愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

カテゴリ: 書評

 冒頭で医師は湖岸に流れついた丸太を見つける。しかしその丸太を回収するには手間も費用がかかるので、あえて湖岸から引き上げることもしないだろうから、医師は自分の物にしても問題ないはずだと考える。
 そうして彼はインディアンの男達を呼ぶのだが、彼らにはっきりと「丸太を盗んだ」と指摘されてしまう。怒って家に帰ってきた彼は信心深い妻に何があったのか問い詰められる。そこで彼は自慢のショットガンの掃除をしながらインディアンの男は彼に借りがあるものだからケンカを売ってくるんだと嘘をつく。妻はいったんその嘘を飲み込むが、しばらくしてからそんなことは信じられないと嘘を見抜いてしまう。
 医師は最初に丸太を自分の物にしようといて、理屈をこねて正当化しようとした。しかし文明人ではないインディアン達には通用せず、あっさりそれは盗みだと暴かれてしまう。
 その次に医師はインディアンの男が彼に罪悪感を負わせようとするのは彼に借りがあるからだという理屈を考えるのだが、その理屈も神を信じる妻には通用しない。
 しかし妻もインディアンも彼の罪を見破ったが裁くことはなかった。
 そこでようやく医師は冷静になり「すまん」という言葉を口にする。
 この言葉は妻にだけではなくインディアンの男や、丸太の持ち主、自分にも向けられているのではないだろうか。
 罪も認め謝罪もしたせいかようやくこの頃になって医師の心に平和が訪れ、林の中の牧歌的な雰囲気の中で彼は息子と一緒にクロリスを見に行くところでこの短編は終わる。
 いくら理屈をこねて正当化しても感情の底は欺けない。そう考えると最初の丸太のくだりがとても言い訳がましく感じられてくるのである。

(2017/06/09 牛野小雪 記)

追記:クロリスとは黒いリスのこと。本当に黒い。アメリカ中西部ではメジャーな動物なんだとか。


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 ニックがパパと一緒に川を渡ってインディアンの村へ行くとそこには子どもを産もうとしているインディアンの女性がいる。パパはその子を取り上げるのだが、子供の父親は喉を掻ききって死んでいるというお話。
 何故死んだのかという疑問の前に、最初から夫は死んでいたのではないか私は考えてみた。
 少し読み返してみると、最初の方に夫がごろっと寝返りを打ったと書かれている。この時まで夫は生きていたのだ。しかし次に出てくる時は死んでいる。
 ジョージ叔父と三人のインディアンが女を押さえつけている時は上の寝棚でごろっと転がっていたようだ。たぶんこの時には死んでいたのではないか。
 これは象徴的な意味でも現実的な意味でもそうで、出産の場で男にできることは何もない。何なら母親でさえやれることはないのではないかぐらい思っていて、出産は赤ちゃんが自分の力で出てくるものだと想像している。(産むのが楽だとは言わない)
 その証拠に赤ちゃんは産もうとしても産めないし、産まれる時は勝手に産まれてくる。今ちょっと産まれるのはまずいから一ヶ月後まで待ってくれとはできない。赤ちゃんにだって意思はある。力もある。赤ちゃんが産まれようとしない限り、彼(ちなみにこの小説で生まれてくるのは男の子だ)は産まれてこない。 
 そういえばこの短編はインディアンの女が子どもを産めないから(あるいは産まれてこないから)手術しにきたという話だ。彼はまだこの世に生まれたくなかったか、あるいは生まれる力がなかったのだろう。
 出産の場で男は役に立たないから死んだというのなら、何故上と同じ理由で母親は死ななかったのだろう。
 いや、実は母親も死んでいたのでないだろうか。
 まず一つ目に女は出産できずに苦しんでいた。もしニックの父親が来なければこのまま出産の苦しみで死んでいたかもしれない。
 二つ目に帝王切開で子どもを取り上げた時に女が死んでいた可能性はかなり高かった。父が術後に自慢する程度には危ないところを通り抜けている。
 分娩時に母親は助産師(あるいは医者)や出産経験のある女性、色んな人に囲まれているが、基本的に父親の方はその場にいるだけで何もできないし、誰も気にかけてくれない。映画やドラマなら「こんな時、男はなにもできない。じっと待つことだ」なんて言って人生経験豊富な男が肩を叩いてきたりするが現実ではそれもないだろう。それならいっそ出産の場に父親が立ち会わないというのは古代の知恵かもしれない。
 そう考えてみると、子どもが産まれてこなくて苦しんでいる母親の上でごろっと寝棚に転がっている父親の姿がとても不自然に思えてくる。時代的に父親が出産に立ち会わないのが当然の時代だ。なぜ彼は出産が行われる小屋にいたのだろう。
 立会い出産という概念はそう古いものではないはずだ。子どもの頃にめざましテレビか何かの芸能ニュースでハリウッドセレブが立会い出産したというニュースを見て、変わったことをする人という印象を受けた記憶がある。それが日本の芸能人にも広がって、いつの間にか普通の人も立ち会い出産するようになった感じがある。
 現在のアメリカでは立会い出産が当然という風潮があるらしい。父親がへその緒を切ることもあるそうだ。しかし、それを持って日本の男性は昔の風習に縛られているというのも短絡にすぎる。むしろアメリカには父親を出産の場に立ち会わせる何らかの風習、あるいは仕組みがあると考える方が自然ではないだろうか。そこまで考えずただ欧米に対するあこがれで、父親を出産の場に立ち会わせれば何らかの弊害が生まれてしまうだろう。
 そのアメリカにしても昔は立ち会い出産をしていなかったはずだ。小説の話だがスタインベックの『怒りの葡萄』で出産の場から男達が締め出されるシーンがある。
 そうなってくると医師のパパはともかくニックや若い三人のインディアンが出産の場にいることも不思議に思えてくる。なぜ彼らは死ななかったのだろう? 彼らと喉を掻ききって死んだ父親の違いは? そこに生と死を分ける何かがあるのではないか?

