愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

タグ:推敲

 今回は仮書きを毎日推敲して、次の日はまた一から書き直している。賽の河原だ。この書き方だと長編はもちろん短編でさえ書き切ることは不可能なので、一章ごと(原稿用紙10枚ぐらい)に書くことにした。

003 take10


 一章はtake10。つまり10回書き直してからwordに打ち込んだ。約4000字。最初はプロットを書いていた期間もあるので、この先数字が増えることもあるだろうが、プロットを書き始めてからここまで来るのに延べ平均70字/日だと分かった。遅い遅いと思っていた『流星を打ち砕け』でさえ800字/日はあったからとんでもない遅さだ。

 推敲はまず一通り書き終えてからやるべきと色んな作家が言っている。まったくその通りで、毎日推敲していると小説を書き進める力が明らかに弱くなったのを感じる。『生存回路』から書けなかった日は一日もなかったが、今回は三年ぶりに書けない状態を味わっている。

 一文字も書けなかった日の夜なんかは、小説一冊を書くのに、こんなに手間と時間をかけて良いのだろうか。とんでもない浪費をしているのではないかという疑問が湧く時がある。それでもまた一から書き直して推敲する。推敲すればしただけ良くなっているような気がする。疲れで背中にべったりと暗い重力が張り付いていても、そこだけはみずみずしい手応えを必ず感じられる。

 season3の執筆はとことんやるがテーマだ。得るものが労力に見合わなくても、やると決めたのだから、やれるところまではやってみるつもりだ。

(おわり)

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 最近コロナウイルスで世間が騒いでいるけれど、去年の二月はインフルエンザで何日か布団の中で震えていて()、熱に浮かされている時に、ヘミングウェイのように一年寝かしたらどうなるのだろうという考えが頭をよぎって、その時は絶対にするわけがないと思っていたが、本当に一年寝かしてしまった。熱で頭がおかしくなったのかもしれない。

 久しぶりに『山桜』を読むと、当然ながら去年の熱はもうなくて、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、多少書き直したところはあった。そこは去年からどうしようかと迷っていたところで、一年経ってみれば迷うほどのことはなかったし、書き直した後でもう一度読み直しても、やはりそうするべきだと思えた。問題点(迷うぐらいなので、明確な問題だったというわけでもないが)は去年のうちに掴んでいたのだから、その時にもう一歩踏み込んでいれば同じ結果だったかもしれないし、やはり一年時間をかけなければ書き直せなかったかもしれない。人生の二つのルートを同時に歩むことはできないので分かるはずはないが、ただこれが良い小説なのは間違いない。でもいつ出すのかはまだ分からない。徳島公園の桜はもう咲いてしまったし、そもそも題名に桜とついているが春の桜を見る話ではないし、とか色々考えているが、ストックしておくのが一番良い気がする。いつでも何かしら出せる状態であるのは気持ちに余裕が出て、精神的に良い。

 表紙の方は一季節に二つか三つのアイデアをひらめくので、フォトショップのファイルが13個もある。jpegファイルは70個(バージョン違いがほとんど)だ。これは最高だ! と毎回思っていたが、いつもそれを超えてくれたのはありがたい。小説は表紙込みで一年寝かせた方が良いのかもしれない。


》おわり 2020年2月28日(金)牛野小雪 記


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 パリ・レビューによるとヘミングウェイは毎日書いた物を推敲していたらしい(もちろん原稿になってからも推敲した)。そんなやり方でまともに小説を書けるんだろうか。書いている途中で推敲すると明らかに筆が鈍る。『流星を打ち砕け』も最初は毎日推敲していたが、どんどん書けなくなったので、千秋がユニコと再会する辺りでやめた。そこからはぐんぐん書けるようになった。でも書けることが偉いことか?

