愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2019年12月

 小説も文学もまだ一文字も書いていないし、これからも書かない。

 執筆中、雑感帳によく書いていた言葉だ。世の中思い通りにいかないことが多いが、これはわりと思い通りにいった。問題はそれが良くないってこと。ようやく推敲の一周目を終えると、私はがくぜんとした。こんな物を書くために1年近くも時間をかけたのかと。あまりにショックでしばらく手を付けられなかった。

 落ち込んだ時は雑感帳や日記を読み返す。何故こんな物を書こうとしたのか。そもそもの発端は去年の5月から始まっていた。徳島県のとある港にイルカが迷い込んできた事件があって、私もイルカを見に行くと、田舎の港町にあるただ通り過ぎるだけのような古い橋に老若男女が何人も集まって一頭のイルカを見ていた。その時の私は『聖者の行進』を書いた後に全作改稿をしている途中で、世間的には何者でもないけれど、自分はけっこうな小説を書いているとうぬぼれていた。でも、その光景を見た私は、このままではいけない、このイルカみたいな物を書かなければならない、と決心した。それで書いたのが『生存回路』であり、『山桜』であり、『流星を打ち砕け』だ。とにかく新しい小説を書く。今までとは違う物。

 そういう視点で見ると『流星を打ち砕け』は成功している。作中にクッキーという猫が出てきて「正解以外は許さない全体主義は趣味じゃないし、建前上は自由を重んじる日本で育った猫だから間違える自由も認めるわ」と冒頭で言うのだが、まさにこれがこの小説全体を現している。この小説は小説でも文学でもなく自由を書いている。でも間違っているのだ。

 なるほど。自由を目指して書いたのならこの小説は素晴らしい。でも小説・文学としては間違っている。自由を目指して書いたのなら、それでいいではないか、とは思えない。頭では分かっても心が否定する。こういうことで何日も悩んでいると自分が天才でないというのが嫌でも思い知らされる。本当の天才ならこんなことを悩まずに向こう側へ飛び越えられるんだろうな。この小説は流星ではなく自分の幻想を打ち砕いてくる。いつもは一つの小説を書き上げた後に、俺は天才だ、と舞い上がるのだが、この小説はそういうことをさせてくれないのだ。

 小説は何を書いてもいいというが本当にそうだろうか。たとえば今ある小説を書いている途中の人がいたとして、いきなり空から大きなダイナマイトが落ちてきて、みんな爆発した。(おわり)と、試しに書くことはできても、本当にそうすることはできないはずだ。今まで受け継がれてきた小説・文学観が許さないし、小説家自身がそれを許せないだろう(最初からそうするつもりだった場合は別として)。小説は自由なようでいて実際は縛られている。本当にでたらめに書くことは難しい。

 じゃあ小説・文学観に沿って書けばいいじゃないか。という話になるが、それも嫌だと私は思う。じゃあ自由に書けばいいじゃん、となっても、自分の中にある小説・文学観が否定する。なぜ小説・文学ではあってはいけないのか、なぜイルカでなければならないのか、という問いに私は理屈で答えられない。でも感情の部分ではイルカでなければならないとワガママを言っている。イルカは自由だ。でも自由も駄目だとワガママを言う。

 こういうことを書いていると面白いことに気付いた。『流星を打ち砕け』には二人の主人公がいる。先に書いたクッキーと、藤原千秋という女の子だ。主人公は二人だが、あくまで本筋は藤原千秋であり、プロットを書いている時からクッキーは必要ないのでは、と疑い続けていて、全体を読み返した後に考えてみるとクッキーの章を除けば私の思い描く小説・文学になると気付いた。小説・文学にクッキーは必要ないのだ(クッキーの章だけではなく、クッキーそのものが存在しなくても『流星を打ち砕け』は成立する。そしてクッキーだけでは成立しない)。

 クッキーは間違っている。でも自由だ。藤原千秋は小説であり文学だ。この小説自体が分裂した私の内面を表している。3年前なら藤原千秋だけの物語にしただろうが今はそうではない。しかし、それは間違っている。自由がそんなに良いものか?、という問いに私は沈黙する。苦しむ。天才ならきっと迷いなく間違いの中へ飛び込むか、この上なく正しい世界を築き上げるだろう。半端者はどちらも選べず、世界の真ん中に立って悩むしかない。

