このKindle本を読め!王木亡一朗強化週間『ライフゲージ』

心身共にうんたらという言葉がある。困憊でもいいし、爽快でもいい。

 そこに至るまでに心と身体が一緒に困憊したり、爽快になることは少ないように思われる。国道の端から端まで走れば、まず体が困憊して、それに引きづられて心も困憊するだろうし。でもそれが駅伝で、地区優勝を取ったとかであったなら心は爽快になり、体の疲れも吹っ飛ぶ。ということを理解するのにあまり苦労はしない。
 
 心と身体は独立して存在するのではなく、お互いに影響を与えながら生きている。

 心を臓器として考えればもっと分かりやすいかもしれない。肝臓がダメになれば、他の部分もダメになるし、他の部分が頑張ることによって、ダメになっている肝臓が踏ん張って持ち直すということもある。かといってある臓器だけを気にかけていても、他の部分が全然ダメになることだってあるだろうし、全てに気をかけていても、いつの間にかどこかがダメになっていたというのはよくありそうな話だ。

 人生だって同じようなものだ。お金は大事だけどお金ばっかり追っていると落ち着かない人生になるし、かといってお金を気にかけないとみじめな人生になる。人に気をかけていても嫌われることはあるし、気に入られようとしなければ気にかけてくれることはない。魚心あれば水心あり。

 一度だけの人生。心をどこに置こうぞ。・・・・・なんて真面目に考えるには人生は重たすぎるのだ。誰も人生を背負うことはできない。そうできていると思い込んでいる人はいるけど。

 人生はシュミレーションゲームではなくシューティングゲームみたいな物。障害物に気をつけながら目の前に現れた敵を撃ち倒すこと。次に何が出てくるかは分からないし、敵は前から出るとも限らない。上下後ろどこからでもありだ。とにかく倒しまくって敵を倒し、、、まくらなくったって良いんだな、これが。生きてる限り前に進む。考えてみたら残酷だよね。今はもう2017年だけど、2016年もうちょっと待ってくれよって思う時がある。

(2017/01/11 牛野小雪 記)
LaLaLaLIFE









このKindle本を読め!王木亡一朗強化週間『夫婦茶碗』

 織田作之助のパクリかよ、と思った人は間違いである。織田作之助が書いたのは『夫婦善哉』。この記事を書くまで気付かなかった。しかし『夫婦茶碗』というタイトルは町田康も書いている。内容は知らない。今回は王木亡一朗の『夫婦茶碗』。

 題名通り夫婦茶碗がこの物語の中心だ。

 この夫婦茶碗。ある因縁があって、城島なる男からのプレゼントなのだが、彼は旦那の友達でもあり、嫁さんの『友達』でもある。旦那はそこに言い知れない不穏な気配を感じている。この話では茶碗だけど、指輪とかだったらもっとヤバイよね。

 最後の最後まで城島という男は出てこないし、嫁さんの気持ちもはっきりと分からないまま終わる。正直言って嫁さんが城島と何かあった可能性はあるし、まだ続いていることだってありえる。それでも旦那は夫婦茶碗を作ったところにある種の強さがある。目をそむけなかったわけじゃない。でも暴こうとしたわけでもない。決して全てを知ることができない他人というリスクを抱えて、一緒に生きていこうと決めた覚悟。それってLOVE、つまり愛なんじゃないかな。

 暴いてシロなら、それは『信じている』んじゃなくて『知った』だけ。しかもそれをやっちゃうと信頼関係はぶち壊し。パリンとガラスみたいに壊れてしまう。そう考えると夫婦茶碗という素材はうまく使ったなというのが一点。

 新潟の陶芸教室に行った時に、練りが甘いと空気が膨張して爆発しまうので、よく練るようにという説明がエロいことが一点。(寝ると練る)

 風邪?をひいたときの思考がぐるぐる続くところで一点。

 以上合わせて星3つとさせていただきました。

(2017/01/11 牛野小雪 記)

このキンドル本を読め!王木亡一朗強化週間『ユリコのゆりかご』

 前回の『夫婦茶碗』で信頼=愛ということを書いた。今回は信頼なんてナッシングなお話。

 メインストーリーとしては弟の同級生の女の子カオリちゃんが先生に恐喝されていて、5万円が必要になるんだけど、実はそのカオリにも裏がありそうで・・・・・という展開なのだが、どちらかというとお金の行方がメインテーマじゃないかな。5万円だけに限らず、人の持っているお金。 

