愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2019年02月

funny dance4

 山桜は詩が入っている。というより途中から詩の注釈で小説を書いているような気がした。詩なんて去年までは全然詠んだことがなくて最初は手探りで書いていたけれど詩の原理 歌よみに与ふる書 はかなり啓蒙された。あとサラダ記念日 は教科書で習った短歌の既成概念を壊してくれて衝撃的だった(というか最初は短歌だと気付かなかった)。あと勝手に7×4という形のニューポエムを作って詩を書いた。短歌や俳句だけだと馬脚が現れるから、ある種のごまかしだ。でもちょっと間延びした感があるなとは思った。短歌のリズムが体に染み付いているからからもしれない。

 夏目先生の『吾輩は猫である』の中にも詩が割り込んでくる。その中に新体詩というのが出てくるのだが、短歌とも俳句とも、種田山頭火的な自由律とも違っていて(山頭火って日本詩の歴史では事件だったんじゃないか)、かなりぶっ飛んでいる。どういう経緯で生まれてきたのだろうと不思議だったのだが、この前ふと読んだ本に夏目先生が東大生の時にウォルトホイットマンの詩について論文を書いているというのを発見した。明治時代は西洋文化が流入していて、西洋詩の形態が日本詩にも吸収されていた頃だそうだ。つまり西洋詩≒新体詩ということ。なぜ=ではなくて≒なのかというと、冬来たりなば春遠からじ、という文言を使いたくて、元ネタは誰なんだろうと調べるとシェリーというイギリスの人が詠んだ詩だと分かった。しかし件の春来たりなば~というのは原文とニュアンスが違うというのも発見したからだ。それにしても、冬来たりなば(7)春遠からじ(7)でちゃんと七音になっているのは訳者凄いと思った。韻もちゃんと踏んでいる。昔の人って本当に凄いな。新体詩までは手が出なかった。でもいいんだ。吾輩だって「東風君もあと十年したら、新体詩を捧げる非を悟るだろう」と言っていたし日本詩的にはたぶんセーフ。

????「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留とめがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」


 この前、口伝で小説は残らないが詩は残るということを書いた。それでふと川端康成の『雪国』の冒頭だけ読んでみた。《国境のトンネルを抜けると、そこは雪国であった。夜の底が白くなった。》とあり、詩的な文章だと思った。

 次に『山の音』の冒頭を開いてみると《尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるようにも見える。》と散文的だ。文庫本の解説には戦後文学の最高峰に位する名作小説だと書かれているが、結構最近まで私は知らなかった。それで読んでみると『山の音』が全然良かったので、どうしてこっちが雪国より有名ではないのだろうと不思議でならなかったのだが、冒頭の詩的さが足りないからではないかと思った。

 そういえば綿矢りさの『蹴りたい背中』の冒頭は《さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。》だ。
 又吉の『火花』は《
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。》
 これはもう書き出しは詩にするべき! 
 そう思ったけれど、冒頭を詩にできないところに詩才のなさを痛感した。でも村上春樹の『ノルウェイの森』は散文的だったので、やっぱり関係ないのかな。散文は散文、詩文は詩文なのかもしれない。上の文章も散文的には詩的だが、詩的にはかなり散文的だ。小説家と詩人は似ているようで両者の間には超えがたい溝があるのかもしれない。

 先週までの推敲はいかにも手を加えている感じがあった。今週はあえてやる必要もないようなことばかりやっていた。パソコンに触れたのは合計1時間もない。そのくせ推敲の効果は今週が一番あったように感じている。神は細部に宿るという。でも本当はコンコルド効果じゃないか。8万字を読み通すにはどうしても1日以上かかってしまうから、それが無駄であって欲しくないという気持ちから、おお、たったあれだけのことなのに、こんな変化が起こせるのか、なんて感じで。字数でいえば40とか50字の世界なのに、それで全体に変化が起きるなんて、ちょっと信じられないな。頭が熱くなっている。でもまだやる。

(おわり)


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ツイッターのアイコンを変えたい衝動に何故か襲われた。
そういえばと過去の記事を遡るとseason2に入ってから今のアイコンに変えたということが分かった。
season2は『聖者の行進』で終わりだし、よ~し、新しく書いちゃうぞ、と決意した。

twitter icon3
これが今のアイコンである。なかなか悪くない男前である。
しかし残念ながらとても描きにくいあごと髪をしているのでシンプルにしてみた。
twitter icon try1
なんて好青年!
しかし面白くない。
途中で髪を描くのが面倒になったことが窺える。
twitter icon try2
顔が三角形だから四角を半分にして、ちょっと色付けを変えてみました風。
twitter icon try3
おむすびまんのできそこない。



