愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

カテゴリ: 雑感

 今まで雑感帳や仮書きのノートを書く時は1.0mmのボールペンを使っていた。何時間も書いていると0.7mmでは腕が痛くなってくるし、それは後日に持ち越される。本当は1.2mmが良いのだが替え芯の問題がある。店に置いてある替え芯は0.5とか0.3とか細いのばかりでインクが切れたらもう使えなくなってしまうのだ。そもそも1.2mmのペン自体があんまり置いていない。みんな細い字が好きだ。私もそう。

 前作『流星を打ち砕け』で1.0mmの替え芯は全部使い切ってしまった。しかし店へ行くと1.0mmの替え芯どころか、ボールペンも置いていなかった。しかたがないので5Bぐらいの鉛筆で書こうかなと考えていると、ふと万年筆があることに気付いた。

001 万年筆 01


 この万年筆は15年以上前に買った物で、キャップの金具の部分に緑青色の錆が浮いている。一万円もしたので買うのに勇気が要った。太さは中字で1.0mmと同じくらい。私が選んだのではなく店の人が選んだ。ピカピカ光るガラス張りケースの前で「この万年筆をください」と言った時はシュッとしたスタイリッシュな細い字を書ける万年筆を買おうとしていたが、店のおじさんが何を書くのかと訊いてきたので「小説を書く」と答えると、それならこれにしなさいと同じ値段で中字の万年筆に決められた。勧められたのではない。おじさんは声こそ優しかったが、何の説明もなく、もうこれにするからなという雰囲気をぷんぷん放っていたので、細字の万年筆に未練はあったが「じゃあ、それでお願いします」と言ってしまった。平成の時代でも、ひどいことはひどいがおじさんが若い坊主に丁寧な説明なんかしてくれなくても、それはそういうものだと思う時代だった。今でもまだそうなのかな。

 家に帰って箱を開けると、ポクッと優しい音が鳴った。これはいつも買っている筆記用具じゃないぞという感じがした。中には宝石箱のつやつやした布地にリボンで付けられた万年筆。試しにノートに線を引いてみると最初は滑るような感覚に驚いた。でもそれ以上に驚いたのは(やっぱり太い)ということだ。ガラスケースの向こう側で見たスタイリッシュな細い線が頭に浮かんだ。やっぱりあの万年筆に変えてもらおうかと何度も考えたが、結局勇気が出なくて、そのままにした。

 若い坊主が生意気にも万年筆を買いに来たから世間の厳しさを教えてやれ。そういう嫌がらせを受けたのだとずっと思っていたが、あるきっかけで細字の万年筆が手元に転がり込んでくるラッキーがあった。それで細字で執筆していたこともあったが、原稿用紙4枚ぐらいで腕に負担がくるとすぐに気付いた。疲れというかコリも翌日に続く。中字だと20枚近くまでは負担なくいける。そこでようやくおじさんが中字にした理由が分かった。それ以来ノートを書く時もなるべく太い字のペンで書くようにしたら、だいぶ楽になった。

 いや、待てよ。ノートには万年筆使わんのか~い! と思った人がいるかもしれない。そう、事実使わなかったのである。小説を書くために買ったのだから、小説を書く時にしか万年筆を使わなかった。原稿用紙=万年筆である。それ以外にも使えるのではないかと気付いたのは、つい最近のことだ。なんたる頭の固さ。ノートにはボールペンか、鉛筆か、シャープペンシルを使うことしか頭になかったが、万年筆どころか墨を付けた筆で書いてもいい。

 万年筆がボールペンより良いのは、替え芯のmm数を気にしなくてもいいことだ。インクが無くなればカートリッジを代えればいいだけ。どの太さでもインクは同じ。どうして今まで気付かなかったのだろう。頭の固い奴だな、ちょっと笑える話だった。今は何でも万年筆で書いている。これで替え芯を買い溜めしなくてもよくなった。