 私達は小説家が一年に何冊も本を出すことに慣れていて、昔の作家は、一年に一冊、あるいは数年に一冊というペースで書いていたことを忘れている。それも大長編ではなく文庫本で言えば小指より細い一冊の本をだ。

 Season3はもっと小説に対して真摯に取り組んでみたい。仮書きの段階でも毎日推敲してもいいのではないか。勢いに頼らずに書いてもいいではないか。むしろ勢いで大事なことをごまかしているのではないか。そんなことを今は考えているが、いざその時が来たら進みの遅さに耐えきれなくなって推敲を後回しにするかもしれない。

 小説はもう書いてしまったので、今は雑感帳や日記を毎日推敲している。それで何かがすぐに変わるとは思えないけれど、10年後にはどこかに到達できているのかな。

(おわり)

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funny dance4

 山桜は詩が入っている。というより途中から詩の注釈で小説を書いているような気がした。詩なんて去年までは全然詠んだことがなくて最初は手探りで書いていたけれど詩の原理 歌よみに与ふる書 はかなり啓蒙された。あとサラダ記念日 は教科書で習った短歌の既成概念を壊してくれて衝撃的だった(というか最初は短歌だと気付かなかった)。あと勝手に7×4という形のニューポエムを作って詩を書いた。短歌や俳句だけだと馬脚が現れるから、ある種のごまかしだ。でもちょっと間延びした感があるなとは思った。短歌のリズムが体に染み付いているからからもしれない。

 夏目先生の『吾輩は猫である』の中にも詩が割り込んでくる。その中に新体詩というのが出てくるのだが、短歌とも俳句とも、種田山頭火的な自由律とも違っていて(山頭火って日本詩の歴史では事件だったんじゃないか)、かなりぶっ飛んでいる。どういう経緯で生まれてきたのだろうと不思議だったのだが、この前ふと読んだ本に夏目先生が東大生の時にウォルトホイットマンの詩について論文を書いているというのを発見した。明治時代は西洋文化が流入していて、西洋詩の形態が日本詩にも吸収されていた頃だそうだ。つまり西洋詩≒新体詩ということ。なぜ=ではなくて≒なのかというと、冬来たりなば春遠からじ、という文言を使いたくて、元ネタは誰なんだろうと調べるとシェリーというイギリスの人が詠んだ詩だと分かった。しかし件の春来たりなば~というのは原文とニュアンスが違うというのも発見したからだ。それにしても、冬来たりなば(7)春遠からじ(7)でちゃんと七音になっているのは訳者凄いと思った。韻もちゃんと踏んでいる。昔の人って本当に凄いな。新体詩までは手が出なかった。でもいいんだ。吾輩だって「東風君もあと十年したら、新体詩を捧げる非を悟るだろう」と言っていたし日本詩的にはたぶんセーフ。

????「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留とめがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」


 この前、口伝で小説は残らないが詩は残るということを書いた。それでふと川端康成の『雪国』の冒頭だけ読んでみた。《国境のトンネルを抜けると、そこは雪国であった。夜の底が白くなった。》とあり、詩的な文章だと思った。

 次に『山の音』の冒頭を開いてみると《尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるようにも見える。》と散文的だ。文庫本の解説には戦後文学の最高峰に位する名作小説だと書かれているが、結構最近まで私は知らなかった。それで読んでみると『山の音』が全然良かったので、どうしてこっちが雪国より有名ではないのだろうと不思議でならなかったのだが、冒頭の詩的さが足りないからではないかと思った。

 そういえば綿矢りさの『蹴りたい背中』の冒頭は《さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。》だ。
 又吉の『火花』は《
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。》
 これはもう書き出しは詩にするべき! 
 そう思ったけれど、冒頭を詩にできないところに詩才のなさを痛感した。でも村上春樹の『ノルウェイの森』は散文的だったので、やっぱり関係ないのかな。散文は散文、詩文は詩文なのかもしれない。上の文章も散文的には詩的だが、詩的にはかなり散文的だ。小説家と詩人は似ているようで両者の間には超えがたい溝があるのかもしれない。

