愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2018年12月

 ある小説家同士の対談で、野球は試合に向けて練習するけれど、小説には練習がない、毎日がぶっつけ本番だ、ということを言っていた。その瞬間に気付いた。私が毎日書いているノートって小説の練習じゃないか。確かによく考えてみれば、ノートに書いているのはこれから書こうとしているところばっかりで、前日に予行演習をしているようなものだ。

 興味が惹かれたので最後まで話を聞いていると、小説を書くのに準備をしたり、練習するなんて不純だし、そんなことをするぐらいなら小説を書かない、とさんざんに言われたので(別に私に向けて言ったわけじゃないが)、小説に向いていないのかなとちょっと落ち込んだ。

 しかし、こういうことがある。先日wordを開くと何か様子がおかしかった。前日のデータが保存されていないことに気付くと、魂が胸から背中に抜けるような感覚があった。「マジか……マジか……」とマジで何度も声に出した。あぁ、神様。頼むから何かの間違いであってくれ。と手も合わせた。それでバックアップも開いたが、やはりデータは保存されていなかった。頭の中が空っぽになってしばらく何もできなかった。

 村上春樹が1章分のデータがなくなったけど頑張って書き直したという話を思い出した。村上春樹でさえ書き直すのだから私も書き直すしかないじゃないか、と気持ちを改めて書き直すことにした。一度書いたところでも書く早さも苦労も特に変わらなかった。そしてこの後の展開は村上春樹と似たようなものだ。最後にデータを保存する時になって、たまたま抜いていたフラッシュメモリーが目に入った。それはサブのサブとして気が向いた時にだけバックアップを取るぐらいの物として使っていたのだが、もしやと思ってデータを開くと、あれだけ探したデータがそこにはあった。それで今日書いたところと比べてみると断然に今日書いた物の方が良かった。

 小説もきっと練習すれば上手くなる。いま私がやっているのは小説を書いた後の余力で書いているだけだが、普通に小説を書く強度でがっつり小説を書いて、さらにもう一度真っ白な画面に向き合えば、もっと良い物が生まれるのではないか。絶対にやりたくないけど(村上春樹だってやったのは一度だけだ。それも一章分だ。でも刊行速度を考えれば実はそうしているかもしれない)。

 小説家の作品として残るのは極わずかな作品だけだ。この前までナポコフは『ロリータ』だけの一発屋だと思っていたが、実は他にも色々出しているのを知った。一作だけ書いて終わりという作家は少ないのだろう。でも後世に残るのは一つか二つ。99%以上の作家は存在さえ忘れ去られることを考えれば一発屋でも快挙なのだ。

 なら、小説を一作書けば、100回ぐらい書き直すような作家がいても良いはずだ。そうやって最高の小説を書こうとする奴が一人ぐらいいても良い。ヘンリー・ダーガーは一生かけて一万ページ以上の大長編を書いた。そうではなく100ページぐらいの小説を一生かけてリライトし続けられたなら、どんな物ができるのだろうと考えた。またそれだけのことをするのに、どれだけの気力が必要なのだろうと考えた。改稿ではなく書き直しだ。人間には不可能だと思う。でも人の想像できることはいつか行われる。狂気に駆られた小説家がそういう小説を書くだろう。今この瞬間に書いているかもしれない。

 野球で練習のノックと同じ打球が試合で飛んでくるわけじゃない。小説だってノートと同じ物を書くわけじゃない。それどころかノートを書き終わると一番上の余白に《これ以外のことを書け!》と書く。だからノートのほとんどが無駄になるんだろうな。本当に無駄なことをやっている気がする。でもその無駄も練習と思えば大事なことに思えてくる。
 
 練習でホームランを打っても試合のスコアには一点も入らない。練習でダブルプレイしても試合はノーカウントで始まる。ノートにいっぱい文章を書いたって小説は進まない。でも、もっともっと練習して、ストライクゾーンど真ん中に光速の二乗を超えたストレートを投げ込んでやるぞ。

(おわり)
pitcher


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 今年中に書き終わるような気がしていたけれど、やっぱり書けそうにない。ずいぶん久しぶりに書けない感覚を味わっている。これだけ準備を整えているのだから最後まで一息に書けるはずだと思い込んでいたが、書けない時はどうやっても書けないんだと驚いた。wordの画面を開いても言葉が出てこないのが信じられない。

