昔々、稲見の庄という村に伝わる伝承である。

 ある夫婦が人目につかぬよう山の奥へ入り、沼の前に立った。妻の胸元には赤子が抱かれている。夫婦は着物の帯で赤子に石を撒きつけると沼に落とした。夫婦は後ろめたい気持ちから逃げるように沼から立ち去った。

 石を巻き付けていたので赤子は見る見る沼の底へ沈んでいった。その様子を沼の底に棲む竜がじっと見上げていた。赤子が沼の底まで落ちてくると竜は赤子を口の中に飲み込んだ。

 夫婦が赤子を山奥の沼に捨てた翌日から赤子を抱いた見目麗しい女が山から下りてくるようになった。

 女は麓にある村の各家の戸を叩いては乳が出る女はいないかと尋ねた。ある女がなぜ自分の乳を与えないのかと問うと、女は着物の前を開いて、乳房のない平らな胸を露わにした。乳首さえないので、これはきっと通常の者ではないと村の者達は妖しんだが、乳を吸わせた礼として女は反物や宝物を置いていったので喜んで乳を吸わせる家も多かった。

 赤子は乳を吸いながら大きくなり、ある時から竜丸(たつまる)と名乗るようになった。竜丸が言葉を話すようになると村の者達は母親は何者なのかと尋ねたが、竜丸は母は母だとしか答えなかった。またある者は二人は山でどういう暮らしをしているのかと尋ねたが、それを口にすると空が割れて村が水の底に沈むので決して話すことはできないと竜丸は答えた。まさかそんなはずはあるまいと村人は思ったが、竜丸の口ぶりが奇妙なほど確信に満ちていたので、それ以上問い詰めなかった。

 竜丸は村の子ども達と遊ぶようになった。妖しげな親子と関わることを危ぶんだ親は多かったが、竜丸の母親は竜丸と一緒に遊んだ子どもに菓子を与えたので、親の目を盗んででも竜丸と遊びたがる子どもまでいた。

 竜丸はさらに大きくなり、村で畑の手伝いをするようになった。大きくなってからは一人で下りてきたが、母親が下りてくる時もあった。母親は竜丸が赤子の頃とまったく同じ容姿であり、やはりこの世の者とは思えないが、竜丸にゆかりのある者に対しては大層な礼を置いていくので、悪い者でもないと言う村人も多かった。

 ある時、大きな戦が起こり稲見の庄からも人を出さなければならなくなった。誰を戦に出すのか村人が話し合っていると、山から立派な騎馬武者が一騎下りてきた。それは鎧に身を包んだ竜丸であった。竜丸の後ろには牛車が引かれており数人分の刀、槍、弓、矢、鎧兜が積まれていた。どれも黒光りして金綺羅の飾りが付いた立派な物である。竜丸が郎党になり戦へ加わる者を募ると、血気盛んな若者達が加わった。

 竜丸達は戦に加わった。竜丸の馬は口から泡を吹くほど凄まじい気性であったが竜丸の手綱には素直に従った。また竜丸に向かって飛んできた矢は何故か鎧兜の寸前で脇に逸れた。また竜丸の弓が放った矢は盾を割り、大鎧を泥のように貫いた。

 そのような働きだったので竜丸方の軍勢は戦に勝った。侍大将の覚えも良く、竜丸は恩賞として稲見の庄の良田を十町拝領した。(一反の十倍が一町。一反で一石。つまり一人分の米が取れたそうな。ちなみに現代は技術が発展して一反から4~5人分の米が採れるのだとか。)

 竜丸が拝領した田畑の隣には地侍である稲田家の田畑があった。稲田家には稲姫という年頃の娘がいて、日頃顔を合わせることもあり、いつしか竜丸と否姫は心を通い合わせるようになった。

 二人が将来を誓い合うと、竜丸は稲姫との婚姻を許してもらうために山へ上り、母親に会い行った。竜丸の母親は沼の底でとぐろを巻いていて、沼の縁に立った竜丸をぬっと見上げた。竜丸の母親の正体は沼に棲む竜であった。

 竜丸は母親に稲姫との婚姻が許されるものであると思っていたが、竜は水面に浮かび上がると牙が生え揃った口を露わにして稲姫との婚姻を許さなかった。それでも竜丸が食い下がると母親は言った。

