俺「先生、執筆中にやる気が無くなったらどうすればいいですか」漱石「さっさと寝ろ」

 ある人が、夏目漱石に「執筆のとき、やる気が無くなってふて寝してしまうことがあります。どうやってこの妨げをなくしたらいいですか」ときいたところ、漱石は「やる気があるときに書きなさい。私なんかはしょっちゅう昼寝してる」とお答えになったのは大変尊いことであった。
 また「小説は、確かにできると思えば確かにできることであり、不確かだと思えば不確かである」と言われた。これも尊いことである。
 また「疑いながらでも執筆すれば完成する」とも言われた。これもまた尊いことである。


 上に書いたことは全て作り話で、徒然草39段『或人、法然上人に』を冗談に改変したものです。しかし、全くの嘘とも思われないので、ここに書いておくことにしました。

狂気の入口、その一歩手前

 昔々、『吾輩は猫である』を読んだときの衝撃は大変なものだった。吾輩は猫である。名前はまだない。という有名な冒頭文は知っていたが全部読んだことはなかった。ちゃんと読んだのはもう20歳を越えてからだったと思う。古いとはいえ過去の名作を読んで勉強するかという軽い気持ちだった。
 1話目はやっぱり古臭い文章だなと思ったが、2話目ぐらいからある疑いが出てきた。半分読む頃には確信して、全部読終わると完全に悟った。これは俺には書けない物だと。私と夏目漱石には越えられない深い谷があって、しかもそれはどれだけ全力で飛んでもきっと飛び越えられない大きな断絶を感じさせた。今まであった確かな自信は木っ端微塵に打ち砕かれた。一度目の断筆である。
 しばらくの間は夏目漱石のことが物凄く嫌いだった。死んで欲しいとさえ思った。それが何かの拍子でひっくり返り、猫以外の小説も読めるようになった。好きと嫌いは表裏一体で、物凄く嫌いだったのが物凄く好きになった。やっぱり猫が一番だと思う。
 さて、さらに年月が進んで縁があってKDPで本を出した。夏目漱石と比べれば月とすっぽんで、まあこんなもんだろうという気持ちだ。
 蒲生田岬を書き終わるとなかなか俺もやるもんだという気持ちになれた。それと同時にある欲心が浮かんできた。高崎望を書いていると、その欲はどんどん大きくなってきた。それも書き終わると、今ならひょっとすると、この断絶を飛び越えられるのではないかと思えてきた。そしてある考えが頭を満たした。
 夏目漱石を殺してしまおう。そう心に決めた。
 彼はもう死んでいるので殺しようがない。肉体的な意味ではなく精神的な意味でだ。自分の心の中にいる夏目漱石を殺して、完全に消してしまう。どうやってか?彼より凄い小説を書いてだ。書くものは決まっている。猫の借りは猫で返す。そう意気込んでまずは創作ノートを書き始めた。ある程度のあらすじができて、いよいよ登場人物の名前を仮にでもいいからつけなくてはならない段階まできた。最初の2人はすぐに決まったが、3人目でぱたりと止まった。まだあらすじの段階なので太郎でも二郎でも、なんなら権兵衛でも構わないのだが、それすらも決められなかった。結局その日はそこでノートを閉じた。
 次の日、ノートを開こうとすると指が震えた。それは少々くすぐったくもあり、同時に恐怖を感じた。ふふふと笑いながらノートを開くと、くすぐったさが消えて恐怖だけが胸に居座った。恐怖を感じるとそこから何も考えられなくなった。結局名前一つ決められずその日はノートを閉じた。
 また次の日、ノートを開こうとすると今度は頭が震えた。首の後ろからそれはくるようだ。くすぐったさは感じず、ただ胸で恐怖を感じた。その日もやはり何も考えられずノートを開かずにずっと机を前にして座っていた。
 さらに次の日、ノートを前にするとまた頭が震えた。胸では恐怖を感じる。さらにノートから狂気のささやきを感じた。もし、この目の前に置いてあるノートを開いてしまえば、自分はきっとキチガイになると予感した。狂気に陥るのが恐かったので当然ノートは開かなかったが、もしあのときノートを開いていたら、黄色い救急車に載せられて鉄格子付きの病院に入っていたかもしれない。
 それからはノートを部屋の隅の置いて机の上に置くこともしなかった。ノートが無くても恐怖だけは胸に居座ったままだったので、それどころじゃなかったのである。その恐怖はずっと続き、このままじゃノートを開けなくても遠からずキチガイになると思った。
 ふとノートの代わりに吾輩は猫であるを開けた。
そして"到底助からないと思っていると、"という一文を見た瞬間に咄嗟に自分の負けを悟った。しょせん私が敵う相手ではなかったのだと。二度目の敗北である。それが分かるとすうっと気持ちが楽になった。気持ちが楽になると夏目漱石を殺そうという気持ちがきれいさっぱり消えた。どうやっても心の中の漱石を消しようが無いのなら、いっそのこと膝の上にあぐらをかかせてもらおうという軽い気持ちまで出てきた。
 そんなこんなで私は再びノートを開き、あらすじを書けるようになり、決められなかった名前もついに決まった。この調子なら6月には書けるようになるだろう。
 執筆中はブログもツイッターも沈黙していることが多いが、今回は何かおかしいと感じたのか心配の声を寄せてくれた人が何人かいました(ある人なんかはこちらが口を開く前にそのまま図星の悩みを指摘してきたのでちょっと恐いぐらいでした。ひょっとして超能力者でしょうか?)。心配をかけましたが、もう大丈夫だと思います。ありがとうございました。