 常識は持っていても、信頼という形のない物は信じられない人なんじゃないかなという気がする。カオリちゃんに限らず、弟も、主人公のユリコも。カオリちゃんは実は相当悪い女の子なのだが、悪い子ではないのだ。←言語障害発症!
 カオリちゃんの言葉に私も一瞬『ええ子やないか』と思ってしまった。本当は悪い子なんだけどね。少なくとも私は嫌だな。どこがどうとは言えないけれど。
 主人公のユリコも自分のもやもやした感情をはっきりと言葉にはできなかったが、アンタが嫌だってことだけは言葉にする。

 でも何が悪いんですかと訊かれたら、どうしようかなと考えてしまうだろうな。せいぜい『筋を通せ』ぐらいしか言えないのではないだろうか。彼女がしたことは信頼を壊したことなんだけど、信頼なんて形にできないし言葉にもできない。壊した証拠なんて出せないのだ。

 起こった事はお金を渡して戻ってきたことだけで、ある意味何も起こっていない。でもその過程で壊れた物があるんじゃないかな。信頼ってやつが。最後の最後で家族がひとつにまとまるような展開もあるのだけれど、私は結局こいつら同じ穴のムジナで全員何か嫌なヤツだって感じが残った。何がどうとは言えないけれどね。みんな真っ当な常識人だけど何かが抜けている気がする。ちょっと怖い。

 でも、ひとつだけ確かに言えることがある。おっぱいは罪。おっぱいが全ての元凶です。

(2017/01/12 牛野小雪 記)

このKindle本を読め!王木亡一朗強化週間『不揃いのカーテンレール』

 『LaLaLaLIFE』一番最後のタイトル。ちょっと複雑。明確には書かれてはいないが私は三角関係の話なんじゃないかなと思っている。でも本質はマリッジブルー説を取りたい。主人公の僕と、坂本が世間的な幸せと今までの流れにいる自分とで綱引きしている。そんな風にも思えた。

 結婚したいわけじゃないけど、結婚したくないわけでもない。今のままでいいとは思っていないけど、ずっと今の状態が続けばいいとも思う。今までの自分を変えるってことはある意味死ぬことと同じで、でも誰かと一緒に暮らすなら変わらなきゃいけなくて、ズバッと何かを決められれば楽になれるんだろうけど、本当にそれで良いのかと悩んだりもして、結局ブレーキを踏みながらアクセルも踏んでいるような生き方をしてしまう。

 ブレーキを踏むのも人生だし、アクセルを踏んで進むのも人生だ。未知(←道の誤字じゃない)の先には落とし穴があって、ブレーキを踏んだことで助かることもあるし、アクセルを踏んで進んだ先にはイオンモールということもあるだろう。死して人定まるという言葉があるように、死ぬまで人生のリザルトは覗けないのだ。アクセルを踏むだけが人生じゃない。ブレーキを踏むことだってあるのだ。

 でもアクセルを踏まなければイオンモールに辿りつけないかもしれない。そういう予感があった時、それでもブレーキを踏むことを飲み込むには、何か発散しなきゃならないものがあるんじゃないかな。歌を歌うとか、クラクションを鳴らすとか、幽体離脱してみるとか(←突飛だな)。そう考えると本当の意味で止まるものは何も無いのかもしれない。この世のものはこの世で収まるのだ。

(2017/01/13 牛野小雪 記)







このKindle本を読め!『アルフェラッツに溶ける夢』

 夢とは基本共有できないものである。少なくとも同時性はない。これこれこういう夢を見たと話すことはできても、今現在見ている夢を誰かと一緒に見ることはできない。たとえば私が今、月を見上げていたとする。その時他の誰かが月を見上げていたとしたら、私とその人は同時に月を見ることが可能である。でも夢でそういうことは起こらない。仮に二人の人間が富士山の夢を見たと言っても、内容まで同じとは普通考えないものだ。

 しかし『アルフェラッツに溶ける夢』ではそういう夢を見る。三浦くんと咲子と華の夢は同じ世界なのだ。見たこと、話したことをお互いに共有している。あるいはそれ以上のことも。簡単に言えば夢で心が繋がっているようなものである。かなり幻想的なお話。

 これに似たような話で、劇場版エヴァンゲリオンがある。これに人類補完計画というものが出てくるのだが、それは人類全てのATフィールドを無くし(劇中では物理的なバリアだが、心理的なバリアのことも含まれている?)、ひとつの生命体となる計画だ。規模は違うけれど、なんだかこの話と似ている。