<おわり>

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 ソクラテスが昼間の市中でたいまつをともしながら「人間はどこだ」と探し回る逸話をノートに書いていて、ふとどういう経緯でそんなことをしたのか気になってgoogle検索してみると、全然ヒットしなかった。おかしいな、とwikipediaでソクラテスを見たり、ソクラテスの逸話、小話、とかで検索してもまったく出てこなかった。そんなわけあるか、絶対にこの話を読むか聞くかした記憶があると絶対の自信を持っていたので、一日中その逸話を探していたが、ネットにも本にも見つからない。

 人は自分の見識と違うことが起きると、超現実を信じてしまうようだ。私はソクラテスが人間を探さなかった並行宇宙に迷い込んだとしばらく信じていた。本当に不思議だが、こんなことがありえるのかと、奇妙に納得していた。しかしふと何故かディオゲネスについて調べたくなり、wikipediaを読むと、ようやく答えが見つかった。私が探していたのは彼だった。ディオゲネスがランタンを灯して「正しい人間はどこにいる」と歩き回っていたのだ。
 
 ソクラテスはディオゲネスで、たいまつはランタンだった。でも私は何故か前者の方が正しいと思い込んでいて(でも本当に並行宇宙に迷い込んだのかもしれない)、それがために一日中何もないところを歩き回されていたというわけだ。ソクラテスに「知っていると思い込んでいるが何も知らない人だ」とdisられてもしかたがない。

 本当に名前については信用ならない。自分の小説の登場人物でさえ名前を間違えるくらいダメだ。どうやったらちゃんと名前を憶えられるんだろう。人の名前はもちろん、ペンネームの牛野小雪でさえ思い出せない時がある。

(未完)

※ちなみにディオゲネスが見つけたのは詐欺師とごろつきだったそうな。

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ヤマザキ春のパン祭り

『流星を打ち砕け』の仮書きノートに『陶器のように白い肌』という月並みな表現を書いた。陶の字が分からなかったので国語辞典で陶器を調べる(ノートは手書きである)と、こう書いてあった。 



1.粘土質の土で形を作り、うわぐすりをかけて低火度で焼いたもの。磁器に比べて焼き締まりが弱く多孔質で吸水性があり不透明。備前焼、信楽焼など。 学研  現代新国語辞典より


 まず不透明というところで引っかかった。陶器のように白い肌というのは、幽霊みたいにのっぺりした白さではなく透き通った透明感のある肌のことだ。特徴として不透明とも書かれているから、この表現は正しくない。それに多孔質ということはザラザラの肌ということで全然美しくない。陶器のように白い肌の持ち主と信楽焼のタヌキは月とすっぽんぐらい違うはずだ。

 参考に磁器というのがあるので、こちらを調べてみると、こう書いてあった。



陶土で形を作り、うわぐすりをかけて高温で焼いた焼き物。焼き上がりは素地がガラス化して半透明となり吸水性がほとんどなくなる。


 透明感があるので『磁器のように白い肌』と表現する方が正しい気がする。しかしそんな表現は見たことも聞いたことがない。それでもう一度陶器の欄を見ると陶器・磁器の総称とある。ということは磁器は磁器だけにしか使われないが、陶器は陶器・磁器両方に使えるということだ。

 なぜ磁器が比喩に使われないのかと考えてみるに、おそらく磁器は高温で焼く必要があるから技術的に作るのが難しく庶民には馴染みのない物だからだろう。確かに磁器のように白いという表現は妙な感じがする。陶器・磁器の違いを調べていると白磁という比喩を見つけたのだが、それもやはりピンとこなかった。白磁とは字の通り白い磁器のことである。それも真っ白なやつ。我が家の真っ白な皿といえばヤマザキ春のパン祭りで貰ったお皿しかない(おまけにヤマパン皿は磁器でも陶器でもなく強化ガラスらしい)。やっぱり磁器は庶民になじみのない物なのだ。