 私の中に二つのエンジンがあって、片方は私が私と思っているもので動いていて小説を書く体制はばっちり整っている。もう片方のエンジンは私自身ですら中を窺うことができないブラックボックスになっていて、動いているかどうかはその時になってみなければ分からない。しかも小説を書くにあたってはブラックボックスの方が動いていなければ一文字も書けない。理不尽だ。

 またプロット全体像を書き直した。この前は12月20日に書き終わるだろうと言っていたが、奇しくもその日にプロットを書き直すことにした。残り4章なので余白がいっぱいだ。また新しく書き直すことはないだろう、たぶん。

 ヒッチハイクとか黒髪の殻ぐらいなら余白にちょろちょろ書き込むぐらいで一息に書けていた。今まで中編で4回もプロットを書き直したことはない。長編でも2回ぐらいではないか。それだけ書き方が変わったということだ。小説の方は6万字なのに雑感帳とノートは15万字ぐらい書いている。

 もしかすると壮大に時間をどぶに捨てているのではないか。雑感帳もノートも書いたものは99%は無駄になる。中にはこれを書いておいて良かったと思うものもあったが、小説を書いている最中に思いつくこともありえただろう。1日の終わりにノートや雑感帳、その他色々をまとめて机の上に置くと、お前、こんな物をいくら書いても自己満だぞ。小説を書かなきゃ意味がないぞ、と自分に言う時がある。よれよれになったページの厚みを見ると、これだけの時間を無駄にしたのだと恐くなる瞬間がある。書けない日が続いていると特にそうだ。小説でなくても他の事に時間を使えたはず。ああ~時間でも止まらないかな。そうしたら気兼ねなく時間を使い捨てられるのに。

(おわり)
alone




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 今年から、まだあと一押しできるというところで小説の執筆を切り上げる書き方に変えた。その一押し分で雑感帳とノートをそれぞれ1ページ、余力があれば2ページ書いている。横着して二行三行使った大きな字でページを埋める時もあるが大体は一行ずつ文字を書いて1ページ埋める。1ページが1000字ぐらいなので一押しで2000字以上書いている。だからといってその一押しを小説に向けても、せいぜい200とか300、場合によっては0だっただろう。小説の1000字と自分だけが読む文章の1000字は全然違うものだ。それでも2000字書けばへろへろになって、もう何も出ませんという状態になる。

 雑感帳とかノートを毎日書くのも最初は余裕だったが執筆を開始して一月も経つと脳みそをふり絞っている感じがある。書いた文章はほとんど使い物にならないから、かなりの時間をどぶに捨てていると思う時がある。でも捨てた分だけ小説の方はぐっと底堅くなっている。

 ノートや雑感帳は9月から書いていて山桜を書き始めたのは11月から。執筆を開始してからノートを書く時間は減ったが累計では圧倒的にノートを書いた時間の方が多い。このペースで書き進んでくれれば最後までノートが多い。何でこんなことしているんだろうって気持ちになる。でも最後の一押しで小説の外側を書き続けている。

(おわり)
note




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plot
 全体のプロットを書いた紙に余白が足りなくなったので、先週全体のプロットを新しい紙に引き直した。書き始めた時のプロットを書いた紙には2018/11/5と書いてあり、二枚目が2018/11/10。三枚目が2010/11/30だ。この調子なら四枚目は2018/12/20ぐらいになりそう。でもそれまでには最後まで書き切ってしまうかもしれない。

 それにしてもプロットって他人が読んでも分かる物なんだろうか。ずっと前にハリーポッターの手書きプロットがアップされていたけど(ハリー・ポッター作者の手書きプロット…)、あんな物からハリーポッターを書くことはJ・K・ローリング以外には無理だろう。作者なら自分の中にイメージがあるので断片だけでも充分だが、編集者が見たってちんぷんかんぷんに違いない。もし仮に”びっくりするほど細い!”という文面を見せられても、ここから明確なイメージをとらえることは難しいだろうし、そのイメージはたぶん作者の物とは遠く離れている。だから作家はプロットは書かないんですよ、先が分かっていたら面白くないじゃないですか的なことを言うのかもしれない。プロット見ながら執筆しても途中で小説の方が成長しちゃうからプロット通りに書けるとは限らないんだけどね。

 山桜を書き始めた頃はあわよくば長編にならないかなと思っていたが、やっぱり当初のプロット通りの中編で終わりそうだ。本当に長編を書けなくてOOPS! どうしちゃったんだいという気持ち。でもそれとは別に数年ぶりに目の前が開けたような感じもある。イップスじゃない。火星を書いた時は、なんだ、私も小説が書けるじゃないか!という驚きがあったが、今もやっぱり、私もこんな小説が書けるじゃないか!と驚いている。