 そんなに自由が良いものか?
 しかし、小説・文学も良いものなのか?
 答えは出ない。一つの中で分裂している。

(おわり)

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 最初は別の小説を書こうとしていたので正確な日時は不明だが、雑感帳に隕石が落ちることが言及されたのは2019年5月19日。同20日に『千秋とミーナ』という仮題が付けられたが、22日に『流星を打ち砕け』にする。これ以外にない!と決定する。

 それから資料を集めがらプロットラインを引き始め、6月18日から仮書き(下書きみたいな物と思って欲しい)を始める。途中で何度もプロットラインを引き直しながら、一周目の仮書きが終わったのが10月8日。全体を見直して、またプロットラインを引き直して、2周目の仮書きを始める。

 いわゆる執筆、wordを開いて文章を書き始めたのが2019年10月25日。終わったのは12月17日。たった56日だ。全部で198,107字。準備八割仕事二分というが、執筆したのはほんのわずかな期間だ。例によって書かない日を挟みながら書いたので実質的な執筆日数は27日しかない。文句なく過去最高の速さだ。

 まぁこれは話の種にするために出した数値で、毎日執筆していたらこれだけ書けることはなかっただろうし、5月19日から計算すれば1日1000字ほどだ。これからする推敲の分を入れれば1000字を下回るだろう。トータルではいつも通りの速さだ。エネルギー保存の法則は変えられない。

 今作は執筆中は神を感じていた。毎日書けるかどうか不安だったが、最初の一行を超えられれば、後はどんどん言葉が出てきて、ほほの裏側に神の顔が重なっているような感覚を毎日味わっていた。こういうことは『真論君家の猫』を書いている時も味わったが、あれは5章の後半から、シラコさんがいなくなった辺りで、もう最後の最後の方だったので、すぐに終わった。『流星を打ち砕け』は最初から最後までそうだった。

 そういう感覚とは別に、これが小説の神の恩寵ではなく自分の行いによるものだとも理解していた。半年近く書き溜めてきたプロットや仮書き、メモが現在の私を押し上げているのだと。その証拠に最後の最後で執筆が2周目の仮書きに追いつくと目に見えて執筆速度が落ちた。正確に言えば6割減だ。1周目の仮書きとプロットはあるが、2周目の仮書きがないというので計算は合う。ありえないほど奇跡的な執筆も冷静な目で振り返れば奇跡ではないのだ。

 とはいえ執筆中に神を感じていたという体感は事実だ。書いている時は脳と心臓に冷たい風が吹いて魂が浄化されていくような爽快感があった。おまけに世界の全てが自分に味方しているような感覚があって、文字がきらめいていた。そのきらめきからまた言葉が繋がって出てきた。あまりに美しく幻想的な時間で永遠に執筆が終わって欲しくないと思ったほどだ。リズムを崩さないために毎日決められた時間で執筆を断ち切るのだが、かなり名残惜しかった。もしあの感覚のままずっと書き進めていればどんな物が出てきただろうかとは考えたが、小説全体の崩壊が恐かったので踏み止まった。それがこの小説にとって本当に良いことだったかは分からない。もしかしたらとんでもないものが生まれていた可能性もあるし、やっぱり駄目になっていたかもしれない。究極のセンテンスのために小説全体を天秤にかける勇気は出なかった。

 そういうことを差し引いても執筆中に私が現実離れした感覚を味わっていたのは確かで『2019年世界で一番幸せな小説家は誰だ!?』というコンテストがあれば12月分だけで私が1位になるのは間違いない。あの感覚を他の小説家が味わったことがあるなんて信じられない。私も二度と味わえないかもしれない。あんな体験が1年も続いていたら、きっと死んでいただろう。執筆中は死ぬんじゃないかといつも不安だった。それぐらい強烈な体験だった。

(おわり)

