『伊勢海老の恩返し〜lost my anything〜/S.T.コールフィールド』

 ある日突然親戚の叔父さんが押しかけてきて、発泡スチロール箱を押しつけてきた。中身は何かと訊くと「イセエビ」とだけ叔父は言い残して去った。他にも行く場所があるんだとか。


イセエビってあの伊勢海老か?

 

 発泡スチロールを机に置いて蓋を開けるとひんやりとした空気が漏れてきた。中には紙を細長く切った物が大量に入っている。なんだよ、伊勢海老なんていないじゃないか。俺は中にある紙くずを取った。するとそこには俺の腕ほどもある伊勢海老が端の方で丸まっていた。


 げっ、伊勢海老ってこんなにデカイのか。気持ち悪っ! 

 

 予想外にデカイ伊勢海老を前にして、俺は少しも動けなかったが、伊勢海老の方は明るい場所に出たせいか急に体を跳ねさせて、発泡スチロールの中で暴れ始めた。俺は急いで蓋を閉める。中でゴトゴト暴れる音がしたが、しばらくすると静かになった。


 生きているのか。超新鮮じゃないか。

 ふむふむ、前々から高いとは知っていたが、ネットで調べると、伊勢海老はけっこうなお値段がすると分かった。叔父さんサンキュ。ついでにさばきかたも調べておく。ふむふむ、今日は伊勢海老のムニエルにしよう。


 夕方になると俺は発泡スチロールから伊勢海老を出した。海老は眠っているようで、俺が手に持っても、じっとしていた。


 そのままさばきにかかるのはちょっと汚いので俺はまず伊勢海老の体を洗う事にした。これがいけなかった。蛇口の水を海老に当てた瞬間、あの野郎。急に跳ねやがって、俺の手をひっかきやがった。おまけに手から離れて、シンクの中をバックステップで縦横無尽に駆け回る。


「てめえ、大人しくしろや!」


 シンクの隅で固まった伊勢海老の胴体を掴むと、俺はまな板に奴の体を押し付けて出刃包丁を握った。そして奴の体を真っ二つ・・・・・にするはずが、海老野郎がまた暴れて、まな板から脱出しやがった。この野郎!


 海老のヤツ。頭は前に付いているのに、後ろにしか跳ねてやがらない。きっと性格は後ろ向きなんだろうな。そうやってヤツは後ろに跳ね続けて、とうとう玄関まで来たが、不幸な事に俺の靴の中にすっぽり入ってしまった。それ以上はもう後退はできない。逃避行もここまでだ。


「お前さ、いい加減にしろよ。もう俺にさばかれるしかないんだよ」


 俺は靴の中から伊勢海老を引きずり出した。ちょっと臭かった。


 もう一度海老を水で洗ったが、さっきの逃避行で力を使い果たしたようで、ヤツはじっとしていた。まな板に置いてもそうだ。じゃあな、足とヒゲはみそ汁にしてやるよ。こうして俺が海老野郎を縦に真っ二つにしてやろうとまな板に押し付けたとき「キュゥゥゥゥ」と海老野郎から鳴き声がした。


 あれ、待てよ。そもそもどうして俺はこの海老をさばかなくてはいけないのだろう。だいたい俺って海老嫌いじゃん。伊勢海老の名に目がくらんで、何か間違ったことをしているような気がした。でも伊勢海老だぜ?


 俺が海老から手を放すと、ヤツは弱々しい力でまな板から逃れようとしていた。その哀れな姿を見ると、どうにもさばくのがためらわれた。それに俺、海老は嫌いだし。


 俺は伊勢海老を発泡スチロール箱に戻すと、そいつと一緒に港まで行った。


「何か手違いがあった。もう人間に捕まるんじゃないぞ」


 俺は伊勢海老を海に放してやった。ヤツは海中でもバックステップで後ろ向きに泳ぎながら海の底へ消えた。何かいい事をしたような気分がして心が洗われるようだった。その代わり夕飯を逃したので、帰りに牛丼を食べて帰った。


 それから何ヶ月が経ったある日、玄関のドアをノックする音で目が覚めた。誰だ一体。新聞の勧誘か?