(おわり)



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 最近kindleの読み上げ機能にハマッている。前はechoがないと使えなかったはずだが、つい先日fire端末でも使えることを発見した。この前買った本がダウンロードできない時があったが、あの時にアップデートされたのだろう。漢字の読み間違いはあるが小説は80%は問題なく読める。詩集を読ませるとカオス。マンガは読めず。あと一瞬何かの拍子に関西なまりになる時があって、その時は人間の声みたいに流暢になる。もしかして日本語はなまっている方が正常なのでは?

 黙読と比べると読書スピードはかなり遅いが読み上げ機能の良いところは、ながら読みができることだ。筋トレしたり、ゲームしたり、石を磨いている時でも本を読める、というか聞ける。ドキュメントでも読み上げてくれるのには感動した。牛野小雪をギュウヤコユキと読んだのには爆笑した。コユキはともかく牛野をギュウヤと読むのは予想外だった。ウシヤと読む時もある。何故かウシノとかショウセツとは読んでくれない。牛野小雪は読み上げ機能と相性が悪いようだ。

 同じ漢字でも読み方が時々変わるのは前後の文章をある程度汲み取って読んでいるからだろう。何故か牛野小雪の本は漢字の読み間違いが多いし、よく詰まる。きっと正しい日本語の使い方を知らないのだろう。AI泣かせの悪文個性的な文章だ。

 読み上げ機能はまだ発展途上だが、将来は本は読むものではなく聞くものになるかもしれない。そこで思ったのは漢字をカタカナ表記にすればいいのではないかということだ。kindleの最初の頃はルビが正常に表示されないので読み間違いが起こるとまずい人名はカタカナ表記にしていた時期がある。それと同じような理由で読み上げ機能に配慮して人名をカタカナ表記にするのが流行るかもしれない。というか、その理由でカタカナにするなら漢字全てをカタカナにするのが合理的だ。漢字廃止論は何度か出ているし、読み上げ機能がきっかけで将来は漢字はなくなるかもしれない。デモ カタカナ バッカリ ダト ヨミニク ソウダ。ナレ ノ モンダイ?

(おわり)
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 最近ある本を読んでいて(どうも読んだことがある気がするんだけど……)と思ったが、それでも読み進めていると、この本は読んだことはないけれど、この著者の本は読んだことがあるという確信を抱いた。それで本の後ろにある著者略歴を読んでみたが、そこで紹介されている本は読んでいない。でも読み慣れた感覚がある。作者は知らない人。不思議な気持ちを抱いた。それで謎が解けることもなく日が過ぎたのだが、日曜日の新聞を読んでいると、不思議な感覚がパパパッと繋がり、その人は日曜日の新聞にコラムを書いている人だと分かった。私が読んだのは10年以上も前の物だったが、それでも書いた人は同じだと分かるほどに文章は変わっていなかった。

 ある作家の新人賞を取った小説を読むと、既に今と同じ文体で書いているパターンはよくある。リチャード・バックマンの評には、とてもよくできたスティーヴン・キングの真似事。もし本人でないとしたら驚異的な文体模写だ。みたいなことがあったそうだ。文体って何? と訊かれても言葉では答えられないが分かる人には分かるものがあるようだ。

 ある本を読んでいると、村上春樹のパクリっぽいなと思って表紙を見ると訳が村上春樹ということがあった。○○の新境地と銘打たれて出た小説でも現代クライム小説が時代小説に変わっただけで文体は全然変わっていないということもあった。それほど文体とは硬いもののようだ。

 去年の11月から今年の5月まで過去作の改稿をして自分の文体は変わったと思っているのだけれど実は全然変わっていないのかもしれない。死人と同じで成長しないのだ。

 しかし、文体って一体何なのだろう?