(2017/06/07 牛野小雪 記)


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『スミルナ埠頭にて』はヘミングウェイの短編である。
 いきなり地名を出されてもよく分からないが、調べてみるとトルコにある都市。
 そこにどうしてギリシャ難民がいるのかというと、第一次世界大戦でギリシャがそこを占領したから。しかし『スルミナ埠頭にて』の頃にはトルコ軍が奪回して、ギリシャ人が追い払われているという状況というわけだ。
 ちなみにケマルという人物が出てくるがちらっと出てくるが、彼はトルコ共和国の初代大統領である。トルコはトルコでもオスマントルコ帝国と共和国の違いがある。今のトルコはヨーロッパの端っこにあるギリギリユーロ圏の国ぐらいにしか見えないが、昔は広大な領地を持つ国だった。どうして落ちぶれたんだろう?
 しかし、私とわれわれってどういう立場の人間なんだろう?
 何となくトルコが気を使っている相手っぽいからアメリカとかヨーロッパの国?
 謎は尽きないが、逃げていく人達の迫力は伝わってくる短編。

(おわり 牛野小雪 記)

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 お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸を垂らして大泥棒カンダタを救おうとするお話。小学校の教科書にも載っているので読んだことがある人は多いはず。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿って極楽へ行こうとするが蜘蛛の糸は途中で切れてしまう。切れたのは地獄の亡者たちが糸を登ろうとしたのを見たカンダタが、この糸は俺のものだと叫んで切れたことになっている。
 
 しかしこの蜘蛛の糸は極楽から地獄まで何万里(里:日本では約4km、中国の里でも500m)の距離も垂れていて、しかも地獄においても体は疲れるみたいなので、どう考えてもカンダタがこの蜘蛛の糸を上って地獄から抜けるのは不可能だということが伺える。それではお釈迦様は何を思って蜘蛛の糸を垂らしたのだろう。地獄の亡者をからかうためか。なぜワイヤーやハシゴにしなかったのだろう。いや、極楽から地獄までは何千里もあるのだからエレベーターか、せめて階段にしなければカンダタが登りきることは不可能だ。

 一般的な解釈ではカンダタが自分だけが助かろうとしたので蜘蛛の糸が切れたということになっている。私は蜘蛛の糸を読み直して、カンダタが極楽へ登れなかったのは『自分だけが助かろう』としたからではなく『自分で助かろう』としたからではないかと思った。

 カンダタは罪人である。地獄へ落ちたのはそれなりの罪を犯したからである。それなのに地獄から抜け出そうとするのは罪人自身が「俺の罪は許された」と言い張るようなもので、とんでもないことである。罪は自分で許すものではなく誰かに許されるものではないか。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿れば極楽へ行けると思い込んでいた。お釈迦様は登ってこいとも何とも言っていない。ただ蜘蛛の糸を垂らしただけだ。私は糸を掴むだけで良かったのではないかと思っている。極楽と地獄の距離は何万里もあるので仮に糸が切れなかったとしても途中でカンダタは力尽きてしまう運命にある。事実彼はもう一たぐりも登れなくなったので、一休みしている最中に下から登ってくる亡者達を見たのだ。

