愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2019年10月

ヤマザキ春のパン祭り

『流星を打ち砕け』の仮書きノートに『陶器のように白い肌』という月並みな表現を書いた。陶の字が分からなかったので国語辞典で陶器を調べる(ノートは手書きである)と、こう書いてあった。 



1.粘土質の土で形を作り、うわぐすりをかけて低火度で焼いたもの。磁器に比べて焼き締まりが弱く多孔質で吸水性があり不透明。備前焼、信楽焼など。 学研  現代新国語辞典より


 まず不透明というところで引っかかった。陶器のように白い肌というのは、幽霊みたいにのっぺりした白さではなく透き通った透明感のある肌のことだ。特徴として不透明とも書かれているから、この表現は正しくない。それに多孔質ということはザラザラの肌ということで全然美しくない。陶器のように白い肌の持ち主と信楽焼のタヌキは月とすっぽんぐらい違うはずだ。

 参考に磁器というのがあるので、こちらを調べてみると、こう書いてあった。



陶土で形を作り、うわぐすりをかけて高温で焼いた焼き物。焼き上がりは素地がガラス化して半透明となり吸水性がほとんどなくなる。


 透明感があるので『磁器のように白い肌』と表現する方が正しい気がする。しかしそんな表現は見たことも聞いたことがない。それでもう一度陶器の欄を見ると陶器・磁器の総称とある。ということは磁器は磁器だけにしか使われないが、陶器は陶器・磁器両方に使えるということだ。

 なぜ磁器が比喩に使われないのかと考えてみるに、おそらく磁器は高温で焼く必要があるから技術的に作るのが難しく庶民には馴染みのない物だからだろう。確かに磁器のように白いという表現は妙な感じがする。陶器・磁器の違いを調べていると白磁という比喩を見つけたのだが、それもやはりピンとこなかった。白磁とは字の通り白い磁器のことである。それも真っ白なやつ。我が家の真っ白な皿といえばヤマザキ春のパン祭りで貰ったお皿しかない(おまけにヤマパン皿は磁器でも陶器でもなく強化ガラスらしい)。やっぱり磁器は庶民になじみのない物なのだ。


 しかし、何故『陶器のように白い肌』が月並みな表現になるほど普及したのかという疑問が湧いた。陶器が綺麗な肌の形容になるはずがないからだ。

 陶器についてgoogleで検索して色々読んでみる。それで気付いたことがある。釉(うわぐすり)の存在だ。陶器の説明にも釉を塗って焼くと書いてある。

 釉を国語辞典で引くと



光沢やなめらかさを与え、水をはじかせるために、素焼きの陶磁器の表面に塗るガラス質の薬。


 と書いてあった。光沢、なめらかさ、水を弾く。どれも綺麗な肌を形容するイメージだ。ワラ灰を釉薬にすると白色になることも分かった。ワラならどこでも手に入るだろう。ということは白の陶器は庶民的で、どこにでもあったはずだ。それなのに今はあまり見ないのは、現代人がありふれた白さに飽きて色や柄を求めたからだろう。よくよく考えてみれば『陶器のように白い肌』という比喩は月並みであるだけ時代も感じさせる。とうてい令和に使う表現ではない。

 なにはともあれ『陶器のように白い肌』という形容はやはり正しかった。ただし比喩の元となる白さや透明感は陶器自体にあるのではなく、陶器の表面に塗られた釉、上っ面にあるということだ。一皮剥けば美人も髑髏と言うし、うまい比喩だと思った。もしかしたら百年後でも通じるかもしれない。


(おわり)


牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪


このエントリーをはてなブックマークに追加

アキレスと亀
 9月にそろそろ終わりそうだと思っていたのに、終わり間際に色んなことを思いついていたのでアキレスと亀みたいに、そろそろ終わりそうだ、のまま10月まで伸びていった。ただしパラドックスは起きなかったので、先週に仮書きを終えた。164ページ。約4ヶ月。のべ平均すると1.3ページ/日。亀みたいな遅さだ。最後のページにはいつも通り『これ以外を書け!』と記した。めんどくせ~!と心が叫んだ。仮書きをそのままwordに打ち込んでしまいたい気分だ。最初から最後まで仮書きをしたのはこれが初めてで、もう小説を一冊書いたような虚脱感がある。こんなことなら目前の3~4千字を仮書きしながら執筆すれば良かった。

 今回の小説はある限られた空間で、心と心との繋がりを書く予定だったが、そっちはボツにしたものが多く、これだとseason3の書き方で長編を書くという目標は無理かなと思っていたが、主人公が道を歩き始めた時から筆がノり始めた。何だかいつも道を歩いてるな、と思うけれど、何故かそうなってしまうのだから仕方がない。当初の予定では60か70ぐらいで仮書きを終えるはずが、道を歩き始めてから100ページも書いてしまった。目論見どおりなのは3分の1までで、そこから先は道を走ったり歩いたりしている。そういえば60ページ以前も筆がノッているのはサブプロットの主人公が道を歩いているところだ。きっと道は私の小説にとってアキレス腱なのだな。誰かがどこかにいるところは削っても大丈夫だが、道を歩いているところを削ると小説が成立しない。『生存回路 』だって究極の話をすれば河童の部分を丸々削っても良い気がする。そう考えると執筆前に引き直すプロットは最初から道を歩かせていた方が良いのかな。でも何で道なんだろう。私にも分からない。もし私がベケットだったなら『ゴドーを待ちながら 』ではなく『後藤を捕まえろ』を書いていたに違いない。

 これから先のことを考えるとゾッとするほど長くて、こんなの書くのは無理って投げ出したくなるけれど、とりあえずプロットラインを引き直して、冒頭3、4千字を仮書きするところから始めてみよう。どんなことでも細切れにして一つずつこなしていけば何とかなるものだ。仮書きだって1日で164ページも書いたわけじゃない。1日1ページと思えば楽なものだ。10月中には1章ぐらい書き終わっているといいな。

(おわり)









このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