 三島由紀夫と大宰治、人によってはどちらも柔らかく読みやすいという人も入れば、昔風の固い文章という人もいる。でも三島と太宰を比べれば太宰の方が柔らかいという意見はほぼ一致している。

 村上春樹は内容がないと言われているが、私なんかは余白が多い作家だと思っている。たぶん私も他の人も同じ文章を読めば感じるものは同じ。でも解釈が違う。余白を嫌えば内容がないとなるが、内容がないものを余白と取ることもできる。もし仮に豊かな余白を持つ作家という触れ込みの作家を読んでも、私はそれを構造だけの空虚な文章ととらえることもあるだろう。

 リンゴを見て、赤いという人もいれば、美味いという人もいる。固いという人もいれば、バーモンドカレーと言う人もいるだろう。中にはジョブズ!と叫ぶ人だっているかもしれない。でもリンゴはリンゴ。みんな同じものを見ている。

 つまり文体は文体であり、存在することは疑いようがないが、同時にわけの分からないもの。不思議なものなのだろう。

(おわり)
dead


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老人と海

あやふやな語句を調べながらヘミングウェイの『老人と海』読んでみた。読んでいる時間より調べている時間が長かった。現代国語の授業を思い出した。

 

巻綱-まきづな。まきあみではない。この綱でカジキを引っ張る。綱は使いやすいようにまいてあるのだろう。こんな風に。
001巻き綱

短すぎとは言ってはいけない。

 

魚鉤-やす。犯人ではない。魚に引っ掛けて船や陸に上げる道具。グーグルで調べると柄の長い物が出てくるが舞台はキューバなので映画『ラストサマー』に出てくるような柄の短いタイプだろう。それはきっとこんな形をしている。

002魚鈎

-もり。槍みたいな漁師の道具。穂先はワイヤーや綱に繋がっていて、魚に刺さると柄から外れる。穂先は魚から抜けないように返しが付いている。それはこんな形をしている。

003 銛

 

マスト-船に立てて帆をはる道具。マストを立てるということは老人の舟は帆舟ということになる。舵を握るという箇所もあるからきっとそう。表紙の絵は手漕ぎ舟だが、実際の老人はこんな形の舟に乗っていたはずだ。

004 マスト

帆という字が出てくるのは、かなり後半、カジキがサメに食べられてからで、それからも帆の描写は見当たらない。しかし、帆の下隅の綱をおさえていただけなので、帆は張っていなかったのかもしれない。マストと帆は持っていったが、風がある時にだけ立てて、それ以外の時は舟に寝かせているという可能性もある。でもサメに襲われながら港に帰っているので帆を立てて舟を進めているような気がする。

そのへんを気にしながら、もう一度読んでみるとp.111帆のはらみかたを見ればとあったから老人は帆立てて舟を操縦していたのだ。。

 

 

蝕壊地方-しょくかいちほうと読む。蝕壊を国語辞典で調べても見つからなかったので広辞苑も出してみたが、それでも見つからなかったのでネット検索すると、まさに『老人と海』に出てくる蝕壊地方とは何ですかというのがトップに何件か出てきた。何だか要領は得ない答えなので自分で考えてみた。

該当箇所は“両手にはところどころ深い傷跡が見える。綱を操って大魚をとらえるときにできたものだ。が、いずれも新しい傷ではない。魚の棲まぬ砂漠の蝕壊地方のように古く乾からびていた”と書いてある。このことから老人の傷は擦傷であることがうかがえる。そして魚の棲まぬとあるから川っぽい見た目だけど、潤いのない感じのはずだ。

 それらの考え合わせると老人の手には無数の古い擦傷がこんな感じであったに違いない。

005 蝕壊地方

生命線とか指紋は面倒なので省きました。傷跡はもっと真っ直ぐかも?

 

まかじき-鼻先が角みたいに伸びた魚。老人が釣った魚でもある。カジキマグロと呼ばれるがマグロの仲間ではない。でも刺身はマグロに似ている。というか元々カジキの刺身が食べられていて、それがいつからかマグロの赤身に変わったそうだ。とても美味いらしい。

 鼻先の角はだてに付いているわけではなく武器としても使うらしい。突いてよし、叩いてよし、万能の道具である。それはこんな形をしている。

006 まかじき

 

ハバナ-キューバの首都。文学とキューバは相性が良いのか村上龍もハマっていた時期がある(今もそう?)。ちなみにキューバはこの辺にある。

007 ハバナとキューバ

ハバナでバナナが取れるかどうかは分からないがキューバ料理にはバナナを使うらしい。『老人と海』でも老人と少年がバナナのフライを食べていた。

 