 先週までの推敲はいかにも手を加えている感じがあった。今週はあえてやる必要もないようなことばかりやっていた。パソコンに触れたのは合計1時間もない。そのくせ推敲の効果は今週が一番あったように感じている。神は細部に宿るという。でも本当はコンコルド効果じゃないか。8万字を読み通すにはどうしても1日以上かかってしまうから、それが無駄であって欲しくないという気持ちから、おお、たったあれだけのことなのに、こんな変化が起こせるのか、なんて感じで。字数でいえば40とか50字の世界なのに、それで全体に変化が起きるなんて、ちょっと信じられないな。頭が熱くなっている。でもまだやる。

(おわり)


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 ドアノッカーの改稿が終わると、ブラッドエグゼキューションがちょろっと読まれていたのでそっちを先に改稿することした。2万字強なので数日で終わってくれた。その次は蒲生田岬へ。

 やっぱり今年書いた物だとドアノッカーと比べて全然違うと感じた。改稿の手応えもかなりある。次に書いた蒲生田岬でも上手くなったなとすぐに分かった。という事は過去作の改稿なんかしてないで、新しい小説を書いた方が割が良いんだけど、世に出してしまったからには少しでもマシにしてやらなければという責任感で改稿している。

 まぁ、でも誰に急かされるわけでもなし、世間的には存在していないのと同じで、過去作の改稿といっても実質は新作を書いているような物だ。そう考えると面白い。

 でもさ、何かしら小説で掴んだ物があるたびに改稿していたら、改稿だけで何年もかかっちゃうわけで、どうしようかなと思っている。今のところは半年で済みそうだけど、今の三倍四倍と出していけば、改稿の手間も三倍四倍になる。本当の意味でリリースしていないのかな。それとも電書だからそうなってしまうのだろうか。

 全作改稿は去年からやっていて、でも真論君家の猫の改稿が終わった後に、どうしても聖者の行進を書かなければならないという気持ちになったので中断している。結果的にはこれで正解だった。あのまま全作改稿していれば聖者の行進を書いた後に、また改稿したくなっただろう。

 ああ、そうだ。聖者の行進の後は何も書ける気がしなくて、真論君家の猫を書いた時と同じなので、そこからどうやってターンワールドを思いついたのか知りたくて日記帳を読んでいた。どうやら真論君家の猫を出した二週間後、散歩中に突然ひらめきが降ってきたらしい。何の参考にもならない。

 と、思っていたのだが、聖者の行進を出してちょうど二週間後、散歩中にひらめきが降ってきたので、ちょっと恐くなった。

 どの小説も自分で書いたと思っているけど、実は目に見えない、耳に聞こえない不思議なリズムに操られているような気がする。自由意志なんて本当にあるんだろうか? 実は誰かに書かされているのいるのかもしれない。たとえば神とか。あるいは悪魔とか。

 メフィストフェレスと契約した覚えはないんだけどなぁ。

(おわり 2017/12/09 牛野小雪 記)

追記:ブラッドエグゼキューションでLINEが出てくるのだが、もうダサい感じがする。こういうのは流行を追いかけずにメールぐらいにしておく方がいいのかもしれない。
god devil cat

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 インターネットはどこかで誰かがしょうもない情報をあげていることで、調べれれば何でもあるという状態が維持される。でも、近所のサイクリングロード脇にある用水路にカメが何匹いるか計測しているサイトは存在しなかった。検索したら本当に無かったので逆にびっくりしたぐらいだ。インターネットにはもっと猥雑さが必要とされている。
 誰の役に立つかは分からないが、ここには『火星へ行こう君の夢がそこにある』を10版に改訂したので、わりと大きめな修正した内容を解説しておく。かといって何百文字もあるようなのは省いた。それと誤字と細かいところも。

