川端康成はすんごい作家である。

 川端康成といえば『雪国』と『伊豆の踊り子』で語られて、特に前者は”国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。”は百回ぐらいは聞いたことがある。しかしどちらを読んでも肌に合わなくて、しょせん昔の人だからと省みることはなかった。

 それがつい先日何故か本屋にふらりと入り、何故か川端康成の棚を見て『山の音』という本があるのを見つけた。こんな本もあったのかと何故か手に取り、買って帰った。それでぱっとページを開いた瞬間に、あっ、これは『雪国』とは違うぞ、と分かった。それで何ページか読んで、とんでもない物を読まされてしまったなぁと感心した。

 ここ数ヶ月改稿ばっかりしていると(今もしかして私はとんでもない文章を作っているんじゃないか)と思う瞬間があって、内心天狗になる時もあったけれど、川端康成はもう何十年も前にそんな場所を通り過ぎていた。謙虚にならなければならない。まだまだ精進しなければならない。

 その川端康成の文章を読んで、ふと私の中にあるひらめきが降ってきた。比喩は言い切った方が強くなるのではないか。

 そこで『聖者の行進』で試してみた。

 ユリは太陽のように可愛らしい女の子だった。彼女が笑うと世界が明るくなった。

 ↑これをこう変えた↓

 ユリは太陽だった。彼女が笑うと世界が明るくなった。

 もちろんユリは人間の女の子なので太陽ではない。この文章は間違っている。でも、こっちの方が良い気がする。たぶん間違っていない。比喩は言い切る方が強い表現になる。

 というわけで改稿中の『ヒッチハイク!』でも試してみた。

 胸は大玉スイカを詰めたように膨らんでいて、お尻はかぼちゃみたいだ。僕が驚いたのは彼女の顔だ。アスファルトにスイカを叩きつけて、たるんだギョウザの皮を被せたような顔をしていた。

 ↑これを言い切ってみる↓

 胸は大玉スイカで、お尻はかぼちゃだった。僕が驚いたのは彼女の顔だ。アスファルトにスイカを叩きつけて、たるんだギョウザの皮を被せていた。

 ん? う~ん、いまいちか。っていうかスイカで喩えるの好きだな。聖者の行進でも何かをスイカにたとえたような気がする。でもやっぱり下の方が良いような気がするなぁ。明らかにおかしい文章だけど、上より下が良いような気がするなぁ~(←言い切らない)。

 言い切らないことばかり言うけれど、言い切る比喩はもうちょい進化できそうな気がする。でも今のところはひらめきどまりだ。

(2018年4月3日 牛野小雪 記)