しかし五色の色は何故か気に入っているらしい。

じゃあいっそのこと色だけにしてみた。
五色

なんと殺風景。でも今までで一番いい。

これに顔を付けてみた。
twitter icon3

うん、いいんじゃないか。

男前かどうかは分からないが、顔としての用は足している。

よし、season3はこの顔でいくぞ。

(おわり)
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gas gun


ガソリンスタンドで給油口に刺されるアレの名称が分からないので(というか、あるとも思わなかったので

銃の様な物を給油口に刺した。銃にはホースが繋がれていた。

としたのだが、ふと『ガソリンガン』という正式名称があるのではないかという疑問が湧いて検索してみると、やはりガソリンガン、ガソリン銃、給油ガン、という名称でヒットした。でも一番普及しているのは給油ノズルのようだ。でも、せっかく銃の様な物と書いたので、3ヶ月前の自分を尊重してガソリン銃という名称にした。

その結果

ガソリン銃を給油口に刺した。

とした。内燃機関とガソリンスタンドが廃れているという設定なので、一風変わった呼び名の方がそれっぽい。

↑アマゾンで売っているというのに驚き!


kindleで推敲しているとメモ機能でハイライトした場所が簡単に見ることができる。それによるとkindleで推敲し始めて最初の版は130、次は101、さらにその次は72箇所のハイライトがあった。はは~ん、30ずつ減っているんだな。それじゃあ次は40か、あと3回で0になるな、と思っていたら4回目は115だった。でもさらにその次は29だったりもする。推敲するたびに前とは違うところが気になって、ハイライトする場所が増えたり減ったり。でも細かい問題ばかりになってきたから、そのうち終わるんだろうな。ここ数日は一度消したものを、やっぱり戻すということもしていて、推敲が終わろうとしているのを感じている。

(おわり)

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 熱に浮かされたのか、文学的天啓なのかは分からないが、インフルエンザで40度の熱が出て手足が氷水につかっているみたいに冷えて、布団の中でぶるぶる震えている時に、絶対にこれを小説に書こうと何故か決心した。それで日記とは別に私小説を書いた。勢い余って他の事も書くと存外手応えを感じた。プロットがないので断片ばかりだが、これを書き溜めると、どこかしらに到達するのではないかという確信があった。しかし、ふと布団の中で、もしこれを書き進めていくとすれば明確にエンドマークを打つには、どこかの時点で自殺しなければならないことに気付いた。それも衝動的にではなく計画的でなければならない。胸の中がぞっとして熱は引いたのに体が冷たくなった。
 私小説に結末があってはならない。だから夏目先生の『明暗』を読むことにした(明暗は私小説ではない)。『明暗』とは夏目先生未完の小説である。未完で終わると何かで知っていたから今まで読んでいなかった。でも今は未完の小説が欲しいのである。そんなわけでここ数日は眠る前に5章ずつ『明暗』を読んでいるが、これが未完で終わるというのにムカついている。やっぱり読むのをやめようかと思うのだけれど、まぁ、今のところ読み進んでいる。