(旧版)
火星四輪車は電気で動く大きなタイヤのバギー車で、電力は宇宙船の太陽光パネルで充電したバッテリーから供給される。満タンまで充電して三時間の運転ができると説明書には書いていた。

(10版)
火星四輪車は電気で動く大きなバギー車で、宇宙船の太陽光パネルからバッテリーに充電する。満タンまで充電すれば三時間運転ができると説明書には書いていた。

1.タイヤが大きいから火星四輪車もデカイという部分だが、火星四輪車自体が大きければタイヤもデカイだろうということでタイヤを消した。
2.正確には宇宙船のバッテリーから火星四輪車のバッテリーに充電するのだが、ちょっとまどろっこしいので電力の流れをパネルからバッテリーへ直結した。
3.三時間の運転ができる → 三時間運転ができる
 のをつけた方が良い様な気もするけど、こっちで通じるならこっちの方がすっきりする。ちょっと自信がなかった。


(旧版)
「ごくろうさまでした、これから船は地球から離れ火星へのコースを取ります」

(10版)
「ごくろうさまでした、これから船は火星へ向かうコースを取ります」

“地球から離れ”を消す。

(旧版)
一年前に火星行きの宇宙飛行士を募集する求人広告が出た。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット。あらゆる媒体で募集がかかった。『火星へ行こう、君の夢がそこにある』が火星行きの宇宙飛行士を募集する宣伝文句だった。

(10版)
一年前に、火星行きの宇宙飛行士を募集する広告が、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット、あらゆる媒体で流された。宣伝文句は『火星へ行こう、君の夢がそこにある』


1、二つの文を一つにまとめた
2、火星行きの宇宙飛行士を募集するが同じ段落にあるので、後ろの方には消えてもらった。宣伝文句はタイトルと同じ。煽るだけ煽ってどんな夢があるのかはさっぱり分からない。あくどい求人広告にありそう。従業員としてではなく請負契約にされるタイプ。「頑張ればがんばった分だけ給料がもらえる!」って煽る。

(旧版)
一郎は大学を卒業してからまだ一度も働いたことが無かった。大学を卒業してから一年間は何をするでもなく過ごしていた。

(10版)
一郎は大学を卒業してから一年経つが、まだ一度も働いたことが無かった。この一年は何をするでもなく過ごしていた。

大学を卒業してからが同じ段落に二回ある。こういうパターンが多い。探せば他にもあるかも。

(旧版)
三男の一郎が、三郎ではなく一郎なのは両親が子供の数は必ず三人にすると決めていたからだそうだ。最初の子どもに三郎と名付けて、二郎、一郎とカウントダウンしていったらしい。つまり、一番に生まれたから一郎ではなく、最後の一人だから一郎という名前だそうだ。男の子なら数字の後に郎を付ければ良いが、女の子だったらどういう名前にするつもりだったのかは分からない。

(10版)
なし

この後、両親が大きく物語に関わってくるわけでもないので、こういう家族の小話はいらないと判断した。その代わり一郎が火星に行くきっかけになる二郎の小話は残しておいた。それと一郎自身の小話も。

(旧版)
ゲームをするのに戻って、また一時間経った頃にパソコンからデータを読み込む音が

(10版)
ゲームに戻って、また一時間経つとパソコンからデータを読み込む音が

ゲームに戻るってなんだ? でも、こっちが自然だよな。一時間経つのは火星と地球の距離が遠いから。でも本当は40分で済むんだ・・・・(もちろん距離によって変わるけど。でも飛ばすのは電波なので一時間も必要ない)。四十分だと字面が悪いから一時間にしてしまった。きっとこの世界では火星まで一時間かかる電波があるんだと思う。それか受信する時に特殊な処理で時間がかかるのかもしれない。

(旧版)
旅館の仲居さんが夕食の膳を部屋に持ってきて、いませんか、と声をかけた。一郎はいますと声を出し、窓を閉めて部屋の明かりをつけた。明かりをつけると窓から富士山が消えて、部屋と一郎の姿が映った。

