死ぬかもしれない

●頭が爆発した!

先週の木曜日ぐらいだったか、本を読んでいる途中に眠気が襲ってきて、本を開けたまま目をつぶっていた。まだ眠るつもりはなくて、ほんのちょっと目をつぶるだけ、眠気の波が去ったら本を読もうと考えていたら、突然 ドーン! と頭の中で爆発音がした。ハリウッド映画でよくある爆発音と同じ。それもクライマックスにあるようなドデカイやつ。

慌てて布団から跳ね起きると、しばらく呆然としていた。一体に何が起こったのか訳が分からなかった。我に戻るとすぐにPCを立ち上げて『頭 爆発した』『突然爆発音』『頭 爆発 病気』とか色々検索した。脳に何か重大な障害が起きていると思っていたので凄く恐かった。死ぬんじゃないかと。

調べてみると【頭内爆発音症候群】というわりと有名な症状らしい。アメリカのとある大学生は5人に1人がこの症状に悩まされているのだとか。今までは50代に多いと言われていたらしい。解説記事には脳が疲れているだけだから落ち着けと書いてあった。脳の病気ではなく命に別状もない。原因は疲れているから。凄くほっとした。そのあとすぐに眠った。今のところ頭の中が爆発したのは、これ一度きり。やっぱり疲れていたんだな。

●推敲の話


 執筆はマラソンに喩えられる。長編は特にそうだ。終わった後は箱根駅伝の選手がゴールした後にバタッと倒れるみたいに、ドサッと疲れがやってくる。毎度の事だがKDPで出版した後は首と肩が痛くなる。その内折れるんじゃないかと心配している。でもまた書くんだろうな。自分が書いた物を人に見せるのはある種のドラッグみたいなもので不思議な快感がある(私だけ?)。書いたものが手元にあるのに、まだそれが表に出ていないと中毒症状に襲われる。もちろんそれとは別に読まれた快感というのもあるけどね。

 小説の推敲をしていると自分では意味が分かっているけれど、読んでいる人には意味が分からない、あるいは読みづらいかもしれないと思うところがある。読解力は人それぞれで、また同じ人間であってもその時々で同じ文章が読めたり読めなかったりする。疑おうと思えばどこまでも疑える。  事実『幽霊になった私』を推敲していると 、なんだこりゃ全然読めないぞ、と驚いた事がある。今まで書いてきた事はなんだったのかと意気消沈して、その日は早々に布団に入った(ちなみにその日はどんな本も読めなかった)。それで朝目が覚めて枕元で昨日読めなかったところを何気なく読んでみたら、すらすら読めた。

 推敲する時にはどちらの自分に合わせれば良いのだろうか?

 理想を言えば答えは出ている。寝不足の私でも理解できる文章が良い文章なので、なるべく条件の悪い状態で推敲すれば、分かりやすい文章が書ける。ただし、それができるならという条件付きでだ。  良い文章がどんな文章かで揉めそうだが、同じことを書いても意味が通る分かりやすい文章という意味にすれば、あと3秒で死ぬような人間が読める文章が良い文章ということになる(私はそういう文章がいい文章だと思っている)。だけど、あと3秒で死ぬ人間が読みたくなるような文章って一体何だろうか? そもそもそんな文章を生きている人間が書けるものなのだろうか。それは神の領域ではないか。

 というわけで神ではない人間はどこかの段階で妥協しなければならない。とはいっても結局できるのは自分の実力が届く範囲でしか妥協できなくて、自分にはここまでしかできない、やれることは全てやったというところまでやるしかないんじゃないかな。

●蒲生田岬の話


今まで何度か過去の著作に手を加えることがあったが、最近蒲生田岬のレビューに誤字が何度も出てくるとあったので、新刊を出して余裕が有るし、腰を据えて全面的に見直しているところ。一年以上前に書いた物でこういう風に手を加えるのは初めてのことだ。方々で手を加えたくなるところがたくさんあるのでなかなか進まない。でも、これを書いた時はこれ以上良くできることはないと思っていた。むしろ凄いの書いたなと思ったぐらい(同時にこれ以上のミステリーは私には書けないとも悟った。ドアノッカーと合わせて私のミステリーは評判悪いけどで、こうやって昔の自分を越えられると成長が感じられてちょっと嬉しかったりする。

 やっぱりその時々で自分に出せる物を出し切ったらそれで良しとするしかないんじゃないかな。それ以上の領域は自分では分からないのだから。もしかすると先日出した『幽霊になった私』も、3年後にはもっとよく書けるかもしれない。2年前に書いた『真論君家の猫』は絶対に凄いと思っていたけど、今ならもっとよく書ける自信はある。
 
