ある小説家同士の対談で、野球は試合に向けて練習するけれど、小説には練習がない、毎日がぶっつけ本番だ、ということを言っていた。その瞬間に気付いた。私が毎日書いているノートって小説の練習じゃないか。確かによく考えてみれば、ノートに書いているのはこれから書こうとしているところばっかりで、前日に予行演習をしているようなものだ。

 興味が惹かれたので最後まで話を聞いていると、小説を書くのに準備をしたり、練習するなんて不純だし、そんなことをするぐらいなら小説を書かない、とさんざんに言われたので(別に私に向けて言ったわけじゃないが)、小説に向いていないのかなとちょっと落ち込んだ。

 しかし、こういうことがある。先日wordを開くと何か様子がおかしかった。前日のデータが保存されていないことに気付くと、魂が胸から背中に抜けるような感覚があった。「マジか……マジか……」とマジで何度も声に出した。あぁ、神様。頼むから何かの間違いであってくれ。と手も合わせた。それでバックアップも開いたが、やはりデータは保存されていなかった。頭の中が空っぽになってしばらく何もできなかった。

 村上春樹が1章分のデータがなくなったけど頑張って書き直したという話を思い出した。村上春樹でさえ書き直すのだから私も書き直すしかないじゃないか、と気持ちを改めて書き直すことにした。一度書いたところでも書く早さも苦労も特に変わらなかった。そしてこの後の展開は村上春樹と似たようなものだ。最後にデータを保存する時になって、たまたま抜いていたフラッシュメモリーが目に入った。それはサブのサブとして気が向いた時にだけバックアップを取るぐらいの物として使っていたのだが、もしやと思ってデータを開くと、あれだけ探したデータがそこにはあった。それで今日書いたところと比べてみると断然に今日書いた物の方が良かった。

 小説もきっと練習すれば上手くなる。いま私がやっているのは小説を書いた後の余力で書いているだけだが、普通に小説を書く強度でがっつり小説を書いて、さらにもう一度真っ白な画面に向き合えば、もっと良い物が生まれるのではないか。絶対にやりたくないけど(村上春樹だってやったのは一度だけだ。それも一章分だ。でも刊行速度を考えれば実はそうしているかもしれない)。

 小説家の作品として残るのは極わずかな作品だけだ。この前までナポコフは『ロリータ』だけの一発屋だと思っていたが、実は他にも色々出しているのを知った。一作だけ書いて終わりという作家は少ないのだろう。でも後世に残るのは一つか二つ。99%以上の作家は存在さえ忘れ去られることを考えれば一発屋でも快挙なのだ。

 なら、小説を一作書けば、100回ぐらい書き直すような作家がいても良いはずだ。そうやって最高の小説を書こうとする奴が一人ぐらいいても良い。ヘンリー・ダーガーは一生かけて一万ページ以上の大長編を書いた。そうではなく100ページぐらいの小説を一生かけてリライトし続けられたなら、どんな物ができるのだろうと考えた。またそれだけのことをするのに、どれだけの気力が必要なのだろうと考えた。改稿ではなく書き直しだ。人間には不可能だと思う。でも人の想像できることはいつか行われる。狂気に駆られた小説家がそういう小説を書くだろう。今この瞬間に書いているかもしれない。

 野球で練習のノックと同じ打球が試合で飛んでくるわけじゃない。小説だってノートと同じ物を書くわけじゃない。それどころかノートを書き終わると一番上の余白に《これ以外のことを書け!》と書く。だからノートのほとんどが無駄になるんだろうな。本当に無駄なことをやっている気がする。でもその無駄も練習と思えば大事なことに思えてくる。
 
 練習でホームランを打っても試合のスコアには一点も入らない。練習でダブルプレイしても試合はノーカウントで始まる。ノートにいっぱい文章を書いたって小説は進まない。でも、もっともっと練習して、ストライクゾーンど真ん中に光速の二乗を超えたストレートを投げ込んでやるぞ。

(おわり)
pitcher