 しかし、何故『陶器のように白い肌』が月並みな表現になるほど普及したのかという疑問が湧いた。陶器が綺麗な肌の形容になるはずがないからだ。

 陶器についてgoogleで検索して色々読んでみる。それで気付いたことがある。釉(うわぐすり)の存在だ。陶器の説明にも釉を塗って焼くと書いてある。

 釉を国語辞典で引くと



光沢やなめらかさを与え、水をはじかせるために、素焼きの陶磁器の表面に塗るガラス質の薬。


 と書いてあった。光沢、なめらかさ、水を弾く。どれも綺麗な肌を形容するイメージだ。ワラ灰を釉薬にすると白色になることも分かった。ワラならどこでも手に入るだろう。ということは白の陶器は庶民的で、どこにでもあったはずだ。それなのに今はあまり見ないのは、現代人がありふれた白さに飽きて色や柄を求めたからだろう。よくよく考えてみれば『陶器のように白い肌』という比喩は月並みであるだけ時代も感じさせる。とうてい令和に使う表現ではない。

 なにはともあれ『陶器のように白い肌』という形容はやはり正しかった。ただし比喩の元となる白さや透明感は陶器自体にあるのではなく、陶器の表面に塗られた釉、上っ面にあるということだ。一皮剥けば美人も髑髏と言うし、うまい比喩だと思った。もしかしたら百年後でも通じるかもしれない。


(おわり)


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 5月に『生存回路』という題名の小説をリリースしたが、しばらくブログもツイッターも更新しなかったので「生きていますか」というタイトルのメールをもらった。4年ぐらい前にも同じようなメールをもらった。そういえばあの頃からブログを書くようになったのだと思い出した。生存報告をするために今日はちょっと書いてみることにした。

 来年の4月1日に『山桜』という小説を出すつもりで、それまでは『難聴製造機』という短編を出すぐらいで、小説のリリースは無しにする予定だ。かなり時間のマージンを取ったので、手広くやろうと
5月は色んな本を読んだが、本当に手広すぎて何にも物にならなかったという事態が発生した。何らかの方向性がないとダメだと、一つ決め打ちをしたら予想外の方向に伸びて、もしかしたら長編になるかもしれないと注力することにした。輪郭はもう捉えている。仮題は『流星を打ち砕け』だ。『世界が終わる日~人生最悪の48日間~』というアイデアもあったが、世界が終わらないのでボツになった。

 オペラント条件付けという心理学の手法がある。俗にいう飴と鞭だ。小説が4000字以上書けたり、ノートかプロットを4ページ以上書けた日は近くにある自動販売機でジュースを買うことにしている。正の条件付けだ。しかし、目標の分だけ書ける日は少ないので、この行動は強化されていない。

 そろそろプロットラインを書く頃だという予感はあるけれど、書き出せない。たぶん失敗することを恐れているのだ。そしてそれはたぶん正しい。私はプロットラインを書き切れない。こういうのは何回も引き直しながら完成させる物で、書ききれなかったところから、また新しい切り口を発見しながら書いていくものだ。最初の一回でプロットを引けたことなんて今まで一度も無い。しかし、それは理屈で、感情では失敗することが分かっているから一歩踏み出せずにいる。

 というのを雑感帳を書いていて気付いた。それならルールを変えればいい。プロットの完成を目的にするのではなく、失敗することをゴールにする。それでチャレンジを恐れないようになる。何度でもトライできるようになる。

 という自己啓発書みたいなアプローチも失敗する。

 結局はいつものように失敗を受け止められるようになるまで、心の余裕ができるのを待つしかないのかとも考えたが、そこでふと上のオペラント条件付けを使えないかと思い、全然書けなかった日に自動販売機でジュースを買って飲んだ。いやいや、失敗に報酬を与えるとダメなるのではないかと思われるだろう。もちろんダメだった。次の日もプロットラインを引けなかった。

 書けない原因は失敗するからではなく、失敗を予想するところにあると私は考えた。失敗→ジュースではダメで、失敗=ジュースでなければならない。パブロフの犬だってベルでよだれを垂らす。というわけで私はプロットを書く前に、今日はプロットラインを引き切れなくてジュースを飲むという想像をした。冷たく甘い感覚が口の中を通っていくイメージをする。すると、その日はプロットラインを引けた。次の日は、もっとうまく引けた。こうして先週は全体のプロットラインを4回も引けた。未だにプロットは書き切れていないが、書き始める前のプロットラインとしては今までで一番引き直した数が多い。しかも1週間で4回も引いたのは初めて。前代未聞の大快挙からして、たぶんこのアプローチは間違っていない。