 人類補完計画は自他の境界線を失くして心も体も溶け合う理想郷なんだけど、私は嫌だなと思った。
人類みんなひとつになって分かり合えるなんて素晴らしいようにも思えるのだけれど、本当にそうだろうか。人間の心には分かって欲しいところもあるけれど、分かられて欲しくないところもあるはずだ。相手と100%分かり合えるということはだ。劇中のシンジ君の立場で言えば病室でアスカのおっぱい見てオナニーしてたのがバレちゃうってこと。それに体の話でいえばミサトさんや綾波と合体できるのは良いとしても、対象は人類全体なのだからオッサンとも合体しなきゃいけないことを忘れてはいけない。私はヤダなぁ。

 ミサトさんは人類補完計画なんてただの馴れ合いだって言っていたけど、最初から一体だったならともかく、何年か自他で別れていたところでひとつになるなんてある意味残酷だ。心の闇だけじゃなくて、心の垢まで見られちゃうもの。でも恥ずかしがる自我が存在しないから大丈夫なのかな。
 ん、待てよ。でも自分で自分を責めるということもあるからやっぱりダメだ。シンジ君も自分で「最低だ」って言ってたし。それが人類全部分で襲ってくる。自殺まっしぐらなのは間違いない。やっぱり人類補完計画は失敗する。

 だいたい、ひとりの人間の中でも心の中は統一されていない。仮に超自然的なことが起こっても、全てがひとつになることなんて土台無理な話だ。しょせん幻想は幻想でしかなくて、儚い夢は打ち砕かれる運命(さだめ)にある。だけどその幻想によって現実の裏側が支えられてもいるのだ。

(2017/01/22 牛野小雪 記)



合わせて読みたい

サトラレという心の中が読まれてしまう人が出てくるお話。ここでもやっぱり悟られたくない心を読まれるということが問題になっていて、基本的にサトラレは悟られていることを知らない。ちなみにサトラレの逆のサトリというのも出てくるのだが、人間の汚いところを常に見てしまうので、こっちは人間不信になっている。そういえばたぶん元ネタのひとつであろう妖怪サトリも山の中でひとりぼっちだったなぁ。昔話はよくできている。

このKindle本を読め!『ギャッツ/菊池針男』

 主人公の僕が大学でギャッツという男の子と出会うお話。ちなみにギャッツというのは本名ではなくあだ名である。私の覚えている限り僕もギャッツも名前は出てこない。物語は僕とギャッツで視点を入れ替えながら進む。(以下『僕』とは牛野小雪のことではなく『ギャッツ』の主人公のことを指す)

 ギャッツ君というのはなかなか世慣れた人間で人当たりの良い人間のようである。もっと下世話な話をするとモテるのである。それだけだと嫌なヤツだが、僕をバーに連れて行ってくれたり大人の階段を登らせてくれたりする。そういうところに僕は惹かれていくのだが、ちょっと惹かれすぎているきらいがある。

 しかしそのギャッツ君にも人を信じることができないという欠点がある。人を信じることができないから仮面で完璧にギャッツを演じているのだが、他の人達にはどうも薄々気づかれていて、人との関係が結べないのである。ちなみに僕もどうやらその気があるようだ。

 ふたりは表面的には正反対に見えるが実は根は同じで、ひとりは完璧に仮面を被って道化になり、ひとりは鉄壁の仮面を被って誰も寄せ付けないようにしている。結果も同じでふたりともひとりぼっちだ。

 そういうふたりだから最初は気が合いそうなのだけれど、最後の最後で駄目になってしまう。お互いに信頼できないのだ。ここが物語のポイント。内容紹介にも信頼とは何かというテーマと書いてある。

 ギャッツが僕を含め誰も信頼できないのは明示されているが、実は僕もギャッツを深いところで信頼していない。それは何故だろう。僕はギャッツ好き好き人間のように描写されているのに。それは僕がギャッツの秘密を知りたがっているから。コイツは良いやつだけど隠し事をしている奴は信用できない、というわけだ。そうそうここでもギャッツと僕は正反対で、ギャッツは僕に対して秘密があってはいけないと思い込んでいる。