 ドアを開けると、日傘をさしたオバサン二人組みが立っていた。


「あなたは神を信じますか?」


 前に立っていたおばさんがそんなことを言ったので俺はこう言ってやった。


「知らないんですか? 神は死にましたよ」


やった。哲学的回し蹴りを食らわせてやったぞ。

しかしオバサンは眼鏡の奥で目を光らせて「ニーチェですね」と返してきた。ヤバイ、このオバサン、完全理論武装を完了しているぞ。俺は反撃をされない内に「今ちょっと忙しいので」と強引にドアを閉めた。


 朝から宗教の勧誘か。たまったもんじゃない。俺は宗教を信じる人間特有のあの妙な力強さが嫌いだ。でも本気で信じられたら人生充実するんだろうな。そこだけはうらやましいよ、ホント。


 俺が朝食のナポリタンを食べているとまたドアがノックされた。次は保険の勧誘か?

 

 しかし、ドアの向こうに立っていたのは、やけに身持ちの固そうな女の子だった。


「あ、あの、何かごようでしょうか?」


 予想外の事が起きたので、俺は少し動揺していた。

 なんだ。隣に住んでいるオタクがまだ明るい時間にマニアックなデリヘルでも呼んだのか?


「あの、私、先日助けていただいた伊勢海老です!」


「は?」


「半年前にあなたのおかげで海に帰る事ができました。それで2ヶ月前に死んだので、今日は人間になって恩返しにきました」


 今度は電波女かよ。ん、でも待てよ。どうして俺が半年前に伊勢海老を海に返した事を知っているんだ? ってことはまさか。やっぱりあの時の伊勢海老! うわあああああああああああああ!


「お前、女だったのか!」


「はい!」


「はいじゃねえよ!」


 誰かに見られると危険な予感がしたので、とりあえず俺は伊勢海老を、いやエビちゃんを部屋の中に入れた。


「さて、君は半年前に俺が海に返した伊勢海老なわけだ。ちょっと信じられないけど」


「ええ」


「つまり命の恩人」


「はい」


「恩返しと言ってもどんなことをしてくれるのかな?」


「どんなことでもします! 今日はそのつもりで来ました」


「どんなことでも・・・・?」


 俺は唾を飲み込んだ。この女、いやエビちゃん。よく見るといい体してるじゃないか。それになんでもすると言ったぞ、まさかな・・・・


 俺はエビちゃんに近寄ると、彼女の肩に手を置きさりげなくベッドの方へ押していった。エビちゃんは少しとまどっていたが、それでもためらいがちに押されて、ベッドに座り込んだ。俺もすぐ隣に座り彼女を抱き寄せる。エビちゃんは嫌がる素振りを見せなかった。やった、この感じはいけるぞ!


「分かっているね?」


「えっ?」


俺はまずエビちゃんの胸に触れてみると、どうなるのか試してみた。元は海老のくせにけっこうデカくて柔らかい。そう思った瞬間、座ったままの姿勢なのに強烈なボディブローが返ってきた。なんだよ、コイツ。まるで石のグローブで殴られたみたいに重かったぞ。あんた、世界を狙えるよ・・・・・・


「えっちいのはダメです! ぜったい!」


ボディを打たれて息が詰まり、床で悶絶している俺に向かってエビちゃんが顔を真っ赤にして叫んでいた。でも、俺は世界のボディに耐えられなかった。徐々に暗くなる視界で最後に見たのはスカートの奥に見えるエビちゃんの赤い下着。意外に派手な下着を着けているんだな。そう思った瞬間、また強烈な衝撃が顔に来たような気がするが、俺の意識はそこでノックアウトされた。


アゴと腹に鈍い痛みをおぼえて目を覚めたのは、もう昼も過ぎてからだった。


「さっきはすみません、大丈夫ですか?」


世界の右を放ったエビちゃんは机の向こうでしおらしくなっている。


「いや、いいよ。俺も悪かったし」


「恩返しに来たはずなのに、こんなことになってしまって・・・・!」


エビちゃんが頭を下げた。エビみたいによく曲がる背中だった。


 「なんでもします」


 「なんでも?」


 「さっきみたいなのでなければ・・・・・」


 「でもさ、キミ。何ができるの? 元は海老なんでしょ?」


 「それは・・・・・」


 「機織とか?」


エビちゃんは首を横に振る


「財宝が詰まったつづらを持ってくるとか」


 エビちゃんはまた首を横に振る。


「それじゃあお米でいいよ。一人暮らしだし5kgあれば一ヶ月はもつから」


 エビちゃんは申し訳なさそうに下を向いた。


「はあ、もういいよ。海に帰って。別に恩返しなんてしてくれなくていいから」


「待ってください。どんなことでもします。恩返しさせてください」


エビちゃんはめんどくさい女だった。涙ぐんで俺の顔をじっと見てくる。なんだよ、俺が悪いのか? こんなことになるならあのとき真っ二つにしておけばよかった。おまけに腹も空いてきたぞ。あっ、そうだ。