 謝ったのに許してくれなかったと怒る人がいる。許さない相手もちょっと強情にすぎると思うこともあるけれど、もし仮に謝れば許してもらえるだろうという相手の心根が透けて見えた時、相手を許すことはできるだろうか。謝ったから俺を許せとは傲慢なやり方ではないか。むしろ怒りに火を注ぎそうな気もする。「お前、謝ればいいと思っているんだろう!」と。

 カンダタは糸を登れば極楽へ行けると思い込んでいたが、それは謝れば許してもらえるという性根と同じではないだろうか。許されるかどうかを自分で決めることはできない。謝ったからこれでいいや、とはならないのだ。

 謝れば許されると思い込むのは、許す許さぬの権利を相手に渡さずに自分で握っていることと同じで、相手は許す権利がないので許すことはできない。本当に謝るのなら自分の運命を一度相手に預ける勇気を持たなければならない。

 そういう風に考えていくとカンダタは自力で極楽へ登ろうとせず、ただ糸を掴み蜘蛛に自分の運命を委ねていれば良かったのではないだろうか。たとえ地獄の亡者が地獄から抜け出そうとカンダタより先に蜘蛛の糸を登っていったとしても、彼らはいつか力尽きて地獄に落ちてくる運命にある。何度か再挑戦する亡者もいるだろうがいつかは彼らもこれは地獄の新しい拷問ではないかと疑い始めるに違いない。こうして亡者達が救われることを諦め地獄に静寂が降りた時、ようやく蜘蛛は糸を巻き始め、糸を掴み続けたカンダタを極楽へ引き上げたのではないだろうか。
 
 カンダタは何をすれば良かったのかではなく、何もしなくて良かった。むしろ何もしてはいけなかったのだ、彼が救われるまで。ここで大事なのは蜘蛛の糸を掴み続けていることで、もしカンダタが蜘蛛の糸から手を離していたら、やっぱり彼は極楽へ行けなかっただろう。蜘蛛の糸は誰も連れず静かに巻き上げられたはずだ。何だかおかしな話だが今はそんな気がしている。

(2017/04/02 牛野小雪 記)


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 ヘミングウェイの小説でインフルエンザにかかった息子が体温計で熱を測ると100度と出て、もうじき死ぬんだと思い込む話がある。物語の結末は単位の違いで100度といってもそれは華氏(F→正確には℃のように小さな丸が左上に付くが変換ででてこない。ちなみにFはファーレンハイトと読む。なんだかかっこいい)のことで摂氏(℃)とは違うと諭す話がある。

 ちなみに華氏100度とは37.8度のこと。まぁ死ぬような温度ではない。ストーリー上で最高の102度でも38.8ぐらい。インフルエンザならこれくらいの熱が出てもおかしくない。

 ちなみに華氏における水の沸点は212度、融点は32度。覚えておくと何かの役に立つかもしれない。

 

(おしまい 牛野小雪 記)


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『魔女と機械と遺世界と/舟渡攻』を読んで考えてみた

『魔女と機械と遺世界と/舟渡攻』を読んで

 主人公は殺戮機械。旧世界を滅ぼした張本人である。機械というが、後に遺伝子がどうたらこうたらと出てくるので完全な機械ではなく人間と機械が合わさったような物のようです。なので物語中で感情が描かれているのも当然です。というか主人公の感情の移り変わりがこの小説の肝です。
 主人公の心中では自分が滅ぼした旧世界と、文明が滅んだ現在の世界の二つに分けられていて、自分は旧世界の人間(話がややこしくなるので人間とする)と思っている。今の世界は自分のいうべき世界ではないと思っている。それで、今の世界を遺世界と呼んでいる。
  
序盤の魔女が寝たあとに主人公はその異世界を旅してユズという女の子と出会う。異世界の様子を調べるために主人公と彼女と行動を共にしていきます。遺世界なりにも問題が起こるのですが、主人公は旧世界の人間なので、なるべく遺世界に影響を与えないように手助けはせず見守るだけに徹しようとします。しかし、成り行きで竜の生け贄にされたユズを助けてから、まあ色々あって村と村の戦争が起きる。その中でユズは命を落としそうになる。
 主人公は旧世界に関わらないようにしようと決めていたのだが、ユズの死を前に何もしないでただ見ているだけで良いのかと迷う。まあ結果はハッピーエンドです。
 
 この小説のテーマは主人公の心の中で分けられた旧世界と遺世界、現在と過去の融合。それを繋げたのは愛っていう話でした。
 ラーメン同盟の話にちょっと似ていると思った。執筆時期はかなり近い作品だと予想する。 


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