 物語の面白いところはギャッツの視点で読者はギャッツのことを知っていくのに、物語の僕は終始ギャッツのことを知らないまま話が進んでいくことだ。僕は最後までギャッツの秘密を知らないまま物語はエンドを迎えてしまうのだが、秘密を秘密のままにして友情を深くする。

 信頼とは何だろう。何もかも心の中をさらけ出すことだろうか。宇多田ヒカルの『Wait&See〜リスク〜』にはリスクがあるからこそ/信じることに意味があるのさというフレーズがある。もし僕とギャッツがお互いを十全に知ってしまえばそこに信頼や友情はあるだろうか。知ることが悪いこととは言わないが、知られたくないことを知ろうとすることはどうも違うような気がする。だから最後の最後に僕はギャッツの知れないことを知れないままでいることにして、ギャッツも知らせないままにした。お互い自他に存在する『知られざる』を受け入れることによって友情を深めることができたのだ。

ギャッツ: The Strange Gats [Kindle版]
 

アンチテーゼとして藤崎ほつまの『キミのココロについてボクが知っている二、三の事柄』を挙げておきたい。こちらは知ってしまうことによって友情が芽生えた物語である。

キミのココロについてボクが知っている二、三の事柄 [Kindle版]

このKindle本を読め!『風、めぐりくる』ヤマダマコト


 思い出とはこの世ならざるものである。その人自身にとっては存在が自明であっても他人にとっては存在しないも同然である。何故こんなことを書くのかといえば『風、めぐりくる』が思い出の話だからだ。


 普通〈思い出〉という言葉が出る時、それは大体良い思い出のことを指す。初めて女の子とデートした思い出とか、仕事が思い通りにいった思い出とか、大きな試験を突破した思い出とか。そういう思い出があると、人は心にしっかりとした足場ができるように思われる。
 

借金取りに追われた思い出、家が火事で燃えた思い出、クラスのみんなに侮辱された思い出、という使われ方はあまり見ない。しかし、思い出であることには変わりないだろう。そしてそういう思い出は人の心にぽっかり穴を開けてしまうのではないのだろうか。
 

 良い思い出は人を生かし、悪い思い出は人を殺す。しかし、人というと大げさなので今は心ぐらいにしておこう。


 高沢という男は悪い思い出を持つ男である。故郷の新潟を出て三十歳になるまで悪い思い出から逃げ続けているという凄い経歴の持ち主でもある。具体的にどんな悪い思い出があるのかは読んでいただければと思うが、ひとつヒントにヨシュア記からある一文を引用しよう。


私がモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町をあなたがたに定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からの逃れる場所となる。


 『風、めぐりくる』は高沢が思い出から逃げ切れなくなる物語である。彼は逃れの町々から故郷の新潟に戻ってくるのだが、そこで追い詰められてしまう。何故彼は逃げ切れなかったのだろう。上の文章には続きがある。


人が、これらの町のひとつに逃げ込む場合、その者はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは自分達の町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は彼らと共に住む。


 高沢の悪い思い出とは彼の犯した罪である。逃れの町に入るには罪の告白をしなければならないらしい。それは彼にとって厳しいことでもあるようで、恐らく誰にも罪を漏らさなかったはずだ。ということは彼の体は故郷の新潟を離れ逃れの町に入ることはできても、心は入り口に止まったままだったと言えないだろうか。
 

ちなみにこの逃れの町。殺人者は裁判の判決を受けて裁きが終わるか大司祭が死ぬまで町を出てはいけないという掟がある(どちらかの条件を満たせば元の場所に戻ってもいい)。もしそれまでに町を出れば復讐をされてもいいことになっている。この言葉通り彼は逃れの街を出たことによって思い出に復讐されてしまう。


 何故高沢は罪を犯さなければならなかったのだろう。
 

自称クズである高沢が故郷に帰って家でゴロゴロしていても両親は責めない。高沢はその両親を心の中で責めている。実は彼は何もない村から抜け出したかったのではないだろうか。しかし、両親は彼を村というより家と田んぼに彼を縛りつけようとしたのではないか。だから彼は進んでクズになって勘当(家を追い出されること)されようとした説を私は取りたい。そういう目で読むと、作中で彼の犯行が細かく描写されているのだが、私には彼が自分から進んで罪を犯しにいったようにも見えるのだ。
 

しかし、彼は自分の犯した罪を両親に見せるほどクズに振り切れなかったので(これには彼が予想以上に重い罪を犯してしまったという側面もある)、体は家を離れても、心は故郷の家と田んぼに縛りつけられたままだったのではないか。


