『幽霊になった私』を出してから、過去の作品にも手を加えているので、もうかなり長いこと改稿している。そうすると他人はどう書いているのか気になってしかたない。ネット上の文章はともかく、普通に十冊以上も本を出している小説家でも後半は意外に気の抜けた文章が多いことに気付いてしまう。何度も読んでいる好きな本なのになぁ。純粋な気持ちで本を読めないのは損だ。それと同時に長編を書く難しさを感じる。でも今回は冒頭の話。
“国境の長いトンネルを抜けるとそこはもう雪国であった”
もしこれを川端康成の『雪国』冒頭の文章だと思った人は残念ながら間違い。
正確には
“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。”
“そこはもう”は必要ない。
でもなぁ、ノーベル賞を取った人にケチをつけるのもなんだけど、どう読んでもこれだと素っ気無い気がするんだよなぁ。何か物足りない気がする。
よぽっどの文章オタクでないかぎり、ほとんどの人が上の文章で覚えているはず。
これは私だけではなく、筒井康隆先生もやっぱり上の文章で覚えていたらしい。(『創作の極意と掟』p46-47参照)。ヤフー知恵袋にもそう書いている質問がある。というか個人サイトでもたくさんヒットする。素人目にもあの文章はおかしい。でも川端康成はああ書いている。“そこは”問題は多くの人を悩ませているようだ。
こう言ってはなんだが、ノーベル賞作家も人間なので文章に迷いが出てしまったのかもしれない。それも冒頭で。
一度川端康成から離れて別の作家の冒頭を見てみよう。
“吾輩は猫である。名前はない。”
は、夏目先生の『吾輩は猫である』の冒頭。
本当にそう?
もし読んで違和感があった人は間違っていない。本当は
“吾輩は猫である。名前はまだない”
が正確な文章。
“まだ”が抜けただけで上の文章に違和感を抱いた人は多いはず。それと同じぐらい“そこはもう”が抜けているのはおかしい。 でもなぁ、ノーベル賞を取るような人が何度も読み返すような冒頭でこんなヘマをやらかすはずがない。そこには私では分からない川端康成には見えていた世界があるのかもしれない、と考えた事があるが、もちろんずっと考え続けていたわけではなく、そんな疑問は二、三日もしないうちに立ち消えになってしまった。
つい先日、あまりに推敲を続けて頭がパンクしそうだったので、結果的に何にもしない日があった。その時、この疑問が不意に突然湧き起こって、あるところにすとんと落ちた。やっぱり“そこはもう”はいらないんじゃないか、と。
『雪国』は短歌ではない。この一文で終わりではなく“夜の底が白くなった”と続く。
ん? 待てよ。それじゃあこれと、冒頭の文章をつなげ合わせるとどうなる?
“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。”
お、意外に悪くない。
そしてこれに“そこはもう”を加えると
“国境の長いトンネルを抜けるとそこはもう雪国であった。夜の底が白くなった。”
おお、なるほど。これなら私にも分かる。
最初の。までと考えれば“そこはもう”が必要だが、続く“夜の底が白くなった。”までを考えれば、”そこはもう”が無い方がすっきりする。
小説とは文の繋がりでできているのだから全体でバランスが取れていなければならない。そのためには一個の文章が不完全でも良いのだ。
野球だって四番バッターのホームランばかりじゃない。一番バッターが塁に出て、二番バッターがバントして、三番バッターがツーベースヒットを打っても一点。毎回ホームランを打つ必要はないのだ。巨人だってホームランバッターばかりで打席を固めているわけじゃない。大事なのはバランス。
四番バッターばかりで固めたチームは一見強そうだが、一歩引いて見ればかえって不安定なチームかもしれない。それと同じで、一個の文章を完璧するよりも全体の中でバランスを取ることを意識すれば川端康成の世界に一歩近付けるのかもしれない。
なんてことを急に思いついたのは、この本を読んでいたから
前々から絵全体のバランスがどこか変だなぁ、とおぼろげに思っていたが、この本にはペン先だけを見ないで、ちゃんと距離をとって全体を見なさいと書いてある。
絵なら一歩引けば全体を見ることができるが、小説は一度に全部を読むことができない。私の小説は全体のバランスが取れているだろうか。一つの文章は推敲できていても、文章の連なりとしてはいびつな形をしているのかもしれない。そんなことを考えていた。
(2016年5月16日 牛野小雪 記)
余談1:『吾輩は猫である』の吾輩は最後まで名前がない
余談2:夏目先生で上手いのは『こころ』だけど面白いのは猫と坊ちゃんだと思う。歳を取れば『門』が面白くなるそうだけど、まだその境地には到っていない。本当のところどうなんだろう?
牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪
こう言ってはなんだが、ノーベル賞作家も人間なので文章に迷いが出てしまったのかもしれない。それも冒頭で。
一度川端康成から離れて別の作家の冒頭を見てみよう。
“吾輩は猫である。名前はない。”
は、夏目先生の『吾輩は猫である』の冒頭。
本当にそう?
もし読んで違和感があった人は間違っていない。本当は
“吾輩は猫である。名前はまだない”
が正確な文章。
“まだ”が抜けただけで上の文章に違和感を抱いた人は多いはず。それと同じぐらい“そこはもう”が抜けているのはおかしい。 でもなぁ、ノーベル賞を取るような人が何度も読み返すような冒頭でこんなヘマをやらかすはずがない。そこには私では分からない川端康成には見えていた世界があるのかもしれない、と考えた事があるが、もちろんずっと考え続けていたわけではなく、そんな疑問は二、三日もしないうちに立ち消えになってしまった。
つい先日、あまりに推敲を続けて頭がパンクしそうだったので、結果的に何にもしない日があった。その時、この疑問が不意に突然湧き起こって、あるところにすとんと落ちた。やっぱり“そこはもう”はいらないんじゃないか、と。
『雪国』は短歌ではない。この一文で終わりではなく“夜の底が白くなった”と続く。
ん? 待てよ。それじゃあこれと、冒頭の文章をつなげ合わせるとどうなる?
“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。”
お、意外に悪くない。
そしてこれに“そこはもう”を加えると
“国境の長いトンネルを抜けるとそこはもう雪国であった。夜の底が白くなった。”
おお、なるほど。これなら私にも分かる。
最初の。までと考えれば“そこはもう”が必要だが、続く“夜の底が白くなった。”までを考えれば、”そこはもう”が無い方がすっきりする。
小説とは文の繋がりでできているのだから全体でバランスが取れていなければならない。そのためには一個の文章が不完全でも良いのだ。
野球だって四番バッターのホームランばかりじゃない。一番バッターが塁に出て、二番バッターがバントして、三番バッターがツーベースヒットを打っても一点。毎回ホームランを打つ必要はないのだ。巨人だってホームランバッターばかりで打席を固めているわけじゃない。大事なのはバランス。
四番バッターばかりで固めたチームは一見強そうだが、一歩引いて見ればかえって不安定なチームかもしれない。それと同じで、一個の文章を完璧するよりも全体の中でバランスを取ることを意識すれば川端康成の世界に一歩近付けるのかもしれない。
なんてことを急に思いついたのは、この本を読んでいたから
前々から絵全体のバランスがどこか変だなぁ、とおぼろげに思っていたが、この本にはペン先だけを見ないで、ちゃんと距離をとって全体を見なさいと書いてある。
絵なら一歩引けば全体を見ることができるが、小説は一度に全部を読むことができない。私の小説は全体のバランスが取れているだろうか。一つの文章は推敲できていても、文章の連なりとしてはいびつな形をしているのかもしれない。そんなことを考えていた。
(2016年5月16日 牛野小雪 記)
余談1:『吾輩は猫である』の吾輩は最後まで名前がない
余談2:夏目先生で上手いのは『こころ』だけど面白いのは猫と坊ちゃんだと思う。歳を取れば『門』が面白くなるそうだけど、まだその境地には到っていない。本当のところどうなんだろう?
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