牛野小雪より

山の向こうにクジラがいる

 どこかで誰かに言った気がするけれど、誰に言ったか思い出せない。書けるときの心境はどんなものかと言うもので、私は山の向こうにクジラがいるという風に表現した。
 つい最近そのクジラが戻ってきたのだが、その姿は日を追う毎に大きくなり、今では山をはみ出してしまった。今回はめちゃくちゃ大きい。始めは頭が痺れるくらいワクワクしたのだが、話がどんどん大きくなるにつれて、自分にはこの話を上手くまとめられるのだろうかと不安になってきた。
 毎度の様に思うことだが、今回は凄いのが書けそう。
 もし、上手くやれたら3段飛ばしで上達する。間違いようのないことだ。ひょっとしたらこの気持ちは妄想で勘違いなのかもしれないけれど、今は物凄くワクワクしている。
 結局猫の話を書こうと思っている。まだ本文は一文字も書いていないけれど、今までで最速の執筆を経験するかもしれない。

睡眠と文章生産量には相関関係があるかもしれない(仮説)

 ちょろちょろっと試しに書いてみた。うん、なかなかいいじゃないかと手応えはあったが、また書けなくなった。やっぱりまだダメっぽい。書く内容は頭の中にあるのにそれが言葉として出てこない。何故書けないのだろうかと嫌になる。どれだけ考えても答えは出ないので、ここはひとつ逆に考えてみてはどうかと思いついた。なぜ書けるのだろうかと。

 一週間前に髪を切りに行った。その時店の親父に「最近どうだい?」と聞かれたので「何故か1日1冊売れてる。今月はもう10冊以上売れた。正直意味が分からない。自分の中じゃ事件だと思っている」と答えた。それで話が弾み、どんな小説を書いているのかと初めて訊かれた。
 その人は私がKDPに出し始めた頃から事情を知っているが、小説の内容にまで話が広がるのは初めてで、小説は読まないと豪語していたから、予想外の問いにこっちでもあたふたした。
 それでつい最近書いたぼくとリカルドと竹藪の柩の内容とメタファーについての話をしたら、めちゃくちゃ驚いていて「そんなもん書いているとは思っていなかった」と言われた。ちょっと心外だ。
 そのあとに、どうやったらそんな話が思い付くのかと訊かれて、言葉が詰まった。はて、どうしてあんな話が書けたのだろう?自分でもさっぱり分からない。
 例えば、文章一つ書くにしても、それは書く直前まで考えてもいなかったことで、何故か突然湧いてくる。いや、この表現は正しくない。よくよく考えてみると言葉が浮かんだその瞬間をいまだかつて感じたことがない。ふと気付けば頭の中にある感じだ。あらすじの段階でも何故その話を書こうと思ったのか、またどうやってその筋書きを生み出せたのか分からない。
 そう考えると書けないのが普通のことで、書けるのが異常なことに思えてきた。