鮫の肝油‐さめのかんゆ。字の通りサメの肝臓の油。それだけ聞くとオエッて思うけど、子どもの頃に毎日一粒だけ食べさせられていた謎のお菓子『肝油ドロップ』の材料が鮫の肝臓(タラとかエイも使う)だと知って、ちょっと驚いた。シャチも鮫を襲って肝臓をむさぶるというし、けっこう美味なのかもしれない。それに栄養満点だ。作中でも吊り上げられた鮫工場で最初に肝臓をえぐるという描写がある。84日が続いても老人が死ななかったのは、毎日これを飲んでいたからかもね。鮫の肝油すごい。

 

つむぶり-ぶりという名前がついているがブリではないし、ブリの仲間でもない。でもブリに似ているへんな魚。ひれがちょっととげとげしい。食べ方はブリと同じっぽい。

 

ひらまさ-へい、らっしゃい、という掛け声が聞こえてきそうな名前の魚。ブリに似ているが、顔はどことなくマンボウっぽい。見た目がブリに似ているので食べ方もブリっぽく。


絞轆-こうろく。また辞書を引いても出てこない単語。ネットでも絞轆、意味分からん。たぶん魚を吊り上げて解体するもんだろう的なものが出てくる。それで原文から絞轆らしき単語を見つけて検索してみた。原文は“…where they were hoisted on a block and tackle,theyつまり鮫たちがblock and tacklehoistedされていたというわけで、このblock and tackleなるものが絞轆なのだろう。それで検索すると一発で出た。

 絞轆とは天井に付けた滑車とフックで重たい物を持ち上げる機械である。それはこんな形をしている。

008 絞轆

なぜ滑車を使うと重たいものを持ち上げられるのかは理科の先生に聞いてください。

 

舟の横木-ふねのよこぎ。船体を補強するために横木。それはこんな風にはめこまれている。

009 舟の横木

斜めの場合でも用を足すが、その場合は斜木というのだろうか? たぶん横木だろうけど。

ここに腰掛けたり物を置いてあるような気がするけど、折れたら大変だから、そっとしておいた方がいい。

 

-しいら。頭が上に出っ張った不良みたいな頭を持つ魚。それはこんな頭をしている。

010 しいら

成魚は2mを超え、色味は派手々々しく、脂身は少なく筋肉質。ますます不良っぽい。しかし高級魚らしい。別名マヒマヒというアゲアゲな名前を持っている。やっぱり不良っぽい。

 カジキを引っ張っている時にシイラを食べると吐くかもしれないと老人が思っているのが不思議だったが、シイラは脂身が少ないので腐りやすいそうだ(なんで脂身が少ないと腐りやすいんだろう?)。だから吐き気を感じたのだろう。

モスキート海岸-ニカラグアにある海岸。老人はここで何年も海亀を取っていたらしい。ということは生粋のキューバ人ではないということだ。何か政変でもあったんだろうか。

 

棍棒-木でできた棒。魚を〆るために使う。人間や他の動物を〆る時にも使われる。

 

ポンド-約0.45kg。人間が一日に消費する大麦の重さらしい。老人の見立てではカジキは千五百ポンドなので、675kgのカジキということになる。ちなみに築地に持ち込まれた大マグロで史上最大の重さは2018年現在、1986年の496kgだからとんでもないことである(世界最大だと680kg)。マグロとカジキは違うけどね。

 

アトウェイビール-キューバで作られているビール。1959年には国内シェアが50%以上。小規模生産の高品質なビールを造っているそうだ。詳しくはここを。あとは君たちの目で確かめてくれ

http://www.hatuey.com/


大ディマジオ
-アメリカの野球選手。1914年生まれ。マリリン・モンローと結婚していた時期がある。骨の蹴爪は英語版ではbone spurとなっている。それを検索すると骨棘という病気だと分かった。踵骨棘は40~60代と中年期に発症しやすいそうなので、物語の舞台は1946~51年だろう。

 

燐光を放つ藻-夜光虫のこと。明るい時は赤く見える。通称赤潮。これがあると魚は釣れないらしい。

 

あじさし-カモメに似ている鳥。頭が黒っぽい。空中からダイビングして魚を取るそうだ。アジを食べるからあじさしだとか。さしという鳥がいるのかと調べると、それはいない。たぶんアジを嘴にくわえているのが、アジを刺しているように見えたのだろう。こんな風に

011 あじさし

 

-ひろ。大人が両手を伸ばした範囲を尋という。1.8mぐらいのことをいう。100尋なら180mということだ。

 

槍烏賊-やりいか。槍の穂先みたいな形をしているから槍烏賊。死ぬと茶色くなる。岸壁でも釣れるイカ。どうでもいいことだけど、イカの頭はお腹らしい。内臓があそこに詰まっている。もし人間がイカになったら、とっても不便だろう。こんな風に