 ここまで高沢について書いてきたが『風、めぐりくる』にはもう一人の主人公『僕』がいる(名前出てきたっけ?)。実は高沢は僕と面識があり「冬の雪かきもできない根性なし」という評価を下している。
 

実は彼も村からの追放を狙ってクズを装っていた一人と私は見ている。もちろん僕には自分からクズになろうという意識はないだろう。でもどうにかしてこの村から出て行きたいという気持ちがあったのではないかと私はにらんでいる。二人は本質的には同じで、今風に言えばひとりは真性DQNになり、もうひとりは真面目系クズになったというわけだ。


もう隠し事をしながら話すのはめんどうなので、全部ぶっちゃけると実は高沢も僕も死んでしまう。そして三人目の主人公ユリだけが生き残る。何故彼女だけが生き残ったのか。ある特殊な資質を持っていたというのもあるだろうが、本質的には山彦(山の民。簡単にいえば山に住んでいる人)という逃れの町が用意されていたからだろう。さらにもう一歩踏み込めば、この世の居場所を消されたという原因がある。

 

 高沢を犯罪に駆り立てたのは何もない新潟の故郷の重力ではあるが、本当に何もないかと言えばそうではなく、家と田んぼはある。それと小さな雑貨店。とはいえ両親にしても高沢と同じように家と田んぼの他は何も無いということは薄々気付いていて、高沢を何が何でも家と田んぼに縛り付けようとはしておらず、彼が東京に出て行くことを許している節もある。が、人間の心は一方だけに偏ることもできなくて、あるところでは高沢に家と田んぼを引き継いでもらいたいという気持ちもあったのではないか。
 

 例えばもし高沢が「俺は家にも田んぼにも興味がないね。絶対に継がない」なんて言い出していたら烈火のごとく怒ったのではないだろうか。そして「お前なんて家の子どもじゃない。出て行け!」ぐらい言ったかもしれない。
 

 それとは逆に両親が「お前はこの家と田んぼを引き継げ」とか言えば、少年高沢も「バッキャロー!こんなところで暮らせるか!」ぐらい言って家を出て行ったかもしれない。どちらにせよ高沢のここから出て行きたい展開にはなる。どちらかが意思を曖昧にせず、白黒はっきりさせていれば、きっちり物事は収まっていた可能性はあるのだ。

 

 しかしだ。高沢が本当に心の底で100%故郷から出て行きたかったのかには疑問がある。彼は三十になってもあれだけ嫌っていた新潟の故郷に何度か戻っていたようである。何もないとはいえ、故郷に戻れば家と田んぼがはっきりとした形であるのだ。うまくいくかどうか分からない東京とは別で、事実彼は東京でうまくいかなくなり故郷に帰ってくる。というより状況的に帰ってこざるを得なくなるのだ。作中には書かれていないが中卒でおまけに不況で仕事がない彼がこの先生きていくには家と田んぼを継がなければならなかったのではないだろうか。しかし、それでも彼は家と田んぼを拒否し続ける。その結果彼はこの世に居場所がなくなってしまう。
 

彼は最後に自分で作った悪い思い出に殺されるわけだが、彼を本当に殺したのは新潟の故郷に対する気持ちかもしれない。しかし、彼はこの世ならざる者になって、初めて居場所を得られたという見方もある。もう一人の主人公僕もやはりこの世ならざる者になって、居場所を得たのではないか。落ち着くべき場所に落ちたということだ。ある意味ハッピーエンドともいえるが、この世ならざる者になったということは、この世に生きることができないということでもあり、それを証明するかのように物語の最後にふたりはこの世から消えてしまう。


 さて、最後にひとり生き残ったユリちゃんだが、彼女もハッピーエンドとは言い難い。彼女はこの世に生きる身でありながら、この世ならざる世界に繋がって生きている。そんな彼女もまた山彦に縛られていると言えないだろうか。彼女は不思議な資質を持つ血の繋がりによって山彦に受け入れられたが、その不思議な資質はあまり強いものではないことが示唆されているし、山の生活は大変だと漏らしている。
 

高沢が家と田んぼに縛られながら東京を夢見たように、彼女もまた山彦に縛られながら下界に夢見ることがないとは言えない。事実彼女の祖先は同じ理由で山彦から脱け出している。
 