 蒲生田岬の話だからついでに書いておくと、誰が念写をしていたのか分からないとレビューに書いてあったのが、とっても嬉しかった。あの話は誰が念写しているか分からないように書いたのだから、それを分からないというのは私の書いたとおりに読んでくれたということだ。念写の謎が分からなくても事件は起きるし、最後には解決(?)する。書いたとおりに伝わっているのが嬉しかった。こういうことが味わえるのも本を出す快感だろう。

●また推敲の話『違和感を感じる?』

 話を推敲に戻すと、最近正しい文章とは何なのかと考えることがある。
『違和感を感じる』
 は文法的に間違いらしい。数年前にネットでこの手の話題を何度も見た。テレビでも見たかもしれない。
感が続いているのが重言だからという理由らしい。
でも、言葉を重ねるのは昔からある手法で英語でもlong long time agoみたいに言葉を重ねる事はある。そもそも本当におかしいのなら誰にも使われないはずだ。その証拠に『違和を感じる』とは誰も書かないし『慈悲感を感じる』とも書かない。会話でも使わない。
わざわざ有名になるぐらいの間違いということは、それが日常的に使われているわけで、日常的に使われている文章が間違いという事があるだろうか。でも私は『違和感を感じる』という文言を自分の文章の中に見つけたときに違和感を感じてしまう(先日出した『幽霊になった私』ではアキが家に帰ってきた時に“さっきから感じていた違和感”という文言があった。たぶん別の言葉にさしかえたはず。今日は蒲生田岬の”達成感を感じた”という部分を”達成感があった”に変えた)。もし、こんなことを知らなかったら悩みもしなかったんだろうけどね。

   平和な時代が続くと言葉は回りくどくなるらしい。でも、本当にそうだろうか。言葉が細やかな感情を捉えられるようになったということじゃないかな。“良い”と“良くなくない”(←疑問符付きで使われることが多い)は言葉上同じ意味になるが、それは言葉以下の領域ではイコールで結ばれていない。だからわざわざ二重否定を使わなければならない。二重否定を使う人にしても“良い”時には“良い”という言葉を使うはずで“良い”とはいえない“良くなくない”という状態を心で感じた時、それを“良い”と断言してしまう事は正しい事なんだろうか? 実は二重否定を否定する人の方が細やかな情動を感じられない人ではないかと前々から思っている・・・・・・が、私は二重否定を使わないようにしている。他の人も書いているところを見た事がない。実はこういうところで読者の細かい心を捉え損ねているかのかもしれない。でも私には“良くなくない”を書く勇気はないなぁ。せいぜい“悪くない”が関の山じゃないだろうか、市民権を得た感もあるし。でも“悪くない”と“良くなくない”そして“良い”はどれもイコールではない。臆病にならず、もっと大胆に言葉を使えたらいいなぁと思うときがある。

 そうそう、散歩していて思いついた事がある。平和な時代が続いて、言葉がより回りくどくなるのだとしたなら“違和感を感じる”はもっと言葉を重ねていくだろう。きっと10年後には“違和感を感じる気がする”なんて言葉が出てくる。その頃には私も40歳。最近の若者は言葉がなっとらんと嘆いているかもしれない。でもその若者も20年すれば“違和感を感じる気がしないでもないかな? よく分からないけど”なんて言葉が出てきたのを見て、最近の若者は以下略・・・となるのかな。

●インターネットに勝てる文章を書きたい


月狂さんの新刊を読んだ。【売れっ子作家の書いた小説はなぜ読みやすいのか: リーダビリティーから掘り下げる筆力向上のメソッド [Kindle版]】それで考えていた事をひとつ書いておく。
SEKAI NO OWARIはライバルを同業者ではなくディズニーランドに設定しているらしい。私もインターネットから読者を引っ張ってこなきゃいけないと前々から思っている。本離れはずっと前から言われているが、読んでいる文字の量は増えているだろうとささやかれている。何を読んでいるかと言えばツイッターやLINEなどのテキストだ。自分の本を世界中の人に読ませたいならツイッターやライブドアブログみたいな場所から人の心を惹きつけられなきゃ駄目で、この世で一番面白い本じゃなくて、この世で一番面白いコンテンツを目指さなきゃならないってこと。

 出版業界の10年先を行っている音楽業界ではとうとう無料でも音楽を聞かれなくなったらしい。最近の若い人は音楽自体に興味がないとのこと。CDや曲が売れないのは不況が原因とも言われていたが、無料でも聞かれないのならやっぱり音楽自体に人を惹きつけるパワーがなくなっているのだろう。遠からず本も極々一部の熱狂的な読書家以外には読れまなくなるのかもしれない(今でも似た様なものか)。でも、そういう世界でも誰もが読みたくなるような、読んだ後も後生大事に持って何度も読み返すような本が書けたら良いのにな、とは思う。 

(2016年5月2日  牛野小雪 記)

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