 失敗予期にジュースを飲むところをイメージすれば、ジュースは飲まなくてもいいのではないかと予想したが、一度だけで効果がなくなった。あるいはたまたまその日が書けない日だったのかもしれないが、たぶん学習したのだろう。『妄想に騙されるな』と。やっぱり失敗にはジュースが必要だ。自分に嘘をつけるのは一度だけ。
名称未設定 1

(おわり)

追記:プロットの穴を突きつけられると、やっぱりまだ足りないところがあるのだと分かる。今週はその穴を埋めるために狼の群れの本を読み狂いしよう(よみぐるい しよう)。

追記:なぜ報酬がジュースなのか。甘さは確実に効果があるから。現代人に肥満の悩みが尽きないのが、その証拠だ。最初はチュッパチャップスだったが、よだれでべろべろになった棒がゴミ箱にたまるのが嫌だからジュースにした。でもチュッパチャップスでも大丈夫だろう。

追記:たぶん書けたことに報酬を与えても正のフィードバックはない。夏目先生も毎月たくさん給金を貰っても書けないものが書けるようにはならないと言ってたし、私もそう思う。2兆円くれても、いま胸の中にあるものを書けるとは思えない。お金に目がくらんで「これが正真正銘偽りのない私の小説でございます」とごまかすかもしれないけど。
 一度だけなら許される?

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 まだ決まっていないけど、なんとなく次に書く小説は決定論的なことを書くような気がしていて、私こと牛野小雪が小説の中の運命を書いていて、それを小説の中の人物がどうこうするというイメージが頭の中にある。作中の人物も小説のプロットを知っているという感じだ。

 よくある話なら登場人物がプロットに抗うんだろうな、とは思うのだけれど、それじゃあ当たり前すぎて面白くないので、逆にプロット通りに生きてみるのはどうかと考えていたら、そもそも世界で一番印刷されていて、最近は人気が落ちてきたとはいえ未だに根強いファンがいる物語では、大工の息子が予言通りに民衆によって処刑されるという筋書きだと気付いた。否定の否定で過去に逆戻りだ。このプロットは飽きられ始めている。とはいえ抗うのもダサい感じがする。自分の運命を自分の意志で選べるというプロットは、現代ではかなり仕掛けがないと受け入れられない気がするし、私だって信じられない。とはいえ運命に流されるだけというのも違う気がする。ああ、八方ふさがりだ。

 決定論について調べていると、やっぱり色んな人が考えているんだなと知れて面白い。肯定派も否定派ももっともなことを言っているし、穴もある。つまり決定論に決定的なものはないってこと。もう肯定も否定も面倒くさいので両立派というのが最近台頭しているそうだ。とはいえ、それも決定的ではない。最終的には決定された運命というのを知れなくては答えは出ないし、知れたら否定できるような気もするけど、あらゆる可能性の最終解が運命として存在しているのかもしれない。

 自分に意志があることは自明だが、自由かどうかはあやしいものだ。納豆なんてどうやっても好きになれないが、私の親は毎日狂ったように食べていて、冷蔵庫の棚の一つは納豆で埋まっているほどだ。自由意志があるなら私が納豆を好きになれても良いはずだが私の体が断固拒否するし、なんなら私も拒否している。でも元々拒否しているのは私の意志ではない。納豆と私の体が織り成す科学的反応によって、こいつはダメだという意志が発生しているわけで、私がおぎゃあと生まれた時に、よ~し、私は納豆を否定して生きてやるぞ、と決めたからではない。そういうことは自分が預かり知らぬところで決まっていて全然自由ではない。昔はしいたけが食べられなかったが、今は食べられるようになったのも、そろそろ小6だししいたけぐらい食べられなきゃダメだろうと思い詰めたからではなく、何故か突然食べられるようになったから食べているだけだ。自由意志は関係ない。