彼女は将来きっと苦しむことになるだろう。山彦にも完全になじめず、かといって下界にも居場所はない。もののけ姫みたいな彼女がどうやって生きていくのかという謎を残して物語は終わってしまう。思春期になった彼女が「ああ、もう死にたいっ!」と言ってナイフでリストカットしちゃう可能性だってある。

 この世に居場所のない人はどうやって生きていけばいいのだろう。昔から人文学の大きなテーマになっているが未だに答えはでないままだ。たぶん千年先でも同じことが語られているだろう。
 


(2017/04/02 牛野小雪 記)

【合わせて読みたい本】
 ゴメンね、ゴメンね。他の人の本にしたかったけれど真っ先に浮かんだのはこれだったから。自分の本を紹介しちゃうね。
 上等高校という不良の巣窟に入学した高崎望君が不良になるお話なんだけど、彼はある意味優等生なんだ。何故なら不良が当たり前の世界なら不良になることが真面目だから。そんな彼は真面目にリーゼントになって不良として適応していくんだけれど、三年生になると彼の適応した不良世界はもうすぐ終わりということを告げられてしまう。望の友達だった小林くんはそれとは対象的に不良に染まらず(ある意味不良だ)真面目に勉強して望とは別世界へ行ってしまう。というより小林君以外の登場人物もみんな上等高校という世界を抜け出して望とは別世界へ行ってしまうのだ。望だけが一人取り残されそうになるんだけど、彼もまた新しい世界へ旅立つところで物語は終わる。なんだ、みんな居場所を確保したんじゃないかというわけだが、その先でどうなるかは全然分からない。その先に居場所があるとも限らない。というかこいつら大丈夫かなって作者も思ってしまう(高校三年で終わらせて良かった!)。高崎望は自分で居場所を切り開いたが、その居場所もたった三年で消えてしまう。でもまだ先へ進むことはできる。そういう寂しい希望で終わるのがグッドライフ高崎望である。『風、めぐりくる』でも僕と高沢に足りなかったのは未来に対する道筋じゃなかったのかな。ユリちゃんにそれはあるだろうか。

このkindle本を読め!『読む脳ぐると!/弐杏』

20160327130658
 時にはこうやって顔出しをして色々語ってみるのも良いような気がした。とはいえ一人で喋るのもキチガイみたいなので今日は助手を一人用意させてもらった。
村上ナツキのコピー 7
 はじめまして。エイミー・カオルコよ
20160327130658
 エイミー。今日語りたいのは『読む脳ぐると!』についてだ。飲むヨーグルトをもじったタイトルだけどツッコんだら負けだよ。
村上ナツキのコピー 6
 へえ。そうなの。
20160327130658
 この本には二つの短編が入っていて最初の一作は『きのこにまつわるエトセトラ』。突然きのこブームが発生して猫も杓子もきのこばっかりになってしまうという世界が書かれている。コンビニからフランス料理屋まできのこ一色に染められてしまうんだ。

 おっと、言わないで。

 もちろんこれは異常事態だよ。主人公もきのこ気違いなってしまった世間に疑問を持っているというのがこのお話の大事なところなのさ。彼はきのこに征服されてしまいそうな世界に疑問を持っている人を偶然見つけて一緒にブームが発生したデパ地下へと潜入していくんだ。

 ところでエイミー。知ってる? 

 僕達が普段きのこと呼んでいるのは子実体、まぁ言ってしまえば種みたいなものなんだね。

 人間で言えば・・・・この喩えはやめておこう。
村上ナツキのコピー 6
 ?
20160327130659
 それじゃあきのこの本体はどこにあるかと言えば地面の下、菌糸と呼ばれる部分が実はきのこの本体なんだ。にょきっと伸びているのはほんの先っちょでね。オニナラタケというきのこは菌糸の部分が965ヘクタールあって、推定重量は600tなのだとか。世界一大きな生物はクジラでもゾウでもなくきのこというわけ。もっともきのこって生き物っていう感じがしないけどね。ベジタリアンだってきのこは食べてそうだ。

 なんでこんなことを話したのかと言えばブームも同じような物だってことを教えたかったのさ。

 今はみんなスマホを持っているが、一昔前にipodという前身があったことを覚えている人はいるだろうか。ipodなしでiphone生まれなかったといっても過言ではないぐらいふたつは似ている。というか親子みたいな関係だしね。きのこ的に言えばiphoneは子実体で世界にばら撒かれたものだ。そこからスマホというきのこが伸びてきた。

