小説も文学もまだ一文字も書いていないし、これからも書かない。

 執筆中、雑感帳によく書いていた言葉だ。世の中思い通りにいかないことが多いが、これはわりと思い通りにいった。問題はそれが良くないってこと。ようやく推敲の一周目を終えると、私はがくぜんとした。こんな物を書くために1年近くも時間をかけたのかと。あまりにショックでしばらく手を付けられなかった。

 落ち込んだ時は雑感帳や日記を読み返す。何故こんな物を書こうとしたのか。そもそもの発端は去年の5月から始まっていた。徳島県のとある港にイルカが迷い込んできた事件があって、私もイルカを見に行くと、田舎の港町にあるただ通り過ぎるだけのような古い橋に老若男女が何人も集まって一頭のイルカを見ていた。その時の私は『聖者の行進』を書いた後に全作改稿をしている途中で、世間的には何者でもないけれど、自分はけっこうな小説を書いているとうぬぼれていた。でも、その光景を見た私は、このままではいけない、このイルカみたいな物を書かなければならない、と決心した。それで書いたのが『生存回路』であり、『山桜』であり、『流星を打ち砕け』だ。とにかく新しい小説を書く。今までとは違う物。

 そういう視点で見ると『流星を打ち砕け』は成功している。作中にクッキーという猫が出てきて「正解以外は許さない全体主義は趣味じゃないし、建前上は自由を重んじる日本で育った猫だから間違える自由も認めるわ」と冒頭で言うのだが、まさにこれがこの小説全体を現している。この小説は小説でも文学でもなく自由を書いている。でも間違っているのだ。

 なるほど。自由を目指して書いたのならこの小説は素晴らしい。でも小説・文学としては間違っている。自由を目指して書いたのなら、それでいいではないか、とは思えない。頭では分かっても心が否定する。こういうことで何日も悩んでいると自分が天才でないというのが嫌でも思い知らされる。本当の天才ならこんなことを悩まずに向こう側へ飛び越えられるんだろうな。この小説は流星ではなく自分の幻想を打ち砕いてくる。いつもは一つの小説を書き上げた後に、俺は天才だ、と舞い上がるのだが、この小説はそういうことをさせてくれないのだ。

 小説は何を書いてもいいというが本当にそうだろうか。たとえば今ある小説を書いている途中の人がいたとして、いきなり空から大きなダイナマイトが落ちてきて、みんな爆発した。(おわり)と、試しに書くことはできても、本当にそうすることはできないはずだ。今まで受け継がれてきた小説・文学観が許さないし、小説家自身がそれを許せないだろう(最初からそうするつもりだった場合は別として)。小説は自由なようでいて実際は縛られている。本当にでたらめに書くことは難しい。

 じゃあ小説・文学観に沿って書けばいいじゃないか。という話になるが、それも嫌だと私は思う。じゃあ自由に書けばいいじゃん、となっても、自分の中にある小説・文学観が否定する。なぜ小説・文学ではあってはいけないのか、なぜイルカでなければならないのか、という問いに私は理屈で答えられない。でも感情の部分ではイルカでなければならないとワガママを言っている。イルカは自由だ。でも自由も駄目だとワガママを言う。

 こういうことを書いていると面白いことに気付いた。『流星を打ち砕け』には二人の主人公がいる。先に書いたクッキーと、藤原千秋という女の子だ。主人公は二人だが、あくまで本筋は藤原千秋であり、プロットを書いている時からクッキーは必要ないのでは、と疑い続けていて、全体を読み返した後に考えてみるとクッキーの章を除けば私の思い描く小説・文学になると気付いた。小説・文学にクッキーは必要ないのだ(クッキーの章だけではなく、クッキーそのものが存在しなくても『流星を打ち砕け』は成立する。そしてクッキーだけでは成立しない)。

 クッキーは間違っている。でも自由だ。藤原千秋は小説であり文学だ。この小説自体が分裂した私の内面を表している。3年前なら藤原千秋だけの物語にしただろうが今はそうではない。しかし、それは間違っている。自由がそんなに良いものか?、という問いに私は沈黙する。苦しむ。天才ならきっと迷いなく間違いの中へ飛び込むか、この上なく正しい世界を築き上げるだろう。半端者はどちらも選べず、世界の真ん中に立って悩むしかない。

 そんなに自由が良いものか?
 しかし、小説・文学も良いものなのか?
 答えは出ない。一つの中で分裂している。

(おわり)

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