 決定論の証拠としてリベットの実験が挙げられる。意志より先に脳が行動を決定しているという話だ。でもこれは話を面白くするために後半が端折られていて、意志の発生は自動的でも行動を拒否することは可能という実験結果がある。リベット自身は自由意志の存在証明と捉えたようだ。いや待てよ、意志の発生は自由じゃないのかという気もしたが、少なくとも否定だけは自由らしい。そういえば知的な人のイメージって何かを否定している感じがするよなぁ。否定が自由意志なのかもしれない。

 決定論の否定がよくある話なら、否定の否定は大昔の名作、それなら私は否定の否定の否定ぐらいは最低書かなきゃいけないよなぁと勝手に思っている。でもこれは自由意志なのだろうか。

(おわり)

追記:知的な人が否定的ということに否定的なのは最新の自己啓発書。否定の否定だ。自己啓発書は知的前衛フィールドでプレイしている。





ばなな

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見出し ブログ
 去年群像に出した小説がダメっぽいから表紙にするための絵を描いてばかりいた。PIXTAで買った絵を表紙にしてもいいんだけれど、それは保険に取っておいて、自分がどこまで描けるのか挑戦している。

 ずっと絵を描いていると、おっ、凄い絵が描けた! アート界に革命が起きるぞ! とか思うのだけれど、ふと冷静になって過去の名画と比べると、あまりにレベルが違い過ぎて愕然としてしまう。まぁ、執筆の隙間に片手間で描いている人間が追いつけるわけがないのだけれど、あの熱狂が冷めてしまったのはちょっと寂しい。

 模写は絵に良い影響を与えるというのをあるところで読んだ。自分の手癖以外の線に触れるのは良い刺激になるのだそうだ(小説もそうかな。やったことないけど)。それで先週はクリムトの絵を4日かけて模写した。腕が拙すぎて複製画にはほど遠く、へんてこりんな絵になったが、なるほどこういう線の引き方があるのか、こういう色使いがあるのかと大変勉強になった。

 今週はパウル・クレーの模写をしている。このブログが更新される頃にはマグリットを模写しているかもしれない。
アーティスト気取り
 それにしてもこいつ、他人の絵を真似ただけで、すっかり巨匠気取りである。

 小説の書き方を忘れているんじゃないかと心配になる。

(おわり)

感想:昔々A波先生に自分の手をスケッチするといいと言われて、三週間ぐらい鉛筆を持った自分の手を毎日書いていた時期がありました。そのせいか、右手だけ他と比べて描くのが上手いような気がします。
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 小説を書き終わったから久しぶりに絵を描いている。kindle本の表紙も手直しした。腕は上がっているけれど、ぽっ、とプロの手で作られた物と比べると全然ダメでがっくりくる。まぁ片手間のたった数年で、トータルすれば実質一ヶ月もないような人間が超えられるようなものじゃないんだろうけど。

 脳みそが絵を描くモードになっていて読む本も美術の本が多くなった。するとそこに夏目漱石の名前にぶつかって非常に驚いた。
 夏目漱石って美術も語れるのか。そういえばと『吾輩は猫である』を開くと第一章にアンドレア・デル・サルトとかいう画家のことが書いてある。というか自分で絵も描いている。漢文ができて、英語ができて、詩も、俳句も、美術も、何でもできる。明治の文豪は教養ありすぎ。しかも小説まで書けるときた。一体どうやったら太刀打ちできるんだ・・・・・。

 未完ということで今まで読んでいなかった『明暗 』を読んだ。今の時代なら取り立てて騒ぐほどでもないが、この時代に三人称の他視点で書かれていることに驚いた。何かもう小説については夏目漱石が全てやりつくしてしまったんじゃないかという気がした。現代人にできるのは先生の型に従って時代性がどうの~批評性がどうの~とこねくり回すぐらいしかないのではないか。
先生とぼく5

 こうして私はまた夏目先生マジハンパないってことを改めて思い知らされるのであった。

(おわり)

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