 日記帳と過去の執筆進捗記録を読み返した。書けるときと書けないときは波があるようである。それで波の変わり目をよく調べると、いくつか気付いたことがある。書けるように前は予感があるが、書けなくなるときは突然だ。大体前日か、前々日に明日は書けるのではないかという予感を書いていることが多い。または書けた日に、前日予感があったからそんな気はしていたという記述がある(ということは明日も書けないな)。ちなみに書けないという予感もあったらしいが、こちらは外れている。予感は書ける方でしか感じないようだ。無いものは感じようもないのだろう。
 またよく書けたと書いている日を読むと、よく眠れたとか、ぐっすり眠れたせいか云々という文言がよく見られる。またよく書けた前日には、今日は一文字も書ける気がしないから寝ることにした。ボロ雑巾になった気分がするという意味の記述がある(日記は布団の中で書いている)。
 これは仮説だが、人間は眠っている間に想像力の元になる物質を生産していて、これがある程度たまったときに、もうじき書けると感知しているのではないだろうか。
 そんなわけで睡眠時間と文章生産量の相関関係を今日から調べることにした。


 こんなに長々と書けない書けないと悩むのは本当は書きたくないからではと疑ったこともあったが、それは違うと分かった。何故なら本当に書きたくないのならこんなことを考えるはずがないのだから。
 私には次の衆議院選挙でもし当選できなかったらどうしようという悩みは無いし、息子がやんちゃで言うことを聞かなくて困るという悩みもない。それと同じである。
 
・・・と本当にうだうだ書いてきて、あれっ、実はもう書けるんじゃないか?と試してみたがやっぱりダメ。ブログの文章と小説の文章は出てくる場所が違うようだ。

全くの不思議~想像力はにおいかもしれない~

 やっぱり昨日は予感があったから今日は書けた。始めの一文字はなかなか出てこなかったが、出ないことが不思議に思えるほど必ず書けるという予感を越えた確信があった。もしかしたら明日かもしれないという考えが一度よぎったが、それでもしばらくじっと座っていると、ふっと言葉が出てきて、一度書けるといつものように言葉が出てきた。
 一時間ほど書いて、ふと考えた。一体自分はこの予感をどこで感じているのだろうかと。静かにその予感の場所を探るとそれは鼻の付け根で感じていると分かった。正確には鼻の奥、前歯の上あたりだ。
 これはひょっとしてとんでもない発見をしたのではないかと胸がわくわくしたが、一瞬頭が冷静になってネットで鼻について調べてみた。鼻には色々言葉や意味がある。

○鼻にかける
○鼻につく

と観念的に相手をとらえるのに鼻を使うことが多い。また自分を指差すときは鼻を指すらしい。目から鼻に抜けるような才能という言葉もある。そしてまた、危険や嘘はにおうようだ。探せば他にもあるだろうから気になった人は調べてみると面白い。
 色々調べた結果、自分が見つけたのはそう大したものではないことを知った。昔の人がすでに発見していたことを再発見したにすぎない。
 それじゃあ、なぜ鼻でもうじき言葉が浮かんでくるようになることが分かるのか?これは今もって分からない。想像力とはにおいのようなものかもしれない。お香でも焚いてみようかな。