運命だったのだろう。


一回目の推敲でこれは凄いぞと最初の1ページに目を通した瞬間は感じた。その感覚は一通り推敲した後に消え去る。これは駄作だなと思いながら3回目に砂鐘大河さんが言っていたので原稿を印刷して推敲を終わらせた。するとまたこれは凄いぞと再び感じられるようになった。

そこから原稿を印刷してすぐに出したわけじゃなくて実は迷っていた。私みたいなのが本当に出してもいいのかな、相手に失礼ではないのかな、そもそもこれって純文学なのかな、とか色々考えていたわけで、わざわざ馬鹿みたいな物語を書いて自分の気持ちを上げなければ出す事ができなかった。(自分で言うのも何だが意外に面白かったので、もしかするとこの話は形を変えてどこかに出す機会があるかもしれない。おそらく牛野小雪の名義では出さないが)

それで原稿にパンチで穴を開けて、紐で括って、よし出そうとなった時にまたこれは絶対に受からないぞとまたわけもなく思った。それでも、やっぱりダメ元でも出そうと決めて郵送する。封筒を手元から離した瞬間、KDPで初めて出版ボタンを押した時みたいに何か悪い事をしているような気分がした。うわぁ、やってしまった! みたいな。

まぁ、どうせ受賞はしないだろうな。何故か落ちるという自信がかなりあった。さっさと家に帰る。その日は一日中そわそわしていた。興奮していて本も読めない。そんな時でもネットはできるので不思議なものだ。

それでちょうど村上春樹が群像新人賞を取った時のエピソードで、電話がかかってきてどうの~というくだりが目に入ると、ふと思い当たる事があり、急いでPCの電源を入れた。

応募原稿には表紙に重要事項を書き込むように指示されているのだが、私がwordを開いてその表紙を見ると、電話番号の欄がどこにも無かった。これじゃあもし仮に受賞しても電話はかかってこないわけだ。

もうね。頭が真っ白になるとはああいうことを言うのだと実感した。それに何故か物凄く笑っていた。全身麻酔をすると顔の筋肉が緩んで笑っているように見えるというけれど、たぶんそれは本当だと思う。人間、頭が真っ白になると笑ってしまうようにできているのだろう。

下読みの段階ではいかに落すかを考えているから、書類の不備があれば、即落すなんて記事を読んだ事がある。読まれる以前の問題という事だ。ああ、なるほど。やっぱり駄目だったかと分かって妙に納得した気持ちで私は布団に入った。

それから目をつぶりながら色々考えていたのだが、せっかく手間と時間をかけて書いたし、話自体は悪くないと思っていたのだから、こんなつまらない事で終わらせるのは作品に対して悪いという気持ちになった。次の日には表紙を修正して、それと一緒に表記漏れがあったことに対しての謝罪文と表紙を取り替えてくれるようにとお願いする文章を添えて追送する。

原稿はただでさえ多く集まっているだろうから、これ以上増えるのも面倒だろうし、原稿自体はあちらにあるわけで、改めて送ることはしなかった。忙しいだろうから文章も極短くする。

ひょっとすると向こうでは太え野郎だ、こんな奴の小説なんて絶対に読んでやるかと思われているかもしれないが、何もしないよりはマシだと思ったし、それを送る事でそわそわした気持ちは落ち着いた。それだけでも送った価値があるというものだ。

結果がどうなるかは来年まで分からない。駄目なら電話はかかってこないだろう。でもかかってくるといいな。

 

(もうちょっと他に話はあったけれど、多分信じてもらえないだろうから、これでおわり)

 

[2015年10月24日 牛野小雪 記]

群像新人文学賞の結果 

 やっときたよ、この日が。

 はてなの過去記事貼り付けによると166日前に群像新人賞に出したから約半年も待ったわけだ。 

徳島県はジャンプが他県より早く来るが群像は一日遅れで届く。というか地理的に考えてこれが普通。
昨日は結果が早く知りたくて、この時ばかりはプライム会員に入って当日お急ぎ便を使おうかと考えた。

 結果から言うと落選。一次にも残っていない。うむ。群像の壁は厚い。

 負け惜しみを言うなら落選して良かった気がする。肩の荷が下りた気分。

 投稿作は純文学ってこういうのを書けばいいんだろ? みたいな気持ちで書いた(純文学ってなんだ?)。それにちゃんとした物を書いた気概はある。でも、もしあれで受賞しても、もう一度同じ物は書けなかっただろう。書いている途中で自分が書いてきた物とは違うなとずっと感じていた。書き方は同じだが流れが違うので、いつもとは違う苦しさがあった。だから名前が無かったのはガッカリしたがホッとする気持ちもある。
 結局のところ自分が書いているのは何だろうなと考えたことがある。
 最初の火星行こう〜の原案はガチガチのスペースオペラだった。火星と地球と金星で戦争が起こる話。親子二代の物語だったが、色々と練っている内にあんな話になってしまった。KDPで出す前の管理画面でカテゴリを何にするか決めるのだが、SF……なのか? と作者自身が首を傾げた。同時期に書いたドアノッカーもサスペンスかミステリーかよく分からない。あえてミステリーのカテゴリーに入れているが、絶対にそうだとは断言できない(でもミステリーやロマンスのカテゴリーに入れている)。
Amazonから「お前、あれはロマンスでもミステリーじゃないぞ」と指摘されたら「はい、すみません」とあやまってカテゴリーをキンドル本のみにするしかない。「あれは絶対にロマンスだし、ミステリーです」と弁解できる気はしない。一応書くときはミステリーを意識して書いたけどね。火星はSFを。
 蒲生田岬ぐらいからはもう何かを書こうとは考えていなかった。だから余計にカテゴリーで悩んだ(これもロマンスとミステリーにしてある。ギリギリセーフだろう)。グッドライフ高崎望はもう思いつくカテゴリーが無かった。暴力が出てくるからハードボイルドかなぐらいの気持ちでやっている(その暴力も大したものじゃないが)。

 KDPは出す前に誰も口を出さないし、出した後も基本的に干渉はされない。売れても次の小説を書いてくれとは急かされないだろうし(maybe)、逆に売れなくてもこれ以上は書かないでくれても言われない(really)。とっても自由だ。書きたいものを書きたいように書いている(売れるかどうかは別)。それと同じように今度また群像に出す機会があれば『俺が書いた小説が純文学だ』なんてことも考えずにただ書いた物を出してみたいな。

 (おわり 2016年4月8日 記)


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