文章の退屈と面白いを分けるものは何か。クロード・シャノンが出てくる本を読んで一つひらめいたことがある。まずは以下の文章を読み飛ばしてほしい。
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
上の文章は140字。ツイッターの文字制限ギリギリ一杯の情報量だが、ここから何らかの意味を見出すのは難しい。これを一万字読めと言われれば、かなり苦痛だろう。次に以下の文章を読んで欲しい。
河原を歩いていると丸い石が落ちていた。私はしばらく石を見ていたが何も起きなかった。石を拾ってみると、角のないすべすべした手触りで、ぎゅっと握りこむと、ひんやりとした冷たさが手に伝わってきた。石を手放すと、地面に落ちた。それから何も起こらなかった。同じ石は河原にいくつも落ちていた。
こちらも、るるる文と同じ140字だが文章の意味は格段に高い。ただし退屈だ。一時間後には読んだことも思い出せないだろう。この調子で一万字読めと言われれば鼻血が出ること間違いなし。
クロード・シャノンによると情報の価値は情報量ではなく外れ値にあるらしい。端的に言えば意外性。それで言えば上の文章は何の意外性もないので、文章として成立していても退屈というわけだ。
では意外性ばかりなら?
河原を歩いていると丸い石が落ちていた。しばらく石を見ていると私から逃げるように転がった。石を拾ってみると「ぷるるぅ」と奇妙な鳴き声を発して空に飛び、雲の割れ目から光が差すと私は野原に咲く一輪のバラになっていた。あぁ太陽が気持ち良いなと思っていると花弁から輝くゲロが飛び出してきた。
同じ140字。何の意味もない文章だが、ずっと面白い。
文章(情報)の価値は意外性であり、退屈と面白さを分ける境目だ。昔から言われるように犬が人を噛めばニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになるのだ。
しかしバラがゲロを吐くのは面白くても、この調子で一万字以上続いたらしんどい。常識外れの文章は書くのもそうだが、読むのもしんどい。シュールレアリズムはメインストリームになれないのだ。
私は同じ本を何度も読むのだが、内容を知っていれば意外性はないのに、二度目、三度目の方がより面白く読める。ということは小説の価値は情報の価値ではないということだ。
それじゃあ文学の価値って何なのだろう。それを考えると何もない空を見上げているような気分になった。
クロード・シャノンが今も生きていれば、この謎も解いてくれただろうか。
(おわり 2018年11月4日 牛野小雪 記)
コメント
コメント一覧 (3)
はじめまして。コメントもはじめましてなのに唐突ですが、牛野さんは公募などには出さないのですか?
まさやん
がしました
二つ目は退屈だけど文学的価値ならこっちの方だろうという意地悪な問いかけをしているんですよ。あなたのように二つ目の方が良いと言ってくれる人が現れたので何度も推敲した甲斐があったというものです。たぶんですけど文学は役に立つ、価値がある、興味深い、とかのラインにはないのでしょう。
公募には出しています。群像新人文学賞という賞を知っていますか?
何年か前に出して箸にも棒にもかからなかったので今度は嫌がらせのような作品を書いて送りました。普通に考えれば落ちるような題材ですが落とせるものなら落としてみろという気概で書いたので結果が楽しみです。
牛野小雪より
まさやん
がしました
そうですか、公募出されていますか。群像の発表が楽しみになりました。じつは牛野さんには、創作にたいしての非常な熱量を以前から感じておりまして、さらにそのたやまなさが、乏しい私の意欲をひりひり奮わせてくれるので、こうしてたまにお邪魔しています。
ふたつめが好きな理由はたくさん上げられると思いますが、そのひとつに、昨今は意外性が蔓延しすぎて、ふたつめのような普遍に逆に意外性があるという逆転現象も起こりうるのではないかと思ったりもしました。
まさやん
がしました