とうとう終わらせた。マダラメ帳シリーズをついに終わらせた。最終巻では主人公の赤井五郎が犯人と一緒に死ぬという衝撃のラストだった。


とうとうやってしまったという気持ちがある。やっと荷を降ろせたという気持ちもある。赤井五郎が死ぬことは前々から決まっていたが、本当に殺すまで三巻も必要だった。

 ここ何年かの明生はマダラメ帳だけを書いてきた。この本を書くのが明生の人生だったといってもいい。長年続いたマダラメ帳シリーズは累計で2億5千万冊売れた。最後の一行を書いたと気付いた時はもう何も書けないと思った。今でもその気持ちは変わらない。明生の人生にとってマダラメ帳は大きすぎる存在だった。


 長年付き合った赤井五郎を弔ってやらなければならない。そう考えられるようになったのは脱稿してから三日目の夜だった。明生は行きつけのスナック“香奈”へ行った。平日の夜なので客はまだ少ない。彼が口開けの客だった。


「あら、ハッセちゃん。ずいぶん久しぶりね。今まで何してたの?」


 ママがすぐに声をかけてきた。考えてみれば最終巻を書き始めてからは、この店どころかどこにも行っていない。ずっと家にこもってとりつかれたように執筆をしていた。


「ママ、人を殺してきたよ。いいやつだった」


 ママは一度驚いた顔をしたが、すぐ慰めるように明生の腕に手を添えた。


「この手で殺した。嫌になるぐらいあっけなかったよ。今までの付き合いが幻と思えるぐらい」


「つらいことがあったのね。お酒でも飲むといいわ」


「ワイルドターキー、ロックで二つ。もう飲む事はできないあいつを弔ってやるんだ」


 そう言うとママはカウンターの奥でグラスの準備をしている。

 

 明生はそっとカウンターの横に目を向けた。


(ヤッタ! キマッタ! シャイニングウィザアァァァァド!!)


いた。エリーちゃん。表情は読み取れないが、さっきのやりとりは聞いていただろう。もちろん店に入った時から気付いていた。さっきのキザなやりとりは彼女に聞かせるためだった。

 

 エリーちゃんは明生がこの店に初めて来たときからいる女だった。和服の楚々とした挙措でグラスを傾ける姿に明生は一目惚れしたのだ。


 明生がじっと彼女の横顔を見ていると、今さっき気付いたかのようにエリーちゃんは明生の方に顔を向けた。


「やあ、久しぶり」と明生は声をかけた。


「先生、色々大変だったんですね」とエリーちゃんは言った。やはり聞こえていたのだ。早くマダラメ帳シリーズを終わらせたことを話したかったが「はい、これ」とママが悪いタイミングでワイルドターキーのグラスを二つ、明生の前に置いた。


「うまいな」


ワイルドターキーを体に放り込むと、喉から胸に焼けた感覚が広がった。


「さっき言った人とは長い付き合いだったの?」


ママが言った。


「長いなんてもんじゃない。あいつが俺の人生だった」


「それなのに殺しちゃったんだ」


「殺したくなくても殺さなくてはいけない。そういう関係がある。俺だってそうしたくなかったが、あいつがそうさせたんだ」


 本当にそうだ。最初に赤井五郎を殺そうと考えた時は気の迷いだと思った。それでも書き続けているうちに、あいつは死に向かって走っていった。そう書かざるをえなかったのだ。物語が作者の思い通りになるというのは間違いで、物語が作者に書く事を要求することもある。それなら、赤井五郎は俺を使って自分を殺させたのか。あいつは事件の黒幕とともに滝壺の中へ落ちて死んだ。もう喋ることはできない。


 マダラメ帳シリーズではたくさんの脇役が出てきた。その誰もが死んで赤井五郎だけが独り生き残った。もうここいらでいい。人が死ぬところを多く見すぎた。ある場面で赤井五郎が吐いた独白だった。何故あんなことを書いたのか明生にも分からない。書いたときは唐突としか思えなかったが、あとで読み返すとそこにしか書くことができない不思議な言葉だった。物語がもつ不思議な力で書かせたとしか思えない。


 ふと気付くと店内に暗い沈黙が覆い被さっていた。少し芝居がすぎたかもしれない。


「ママ」


 小説の話だとネタを明かそうとした瞬間、店のドアが勢いよく開かれた。がっしりした体型の男達が何人も入ってくる。最初はヤクザがみかじめ料を取りに来たのかと思ったが、男の一人が明生のそばに立ち黒い手帳を見せた。それが警察手帳だと気付くのにしばらく時間が必要だった。


「初瀬明生だな?」

 男が言った。


「俺が何かしたかな?」


「殺人の容疑で話がある。署までご同行願おう」


「いや、俺は誰も殺していない」


 はっとして明生はママとエリーちゃんに目を向けた。ふたりはいつの間にかカウンターの向こうで身を寄せ合い、怯えた目で明生を見ている。


「違う、そうじゃないんだ!」


 明生は立ち上がった。


「貴様、大人しくしろ!」


 明生は後ろ手にひねりあげられ、カウンターに押しつけられた。痛みを感じるより先に固い冷たさが手首に巻きついた。手錠。何故俺が手錠をかけられるのか。殺したとはいっても小説の中だ。少しカッコつけすぎただけで二人は勘違いしている。


「来い、このクズ野郎! 逃げられると思ったか!」


 こうして初瀬明生は屈強な警官達に引っ張られ、パトカーに乗せられた。

 

 初めはほんの些細な行き違いで、すぐに釈放されるものだと思っていたが、行き違いはさらに深まっていった。


 ちょうどその日の夜、藤崎ほつまという作家が道頓堀で水死体になって発見された。メイド服姿で心斎橋を歩いていたという目撃証言はたくさん集まったが、いつどうやって道頓堀に落ちたのかは分からなかったので警察も首を傾げていた。自殺にしろ、他殺にしろ、うなずけないものがあったのだ。そこに初瀬明生が人を殺したとあるスナックで証言をした。小説の話だと言っているが藤崎ほつまと初瀬明生は小説を通じて交流があった。しかも長い付き合いだ。証言とも一致している。


 夏が終わった。初瀬明生はまだ留置場の中にいる。殺したのは赤井五郎だと言っているが誰も信じなかった。世界中が次の赤井五郎を待っている大人気シリーズを作家1人のわがままで殺せるはずがない。あってはならないことだ。赤井五郎はまだ生きている。死んだのは藤崎ほつまだけだ。マダラメ帳シリーズが完結する日はまだまだ遠い。


(おわり)


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