「それじゃあ昼飯作って」


「料理・・・・ですか?」


「エビチリでいいよ」


冗談のつもりで言ったのにエビちゃんの目からすうっと涙が流れた。早く帰ってくれないかなと俺は思い始めていた。それでも俺はとりあえず冷蔵庫の中を調べみた。あるのはナスビときゅうりと麻婆豆腐の素。


「麻婆ナスでいいから。作り方は箱の裏に書いてあるから分かるでしょ? 字は読める?」


「はい・・・・・」


どうも料理には自信が無さそうな雰囲気だが、ナスを切って炒めて麻婆豆腐の素と一緒に加熱するだけだから大丈夫だろう。でも海老なのにどうして字が読めるんだろう? 不思議だ。


麻婆ナスができるまで俺はテレビを見ていたんだが、CM中にキッチンの方を見るとエビちゃんが包丁を持ったまま震えている。どうも様子が変なので見に行くと、彼女はまな板に置いたナスビを前にしたまま固まっていた。


「どうかした?」


「恐い」


「えっ?」


「ナスビが恐い」


「は?」


「ナスビがかわいそうで・・・・・」


エビちゃんは包丁を持ったまま顔を抑えて泣き始めた。なんだよ、この女。早く海に帰ってくれよ。


「私にはできないぃぃぃ!」


エビちゃんが悲鳴を上げてその場に座り込んだ。おい、気を付けろ。包丁を持ったまま急に動くな。もう少しで俺の顔をさばくところだったぞ。


「あのさ、君も海老だった頃は色々食べたでしょ? それを今さらナスビがかわいそうだなんてちょっとねぇ」


「貝やイソメとは違うんです!」


こいつ、こんな顔してイソメなんか食っていたのか。オエッ。でも貝を食っていたとすると意外にお嬢だぞ。っていうか貝やイソメはかわいそうじゃないのかよ。


「もういいよ。自分で作るから」


俺は海老ちゃんから包丁を取り上げて、ナスビを切ろうとしたのだが、その隣でエビちゃんが両手で口を抑えて、これから何かひどいことが起ころうとしているような目で俺の手元を見てくる。なんだよ、ナスビの一本ぐらい。


「なに?」


「いいんです。それが生きるということですから。そのまま続けてください。覚悟はできています。私は大丈夫ですから」


そんなことを言いながらも、エビちゃんは涙を流しながら震えている。そんな姿を見せられると、もうナスビを食う気なんて無くなってしまった、クソッタレ。俺は窓を開けると、ナスビを裏庭に投げ捨てた。海老は海に、ナスビは土に。


「あのさ、もう帰ってくれない?」


「私ではお役に立てませんか」


「うん」


俺が正直な気持ちを打ち明けると、エビちゃんがまた顔を真っ赤にして泣き始めた。かんべんしてくれよ。俺が一体何をしたっていうんだ。恩返しどころか、仇で返されてるよ。


「もう少し落ち着いてから考えてみようよ。きっと君にもできることがあるはずだから、ね?」


エビちゃんは顔を抑えたまま、うんうんとうなずいていた。でも、その後もかなりの時間うずくまったまま動かなかった。俺はずっと彼女のそばにいて、めんどくせええええええ、という心の叫びを抑えながら優しい言葉をかけ続けていた。このエビ、本当に何しに来たんだ?


「私きっとあなたのお役に立ってみせます。恩返しします!」


やっと顔を上げたエビちゃんは元気一杯だった。俺は高速道路を二時間走り続けたような疲れを感じていた。


「そういえばさ、キミ。字は読めるんだっけ?」


「はい!」


「それじゃあさ、ここを出て少し歩いたところに本屋があるから、ジャンプ買ってきて」


「ジャンプってなんですか?」


「えっ、知らないの? ああ、そうか。エビだったもんな。店員にきけば分かるよ。ジャンプはありますかって。お金は持ってる?」


エビちゃんは恥かしそうに首を振った。そりゃエビだもんな。持っているわけないか。でも、それじゃあその服はどこから調達したんだよ、海底の死体から剥ぎ取ってきたのか、と言いたくなるが、それは黙っておいた。