 しかしだね。スマホというきのこがにょきっと伸びるにはガラケーという菌床が無ければ成り立たなかっただろうし、ガラケーも家庭用置き電話が無ければ成り立たないし、家庭用置き電話は手紙文化が無ければ成り立たない。

 どうやらブームという名のきのこは菌床の上に子実体が成り、広がった子実体が古い菌床を食べながら新しい菌床を広げ、また子実体を生み出すという構造になっているようだ。

 ただ雑学を披露したわけじゃない。

 まさに『きのこにまつわるエトセトラ』はそういう話なんだ。世界を支配しようとしたきのこは滅んでも菌床は残っている。それどころか新しいきのこの予感を漂わせながらこの話は締めくくられる。
盛者必衰。古いきのこを滅ぼして新しいきのこへ。『きのこにまつわるエトセトラ』とはきのこという存在を通して世間の移り変わりのメタファーを読まされている傑作なんだよ。
村上ナツキのコピー 7
 そうなの。
20160327130705
 そうなんだ。
 さぁ、エイミーあの言葉を言うんだ。
村上ナツキのコピー 8
 えっ、あなた本気で言ってるの?
20160327130705
 ・・・・・・・・・
村上ナツキのコピー 8
 (この人正気じゃないわ。悪いきのこでも食べたのかしら)
村上ナツキのコピー 5
うわ〜!すご〜い!
 こんなのはじめて〜!
 今まで聞いたことない!
 ぜったいに読まなきゃ!

村上ナツキのコピー 6
 ・・・・・これでいいの?
20160327130702
 エイミー、君は素晴らしいよ
村上ナツキのコピー 6
(仕事を選びたいわ。こんなバカみたいなやつじゃなくて。でも最後までやるしかないわね)
20160327130658
 なんと『読む脳ぐると!』はこれで終わりではない。
 次は『そうだ『現実』へ行こう』という短編だ。
 現実と非現実に穴を開けることによって相対化された現実と非現実が等価になり、却って元いた現実を生きていけるというすご〜いお話なんだ。
村上ナツキのコピー 5
すご〜い!
 
ぜったいに読まなきゃ!
20160327130705
 三つ目の短編は『二億回忌おめでとう』
 僕はこれが好きだな。『ママンが死んだ』というカミュの『異邦人』をパロった冒頭から始まる本当の自由というものを書いた小説だ。人は生まれながら色んなものに縛られている家畜同然の生き物だ。それは両親であったり、学校であったり、友人、恋人、最近ならスマホ、それに羞恥心、自分を縛る檻も鎖も脱ぎ捨てて自由の荒野へと走り出した。彼は一体どこへ行くのだろう。生まれ育ったハウス(家)を捨て、ホームまでも捨てた彼は生きていけるのか。全然うらやましいとは思わないのは何故なんだろう。僕が思うに人は自由を求めて生きてはいない。世間に流布する自由はせいぜい今より良い鎖か、広さに余裕のある檻を意味しているに過ぎない。牢獄を抜け出すことは考えていないのだ。しかしそれもそれで何か息苦しい。自由の荒野でもなく、より良い牢獄でもなく、僕たちは何を追い求めるべきなのか。そもそも真に何を欲しているのかを知っている人間がいるのだろうか。TVや雑誌では本を売りたいがために「
小説を読めば人生の悩みの答えが見つかる」と言う。しかし小説に答えはないと僕は思っている。映画『マトリックス』でモーフィアスが言ったように「入り口まで連れて行く」だけだ。入り口のドアを開けずに帰っても良い。ドアを開けても幸せになれるとは限らないしね。だが僕は人は本質的に幸せすら求めていないと思っている。そういえばマトリックスの世界も最初は幸せに満ちた理想郷を設計していたけれど何故かうまくいかなかったと言っていたっけ。どうも幸せだけでは満足できないようだ。じゃあ人は何を求めて生きているのだろうか。ただひとつ言えるのは自由の荒野にも、人生の牢獄にも、そして小説の中にも答えは見つからないだろう。
村上ナツキのコピー 2
 あれ、でも夏目漱石の『門』は開かなかったっけ? 中にも入ったわよ
20160327130701
 違うだろ、エイミー。アレだよ・・・・
村上ナツキのコピー 7
 あっ、アレか・・・・・
村上ナツキのコピー 5
すご〜い!
 ぜったい読まなきゃ!







(2017/04/26 牛野小雪&エイミー 記)


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