 山桜の推敲をしていると書き言葉の方言は難しいと痛切に感じる。作中ではどこの県とは明言していないので架空の方言として、かなり便利に書いているのだが、現実の方言をそのまま書き言葉にするのは難しいよなと、いつも思う。50音のどの語に当てはめるのだろうと分からない言葉もある。同音異義語が多いことからして標準語は書き言葉だろうが、方言は喋り言葉という気がする。ならば口伝だけで、方言で伝わっている物語があるんじゃないか。民謡がそうかもしれないが、もっと長い物語が口伝だけで伝わっていた可能性はある気がする。平家物語ほど長くはなくても、小説で言えば短編ぐらいの物語が。でも、もう語り部がいなくなって回収は不可能だろう。口伝という意味ではやはり散文より詩の方に軍配が上がるようだ。民謡がまだ残っているのが、その証拠だ。平家物語にしても冒頭の句がなければ太平記ぐらい読まれていない可能性があったかもしれない。そして源氏物語の方が読まれているのは短歌があるからかもしれない。
 方言といえば首都圏方言というのがあるらしい。ギャル語もその一種なのだとか。港区と渋谷区では同じ東京でも話し方が違うんだろうか。
 インターネットにも方言がある。今ならなんJ語がそうだ。(笑)から草の変遷には歴史があってちょっと感動した。でもそれとは別に考え方とか感じ方も違う気がする。フェイスブックとツイッターではノリが違う。そしてノリが違うとコミュニケーションが成立しない気がしている。言葉が違っても友達にはなれるがノリが違えば友達にはなれない、むしろ敵、というのを最近考えている。いつかそういうことを大学の偉い先生が研究するようになるだろう。方言ならぬ方考みたいな感じで。
 ノリの派生で服装が違う奴は敵。というのも面白い考え方だと思ったけど、軍服があることからして、ずいぶん古い考え方だという結論に至った。しかし、ひとつの思考実験として全員がユニクロのグレーパーカーを着たとしても、全員が友達にはなれないので、服装で敵味方が分かれるのはちと弱いかもしれない。でもまったくないわけでもないだろう。メンズナックルを読んでいる層とメンズノンノを読んでいる層が長年マブダチなんてのはちょっと考えづらい。分からない奴には鳥獣拳。(参考サイト‐メンズナックルジェネレーター
メンズナックル風 poem
 創作物のヤンキーと現実のヤンキーが違うように、現実のギャルと創作物のギャルも全く違う物のはずだ。そういう意味ではギャル漫画というのはファンタジーに分類される。創作物におけるヤンキーとギャルの共通点はバサラ、つまり既成概念をぶち壊す存在であることだ。ギャルは今でも時々駅前で見るがヤンキーというのは絶滅危惧種だ。でも文化的に保護されたヤンキーがいたとすれば、それはもうヤンキーではない。伝統芸能の担い手だ。人間国宝を授与されるジャンルだ。家元の家に生まれた子は3歳でメンチを切らなければならないだろう。15になるとヤンキーの家を継ぐか、一般人として生きるかの選択を迫られるだろう。なんか嫌だ。ヤンキーっていうのは職業じゃなくて生き様であってほしい。でも伝統芸能としてのヤンキーはそういうものになってしまうんだろうな。弁慶が勧進帳を読み上げるように、ヤンキーが舞台の上でメンチを切るのを見るようになるんだろう。そういえば弁慶ってヤンキーっぽい。というよりあの時代は武士達が一番ヤンキーっぽい。ってことはヤンキーはやっぱり伝統芸能にはなれない。何故ならヤンキーは一度も天下統一を成し遂げていないから。武士は権力を握ることでメインカルチャーに登り詰めたが、ヤンキーはどこまでもサブカルチャーでしかない。千年後の未来には日本史を専門に学んだ人だけ知っている一風変わった風俗として扱われるだろう。
 ヤンキーは廃れること請け合いだがギャルはまだ分からない。現代の日本は千年前と違って武力統一しなくても選挙に勝てば権力を握れる。ギャルが一斉蜂起して選挙に出馬、政権を取れば伝統芸能として残るに違いない。可能性はある。しかしギャルは伝統芸能になりたいとか思っていないであろうからギャルであると思うので、そんな不純な動機で天下統一して欲しくない。っていうか、ここで言っているギャルというのも創作物のギャルなので、そんなことは絶対に起こらないだろう。メイクを落とせば10代の女の子でしかない。なるほどヤンキーが天下を取れなかったわけだ。

 山桜の小分けにしていたファイルを一つのファイルに戻すと全部で81651字あった。この前書いたのは原稿用紙250枚の天井を意識しながら書いたので6万字。今回は天井を気にせず書いたのに8万字。やっぱり長いのは書けない。今の書き方で16万字ぐらいのなんて想像もできない。一昨年までは時間さえかければ何十万字でも書く自信があったけど今は無理。でも5年前も中編二編書いた後に長編を書けたから、次も奇跡のように何らかのブレイクスルーをするかもしれない。で、今書いている物に見切りをつけて本当に新しい方向性へ舵を切る、と。まぁ未来なんてどうなるかわからないし、もしかしたら来年は刑事物を書いている可能性だってあるわけで、今も昔も目の前に見えている小説を書くしかない。

(おわり)
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今週はインフルエンザでずっとひきこもっていた。その間、ひげを剃らなかったので野生動物みたいな顔になった。すっかり野蛮になっただろう、と猫にひげを見せると、失礼しちゃうわ、とぷいっと背中を向けてしまった。猫はメスだってヒゲが生えているし、顔も毛むくじゃらだ。毛は剃った方がモテるのか、伸びている方がモテるのか気になるところだが、野良につるつるてんがいないところからして野性味あふれる方が自然界ではモテるのだろう。それなら人間だって毛むくじゃらの方がモテたっていいはずだが顔に毛があることは大変不評だ。ひげを伸ばして減給された地下鉄の運転手がいるぐらいだ。ただし髪の毛だけはフサフサが好ましく、つるつるてんだと好ましくない評価を受ける。まったく理不尽である。
198501 ひげとねこ
五日間ずっと布団で寝ていた。といっても120時間ぐうぐう眠れるはずがなく半分以上は起きていた。山桜のことをずっと考えていて、今まで通りに書くのがラクで完成度も高くできることは間違いないけれど、やっぱり苦しくても新しい小説を書くべきだと決心した。今週は手を付けないつもりでいたから、ずいぶん気前よく決断したようだ。どうせそれを仕上げるのは来週の自分だもんな。でも本当に凄い小説になるような気がする。

それにしても、一週間ぐらい冷却期間を置いた方が良いんじゃないかと思っていた矢先にインフルエンザにかかってしまった。ヘミングウェイみたいに一年寝かせたら・・・・・・なんてことが頭によぎっていたら、今頃どうなっていたんだろう?

(おわり)
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