愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

タグ:川端康成

funny dance4

 山桜は詩が入っている。というより途中から詩の注釈で小説を書いているような気がした。詩なんて去年までは全然詠んだことがなくて最初は手探りで書いていたけれど詩の原理 歌よみに与ふる書 はかなり啓蒙された。あとサラダ記念日 は教科書で習った短歌の既成概念を壊してくれて衝撃的だった(というか最初は短歌だと気付かなかった)。あと勝手に7×4という形のニューポエムを作って詩を書いた。短歌や俳句だけだと馬脚が現れるから、ある種のごまかしだ。でもちょっと間延びした感があるなとは思った。短歌のリズムが体に染み付いているからからもしれない。

 夏目先生の『吾輩は猫である』の中にも詩が割り込んでくる。その中に新体詩というのが出てくるのだが、短歌とも俳句とも、種田山頭火的な自由律とも違っていて(山頭火って日本詩の歴史では事件だったんじゃないか)、かなりぶっ飛んでいる。どういう経緯で生まれてきたのだろうと不思議だったのだが、この前ふと読んだ本に夏目先生が東大生の時にウォルトホイットマンの詩について論文を書いているというのを発見した。明治時代は西洋文化が流入していて、西洋詩の形態が日本詩にも吸収されていた頃だそうだ。つまり西洋詩≒新体詩ということ。なぜ=ではなくて≒なのかというと、冬来たりなば春遠からじ、という文言を使いたくて、元ネタは誰なんだろうと調べるとシェリーというイギリスの人が詠んだ詩だと分かった。しかし件の春来たりなば~というのは原文とニュアンスが違うというのも発見したからだ。それにしても、冬来たりなば(7)春遠からじ(7)でちゃんと七音になっているのは訳者凄いと思った。韻もちゃんと踏んでいる。昔の人って本当に凄いな。新体詩までは手が出なかった。でもいいんだ。吾輩だって「東風君もあと十年したら、新体詩を捧げる非を悟るだろう」と言っていたし日本詩的にはたぶんセーフ。

????「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留とめがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」


 この前、口伝で小説は残らないが詩は残るということを書いた。それでふと川端康成の『雪国』の冒頭だけ読んでみた。《国境のトンネルを抜けると、そこは雪国であった。夜の底が白くなった。》とあり、詩的な文章だと思った。

 次に『山の音』の冒頭を開いてみると《尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるようにも見える。》と散文的だ。文庫本の解説には戦後文学の最高峰に位する名作小説だと書かれているが、結構最近まで私は知らなかった。それで読んでみると『山の音』が全然良かったので、どうしてこっちが雪国より有名ではないのだろうと不思議でならなかったのだが、冒頭の詩的さが足りないからではないかと思った。

 そういえば綿矢りさの『蹴りたい背中』の冒頭は《さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。》だ。
 又吉の『火花』は《
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。》
 これはもう書き出しは詩にするべき! 
 そう思ったけれど、冒頭を詩にできないところに詩才のなさを痛感した。でも村上春樹の『ノルウェイの森』は散文的だったので、やっぱり関係ないのかな。散文は散文、詩文は詩文なのかもしれない。上の文章も散文的には詩的だが、詩的にはかなり散文的だ。小説家と詩人は似ているようで両者の間には超えがたい溝があるのかもしれない。

 先週までの推敲はいかにも手を加えている感じがあった。今週はあえてやる必要もないようなことばかりやっていた。パソコンに触れたのは合計1時間もない。そのくせ推敲の効果は今週が一番あったように感じている。神は細部に宿るという。でも本当はコンコルド効果じゃないか。8万字を読み通すにはどうしても1日以上かかってしまうから、それが無駄であって欲しくないという気持ちから、おお、たったあれだけのことなのに、こんな変化が起こせるのか、なんて感じで。字数でいえば40とか50字の世界なのに、それで全体に変化が起きるなんて、ちょっと信じられないな。頭が熱くなっている。でもまだやる。

(おわり)


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 川端康成はすんごい作家である。

 川端康成といえば『雪国』と『伊豆の踊り子』で語られて、特に前者は”国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。”は百回ぐらいは聞いたことがある。しかしどちらを読んでも肌に合わなくて、しょせん昔の人だからと省みることはなかった。

 それがつい先日何故か本屋にふらりと入り、何故か川端康成の棚を見て『山の音』という本があるのを見つけた。こんな本もあったのかと何故か手に取り、買って帰った。それでぱっとページを開いた瞬間に、あっ、これは『雪国』とは違うぞ、と分かった。それで何ページか読んで、とんでもない物を読まされてしまったなぁと感心した。

 ここ数ヶ月改稿ばっかりしていると(今もしかして私はとんでもない文章を作っているんじゃないか)と思う瞬間があって、内心天狗になる時もあったけれど、川端康成はもう何十年も前にそんな場所を通り過ぎていた。謙虚にならなければならない。まだまだ精進しなければならない。

 その川端康成の文章を読んで、ふと私の中にあるひらめきが降ってきた。比喩は言い切った方が強くなるのではないか。

 そこで『聖者の行進』で試してみた。

 ユリは太陽のように可愛らしい女の子だった。彼女が笑うと世界が明るくなった。

 ↑これをこう変えた↓

 ユリは太陽だった。彼女が笑うと世界が明るくなった。

 もちろんユリは人間の女の子なので太陽ではない。この文章は間違っている。でも、こっちの方が良い気がする。たぶん間違っていない。比喩は言い切る方が強い表現になる。

 というわけで改稿中の『ヒッチハイク!』でも試してみた。

 胸は大玉スイカを詰めたように膨らんでいて、お尻はかぼちゃみたいだ。僕が驚いたのは彼女の顔だ。アスファルトにスイカを叩きつけて、たるんだギョウザの皮を被せたような顔をしていた。

 ↑これを言い切ってみる↓

 胸は大玉スイカで、お尻はかぼちゃだった。僕が驚いたのは彼女の顔だ。アスファルトにスイカを叩きつけて、たるんだギョウザの皮を被せていた。

 ん? う~ん、いまいちか。っていうかスイカで喩えるの好きだな。聖者の行進でも何かをスイカにたとえたような気がする。でもやっぱり下の方が良いような気がするなぁ。明らかにおかしい文章だけど、上より下が良いような気がするなぁ~(←言い切らない)。

 言い切らないことばかり言うけれど、言い切る比喩はもうちょい進化できそうな気がする。でも今のところはひらめきどまりだ。

(2018年4月3日 牛野小雪 記)




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トンネルを抜けるとのコピー

『幽霊になった私』を出してから、過去の作品にも手を加えているので、もうかなり長いこと改稿している。そうすると他人はどう書いているのか気になってしかたない。ネット上の文章はともかく、普通に十冊以上も本を出している小説家でも後半は意外に気の抜けた文章が多いことに気付いてしまう。何度も読んでいる好きな本なのになぁ。純粋な気持ちで本を読めないのは損だ。それと同時に長編を書く難しさを感じる。でも今回は冒頭の話。


“国境の長いトンネルを抜けるとそこはもう雪国であった”


もしこれを川端康成の『雪国』冒頭の文章だと思った人は残念ながら間違い。
正確には


“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。”

“そこはもう”は必要ない。

 でもなぁ、ノーベル賞を取った人にケチをつけるのもなんだけど、どう読んでもこれだと素っ気無い気がするんだよなぁ。何か物足りない気がする。

 よぽっどの文章オタクでないかぎり、ほとんどの人が上の文章で覚えているはず。

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