012 イカとイカ人間

きっと世界がさかさまに見えるだろう。肩こりには悩まされないだろうけど頭痛には悩まされそうだ。

 

飛魚-とびうお。胸びれが羽のように大きい魚。ひれが風を受けるので空中を滑空できる。こんな風に

012 とびうお

腹びれも大きいので垂直翼の役割があるのだろう。このひれで直進したり、左右へ飛行進路を変えてそう。

 老人は生で食べたが、刺身より調理した方が美味いらしい。でも本当に新鮮な物は美味いそうだ。シイラの胃の中から出でてきた二匹の飛魚は新鮮といえるだろうか?

 

海燕-うみつばめ。アシナガウミツバメという種はいるのだが、どうも作中のウミツバメとは違うような気がして、ウミツバメ科を探せる範囲で探してみたが、どうもアシナガツバメぐらいしかキューバには生息していないっぽい。それで英語版をあたってみるとウミツバメはsea swallowsとなっているので検索した。すると上に出てきた“あじさし”が出てきた。sea swallowの前に”dark terns”とも書かれているのでTernを調べるとやっぱりあじさしだった。海燕=あじさしで間違いない。

 

かつおのえぼし-透明のくらげ。刺されると電気が走ったような痛みがあり、最悪死ぬ。太平洋沿岸にも生息しているので台風の後に海岸へ行くと浜に打ち上げられたかつおのえぼしを見ることができる。

 

びんなが-びんながまぐろのこと。小型のマグロで胸びれがながい。

 

フィート-0.3m。足の大きさが基準だとか。老人が釣ったカジキは鼻先から尻尾まで18フィートだったので6.3mあったということ。ちょっと大きめのダンプカーぐらいある。

 

へらつの鮫-へらつのざめ。英語版ではshovel-nosed sharkとあるので検索するとエイみたいな魚が出てきた。もちろんエイっぽい見た目なのでエイだった。一応肉食だが1mぐらいなので作中の描写と一致しない。それで、へらつの鮫が出てくる後に老人が言った「ガラノーだ」から、Galanosで検索するとヨゴレという鮫がヒットした。胸ひれの先に白い模様があるのも作中の描写と一致している。人を食いサメであり、こんな悪そうな外見をしている。

013 へらつの鮫

人間より大きくなるサメ。もし海中で出会ったら『アヴェ・マリア』を百回唱えてみよう。あきらめてはいけない。生還例もある。

 
ガラノー―ガラノーとはヨゴレのこと。上のへらつの鮫のこと。

リゲル星-オリオン座の右下にある星。オリオン座はこんな形をしている。

014 リゲル星

右下の一番大きいのがリゲル星だ。

 

小判鮫-こばんざめ。鮫という字がついているが鮫ではなくスズキの仲間。頭の上に小判模様の吸盤がある。草履で踏みつけられたようにも見える。へえ、旦那。とか言いそうな愛嬌のある顔をしている。食べると美味いらしい。

015 こばんざめ

昔々、海遊館でジンベエザメにくっついて泳ぐコバンザメを見たことがあるが、最近はジンベエザメに嫌われて別の水槽に引っ越したそうだ。コバンザメで生きるのもラクじゃない。

 

輪索-わなわ。綱を輪っか状にした物。それはこんな形をしていただろう。

016 輪索

この輪っかに老人はカジキの尻尾を突っ込んだのだ。こういう風に

016 輪索2

輪っかを閉めると尻尾の付け根で綱が締まって魚が動かなくなる。それで舟で運べるようになるというわけだ。

 

デンツーソ-たぶんホオジロザメのこと。Dentusoが何者なるか英語→日本語では出なかったので、英語→スペイン語で調べると大きな歯を持った者とかいう不思議な意味が表示された。でも鮫であることは間違いないので、大きな歯を持つサメを調べると、やっぱりホオジロザメしかありえない。超大穴でメガドロンもありえるけど。

 ホオジロザメは大型のサメで1945年にはキューバで6.4mのホオジロザメが捕獲されている。もしヘミングウェイがこの鮫をモチーフにしたのなら、フィートのところで説明したようにカジキの大きさは6.3m。舟はそれより小さい。老人はカジキより自分の心配をした方が良さそうだ。ええい、デンツーソめ。

017 デンツーソ たたかい 2


  (以上をもちまして 老人と海を読んで調べたこと おわり)

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