追記:昔読んだ本に側頭葉を刺激すると神を感じる場所があると読んだので、ちょっと調べてみた。側頭葉には連想・比喩を司る場所もあるらしい。確かに今回は比喩が多し、大きい。もしかして側頭葉の位置は数年前に大きな円形脱毛症ができた場所と同じかもしれないと調べてみたが、私が禿げたのは頭頂葉の側面から前頭葉のかけての部分だった。でも頭頂葉も前頭葉も言葉に関係ないわけでもない。小説によって使う場所が違うのかな。ちなみに体感としては大脳より、頭の後ろを使っているような気がする。後頭葉より下の小脳の辺りだ。でも小脳は知識よりも運動を司っているらしい。案外、サッカー選手とか、野球選手、あと格闘家に小説を書かせると、新しい文学が生まれるのかもしれないね。以前TVで長谷川穂積が、相手を倒すには力を込めたパンチではなく相手の意表を突かなければならないと言っていたので、ボクサーが書いた小説はたぶんトリッキーだろう。

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 この小説には徹底されたものが二つある。登場人物の匿名性と、くどいほどのコマーシャル的な形容詞だ。

 登場人物は少年や母親、彼女、店長と、代名詞や血縁関係、社会的地位で表される。ミカとかYPという名前も出てくるが偽名である。

 形容詞はコマーシャル的でいかに価値があるか(あるいは無いか)をくどいぐらいに説明している。たとえばこんな具合に

汁漏れを心配する人が商品を入れるレジ袋
多目的トイレ
A5ランクの和牛焼き肉
センサーでライトがつく
100円均一の造花

✳作中では太字ではない

 これが意図的なのはYP の実況描写で明らかだ。

 まったくこの小説は資本主義的である。資本主義における人や物は画一的かつ匿名的で、いかに価値があるかラベル付けされている。牛肉にはハナコとかベーコという名前はなく、どこそこ産だとか、何とか公認だとか、作中でもあるようにA5ランクのラベルが付与されている。肉屋のおやじは誰だか知らないし、コンビニのレジが誰かも知らないし、バスの運転手だって誰かも知らない。そしてみんな交換可能な存在だ。総理大臣ぐらいなら名前を知っているが、それだって一年毎に変わる時もあった。社会にとって、かけがいのないものなど存在しないのだ。

 しかしそこで生きる人にとって自分の肉体だけはかけがえのない例外的な存在だ。作中に出てくる賢い彼女はピンサロである男と性行為すると、『接客』の手順から離れ、ミカではなくなり、「あ」という声を戸惑って出してしまう。

 さて、この小説は『天国崩壊』というだけあって、天使が出てくる。しかし天使は『アイス』という薬物か何かよく分からない物の材料にされているだけだし、天使病なんて病気は死んでしまうというのだから恐ろしい。彼らは本当に天使なのだろうか。どちらにせよ一つだけ言えることは決して天使は良いものではない。というより最後の人間達の反応を見ていれば悪いもののように思える。

 考えてみれば天使とは天国に住んでいる存在で、この世ではついぞ見たことがない。私も見たことがないし、誰かが見たという噂も聞いたことがない。天国も天使もあくまであの世のことであって、この世では存在が許されていないようだ。天使病であの世に行くというのは言い得て妙だ。しかしその天使によると、天国は崩壊してしまって、もう存在しないようだ。天使も次々と死んで最後には一人もいなくなってしまう。

 コマーシャリズムと匿名性によって神も天使も死に絶えた世界だけど、

地獄がまだ残っているぞ!

 地獄の存在は天使によって示唆されている。

 地上に残された人間達が悪魔病にかかっているのか、それとも人間病にかかっているのかのかは分からないが、健康そうに見えないのは確かだ。人間崩壊も近いように思える。人間が壊れたら、次に出てくるのは悪魔だろうか。その悪魔は人間にとって良いもの?

 一つだけ言えるのは神は死んだし、天使も死んだ。でも世界は変わっていない。人間が大いなる正午を迎えることができるかどうかはカウントダウンに委ねられた。でも個人的な意見を言わせてもらうなら、彼らはあたらしい国へ行くのではなく、待つ人達であるから行く末は暗いように思える。天使の導きもなければ、何かを志向する意志もないので、どこへも行けないだろう。もっと悪ければ地獄行き。その意味では、やっぱり『天国崩壊』という題名は良い命名だと思う。

(おわり)

天国崩壊 (隙間社電書)
伊藤なむあひ
隙間社
2019-12-14


読後に見よう









参考文献
ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)
フリードリヒ・W. ニーチェ
河出書房新社
2015-08-05



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