「おのれ、竜丸。赤子の頃よりお前を口の中で大事に育てた母の恩を忘れたか。お前はいずれ都へ上り位人臣を極める者であるものを地侍の娘ごときを娶りたいとは恥を知れ」

 それでも竜丸が稲姫との婚姻をあきらめないでいると竜は激しい水音を立てて沼の底に沈み、尖った光を放つ目で竜丸を見上げた。

 その日は雲一つない快晴であったが、夜になるとやにわに雷が鳴るほどの大雨が降った。雨は勢いを弱めることなく三日も降り続け、低い土地にある田畑が水の底に沈んだ。それでも雨は降り続け家でさえ飲み込まれそうになった。竜丸は母の怒りが雨を降らせたのだと悟り、慌てて山を駆け上り、母の棲む沼へ行った。

 不思議と山に入ってからは雨が止み、沼の辺りは地面が乾いていた。竜丸は稲姫との婚姻をあきらめるので雨を止めて欲しいと頼んだ。すると麓にあった雲が風で吹き払われたように消えて、辺りは雲一つないほど晴れ渡った。

 しかし、竜丸は稲姫との婚姻をあきらめなかった。竜丸はしばらく待つようにと稲姫に言い含めて、拝領した土地の運営にいそしんだ。竜丸の田は元々良田ではあったが水が絶えることはなく稲妻がよく落ちることもあり豊作となった。

 春になる前に竜丸はまた山を上り、母の棲む沼へ行くと、稲姫との婚姻の許しを請うた。竜は怒り沼の底に沈むと麓に雨を降らせた。雨は三日を超えて十日降り続いた。しかし、雨は堰に貯まり、田畑を飲み込まなかった。母の怒りが雨を降らせることを知っていたので、竜丸は雨水を貯められるように堰を作っておいた。

 雨は一ヶ月も降り続いた。それでも堰は壊れず雨を貯め続けた。

 やがて雨の勢いが弱くなり、雲間から日の光が差し込むようになった。

 竜丸が山を上り沼へ行くと、沼の水は底が見えるまで干上がり、竜のうろこが割れて血が噴出し、その血でさえ固まるほど乾いていた。

 竜丸は雨を降らせ続けると母親が死ぬであろうことを予感して、雨を止ませることを頼んだ。母親は稲姫との婚姻をあきらめるようにと頼んだ。しかし竜丸はあきらめると言わなかったので、母親は雨を止ませる代わりに沼に水を返すように頼んだ。

 竜丸は堰に貯まった水を桶に汲んで沼に運んだ。沼に水が貯まり始めると雨は止んだ。

 竜は竜丸に稲姫との婚姻を許すので、息子の妻になる娘の姿を見せて欲しいと頼んだ。母の正体が稲姫に知られてしまうがいいのかと竜丸が問うと、息子の妻になる者に正体を明かさないのは情けがないと竜は言った。

 竜丸は村へ戻ると稲姫に会い、母親と会ってくれるようにと頼んだ。母親が沼に棲む竜であることも告げた。竜と聞いて稲姫はたじろいだが、竜丸の母でもあるので、会わないのも角が立つので会いに行くことにした。

 竜丸と稲姫が竜の住処へ行くと、沼の水はすっかり元に戻っていた。

 竜丸は稲姫を連れてきたことを告げると、竜は稲姫の姿がよく見えるように沼の縁に立つようにと言った。竜丸は稲姫を促して沼の縁に立たせた。稲姫が沼の底を覗くと金色のうろこを持った竜がとぐろを巻いていた。

 尖った光を放つ目が稲姫の姿をとらえると、竜はすぐさま水面に飛び上がり、稲姫の左目をくりぬいて、自分の目を抜き取ってはめこんだ。あっと声をあげる間もない出来事で、竜丸も稲姫も一瞬何が起きたか分からぬほどであった。稲姫は左目から血が流していたが、不思議と痛みはなく、目も見えるようだった。しかし左目は竜の目と同じ尖った光を放っていた。

 そのあと竜丸と稲姫は結ばれて子宝にも恵まれた。領地の田畑も豊作が続いた。竜丸は都に上り位人臣を極めることはなかったが、稲見の庄をよく治めて立派な領主となった。これも竜のおかげと、竜丸と稲姫はことあるごとに竜の元を訪れたが、片目の竜は沼の底からじっと二人を見上げるだけであった。

 それから何百年も経った。稲見の庄が大きな災害に見舞われないのは山の沼に棲む竜が竜丸の子孫を見守っているからだと言われている。

(おわり)