俺はエビちゃんに千円札を渡して送り出した。正直もう帰ってこなければいいのにと思っていた。


だが俺の願いに反して少し時間がかかったがエビちゃんはちゃんと帰ってきた。しかし、ジャンプを買ってきたにしてはレジ袋が薄い。まさかVジャンプを買ってきたのか? しかし俺がレジ袋を開けると、それはジャンプですらなかった。


「てめえ、ジャンプ買ってこいって言っただろうが!」


エビちゃんが買ってきたのはスカした表紙の小説本だった。
『ロスト・イン・カンバゼイション』とかいう英語のタイトルがついているが、書いているのは王木亡一郎とかいう変なヤツだ。日本人なら日本語使えよ、欧米か。


「マンガを読むより、そっちの方がためになると思って・・・・」


「よけいなお世話だ! あんたは俺の母親か!」


「ひどい! どうしてそんなこと言うんですか。私だって色々考えてきたんです」


「もう考えなくていいよ。さっさと海に帰れ。・・・・ったく、マジで使えねえエビだな。ジャンプひとつも満足に買ってこれねえのかよ」


その瞬間、俺の視界に黒い幕が降りてきた。それに足から力が抜けて床にヒザをついていた。


「命の恩人だから色々してあげようと思っていたのに、あなたがそんなにひどい人だとは思わなかった!」


エビちゃんが涙の叫びを俺に浴びせてくる。この時になってようやく俺はボディを打たれたのだと理解する事ができた。


「海に帰らせていただきます!」

エビちゃんが部屋を飛び出していく。それは良いが俺の視界が戻らない。これ、内臓破裂しているんじゃないか? 腹の中は痛いを通り越して重さしか感じないぞ。俺はもしかして死ぬのか? だが死の不安とは裏腹に、俺は不思議な気持ち良さに包まれながら意識を失っていった。



目が覚めると、俺はまだ生きていた。エビちゃんはいない。そのことが俺をひどく安堵させた。俺はやっとあの海老女から解放されたのだ。


王木亡一郎とかいうやつが書いた本は燃えるゴミの日に捨てた。ロスト何と言ったっけ? まぁいい。どうせ一行も読んでいない。聞いたことがない作家だからどうせ大した内容じゃないだろう。


そうして俺は再び平穏な一人暮らしを満喫していたのだが、ある日の休日、またドアがノックされた。俺は何故か海老女のことを思い出していたが、ドアを開けると全然違うヤツだった。


「こんにちは、私は先日助けていただいたナスビです」


「は?」


そこには筋肉モリモリの色黒マッチョが立っていた。身長はかなりデカくて2m以上ありそうだ。腕は俺の腰ぐらいある。


「あなたが私を裏庭に棄ててくれたので、私はナスビとしての一生を終える事ができました。なので今日は人間になって恩返しにきました」


「いや、恩返しなんてしなくていい」


「大丈夫です。お気になさらずに」


ナスビを自称する色黒マッチョは筋肉にものを言わせて、強引に部屋の中に侵入してきた。


「恩返しとはいっても元はナスビなので、あいにく私は何もできません。だからこの体でお返しします」


「はっ? 意味分らねえ、お前何言ってんだよ」


それと俺をそんな柔らかいまなざしで見るな。そう言いたかったが、下手にヤツを刺激すると何かヤバイことが起こりそうな気がして、口に出す事はできなかった。


「心配しないでください。恩返しは初めてですか?」


「いや・・・・・言っている意味が分からない。俺に何をするつもりだ」


「私に全てを任せていただければ何も心配することはありません。あなたはじっとしているだけで良いんですから。怖がることはないですよ」
 

「いや、恩返ししてくれなくていい。土に帰れよ、マジで」


俺がそう言うと、ナスビの目がさらに優しくなり、口にはとろけそうな笑みが浮かんだ。

ヤツは気持ち悪くなるほど優しく俺の肩に手を置くとこう言った。


「お風呂場をお借りします。体から土を落としてくるので」


そういうわけでナスビは今シャワーを浴びている。俺はこれからどうなるのだろう。そして何を失うのだろう。恐怖に震えながらナスビが出てくるのを待っていた。今すぐ逃げ出したいのに体が言うことをきかない。 

 

ほどなくしてナスビが出てきた。

黒光りする盛り上がった筋肉が水滴を玉のようにして弾いている。


「それじゃあ始めましょうか」


ナスビが俺に優しい微笑みを向けながら近付いてくる。
 

そして俺は・・・・・・




(おわり)




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