(10版)
旅館の仲居さんが夕食の膳を部屋に持ってきた。

  ここだけ抜け出すと意味が分からないので解説をすると、主人公の一郎が閉鎖実験を終えて旅館に泊まったときに窓から見える逆さ富士を見るために部屋の明かりを消していたわけだ。だから仲居さんが夕食の膳を持ってきたときに部屋の明かりがついていないので、いませんか、と声をかけている。で、明かりを点けると、窓に部屋が映って富士山が見えなくなるという場面。だからなんだって話なんだが。
 どの版で消したのか覚えていないが、一郎が月を見て、さらにその向こうにある火星に思いをはせる場面がある。(意外に覚えているものだ)


(旧版)
その雲をずっと見ていると頭がふらふらしてきたので、これはのぼせたぞと一郎は思い風呂から出ようとしたが、やけに体が重く、立ち上がるのが苦しいのでそのまま這うようにして風呂から出た。体から力が抜けて頭も腰もくたびれて露天風呂の脇に座り込んだ。体の熱が空に抜けていく感じがしたのでしばらくそのままでいて一郎はのぼせが治まるのを待った。頭がすっきりしてくると体が冷えたので、もう一度風呂に入ってから風呂を出た。

(10版)
なし

旅館のお風呂に入っていたらのぼせてしまうという話。『火星へ行こう君の夢がそこにある』には必要なさそうだったから削除。でも面白いと思うよ。風呂でのぼせて、ほうほうの体で湯船から出ると、風呂場でぐったりしてしまって、今度は体が冷えてきたので、またお風呂に入る。でもこの話には必要ないかな。本当にそれだけの話だもの


 KDPセレクトだと内容の10%まで(規約が変わっていなければ冒頭からではなく全体の10%)を公開しても良いことになっているけど、あとでもめるのは嫌なので、このへんで大事をとっておく。


 見返すとばっさり削った段落がある。うん、でも書いた時は必要だったと思うんだな。初版を読み返すとやっぱり文章が弱い印象を受ける。真っ直ぐなだけだと倒れそうなので脇に補強を入れていたんじゃないかな。でも版を重ねるごとに筋が通ってきたので補強がかえって浮き上がってきて邪魔になったのかもしれない、というのが私の判断。
 地文の会話部分に「」を付けていない部分が多くあって(付け忘れたわけじゃない)、せっかく時間と手間をかけて改訂するのだから10版では付けようかどうか迷ったが、やっぱり付けないことにした。そこは初版を書いた私の意思を尊重。でも、今書いたなら「」を付けるだろうなぁ。


独占販売
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 2016年5月24日に確認

余談:紙の本みたいに売れたら版を重ねるわけではないので、10版になってもさしてめでたい話でもない。 それだけ手を加えたというだけのこと。電子書籍に重版なんてないのだ。

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トンネルを抜けるとのコピー

『幽霊になった私』を出してから、過去の作品にも手を加えているので、もうかなり長いこと改稿している。そうすると他人はどう書いているのか気になってしかたない。ネット上の文章はともかく、普通に十冊以上も本を出している小説家でも後半は意外に気の抜けた文章が多いことに気付いてしまう。何度も読んでいる好きな本なのになぁ。純粋な気持ちで本を読めないのは損だ。それと同時に長編を書く難しさを感じる。でも今回は冒頭の話。


“国境の長いトンネルを抜けるとそこはもう雪国であった”


もしこれを川端康成の『雪国』冒頭の文章だと思った人は残念ながら間違い。
正確には


“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。”

“そこはもう”は必要ない。

 でもなぁ、ノーベル賞を取った人にケチをつけるのもなんだけど、どう読んでもこれだと素っ気無い気がするんだよなぁ。何か物足りない気がする。

 よぽっどの文章オタクでないかぎり、ほとんどの人が上の文章で覚えているはず。

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