愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2018年11月

 最新版のword は総編集時間というのが表示されるんだけど、それと今まで書いた字数を計算すると1時間1000字も書けていないことが判明して、とても驚いている。何かの間違いかと疑ったがファイルを変えると編集時間はリセットされるので、この遅さは本物だ。

 去年出した『聖者の行進』は最後の章を詩にする案があったが全然物にならなくてあきらめた。今回は作中にいくつか短い詩を入れることにした。一句作るのに時間がかかるが、時間をかければ書けるのだとも分かった。しかし、その気になれば私だって詩を書けるじゃないか、思っていたより簡単なんだ、と本屋でとある詩の雑誌を開くとレベルが違っていたのでビックリ、やっぱり詩を専門に書いている人って凄いんだなぁ。詩と聞いて思い浮かべるようなイメージを逸脱して、それでもなお詩にしてくるんだから半端じゃない。私が詩と思っているのは既にクラシックスタイルで、定期刊行物はモダンスタイルになっている。教科書で読んだ詩をイメージして詩を作るのは時代遅れだ。でも詩は入れる。モダンな詩は現代詩人に任せて私は私の詩を書く。20世紀を持ち込んでやるぞ。

 毎年秋になるとやっている気がするが、最近またカフェイン断ちを始めた。というのも去年から今年にかけて全作改稿した時に、カフェイン断ちをしていたところの文章がとても良かったからだ。善は急げとコーヒーをやめると先週は禁断症状で木のねじを無理やり頭蓋骨にねじこまれているような頭痛に苦しめられた。でも今週はぱったりなくなった。だからといって良い物が書けているとは思えない。これは前のカフェイン断ちの時と同じ。やっぱりカフェイン入れた方が良いのかな。コーヒーを飲むとひらめきが降ってくるし、文章もきらめくし。

 しかし感覚は信用できない。今はそれほど良い物が書けていないと思っていても、後で振り返れば書けていることもある。一時間1000字も書けていないのに、書けていると思い込んでいることもある。あれっ、それなら詩を入れるのはダメなんじゃないか? でも、この感覚はきっと正しい! だから入れる!

(おわり 2018年11月25日 モボ 記)

※この記事とはあんまり関係ないけど、大正時代の日本が舞台の話に出てくる”モガ”という言葉はモダンガールの略称らしい。今時の若い子みたいな意味。不良とか、性格が悪い人とか、良い意味で使うなら型破りな人という意味だと思っていた。ついでにいうならモダンという言葉も昔風という意味だと思っていたが実際は現代風という意味。それじゃあポストモダンってどういう意味? フューチャーじゃいけないの? それはともかく現代でもモダン焼きは美味しい。
無題



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”「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの”

俵万智の『サラダ記念日』に収録されている詩である。先日その俵万智が世界一受けたい授業に出ていて、この句がVTRで解説されていたのだが、恋人二人が部屋でカンチューハイを一本ずつ飲んでいる時に「嫁さんになれよ」と彼氏に言われた彼女がカンチューハイを飲んでいる時にいう言葉じゃないと不満に思っているというドラマだったので、とてもびっくりした。今までカンチューハイを二本飲んだ男が酔いに任せて「嫁さんになれよ」と言って、それを聞いた女がカンチューハイ二本程度の酔いなら、本気の言葉として受け止めるけどホンマにええんか? と、男は本気で言ってないし、女も本気で受け止める気はないという風に読んでいたからだ。
 それでもう一度読み直してみると、そう読めないこともないと思ったが、作品全体の雰囲気からすると結婚なんてする雰囲気が全然感じられないから、やっぱり男も女も本気(マジ)じゃないと思う。でも、同じ言葉を読んでいても、色んな解釈ができるんだとすごく感心した出来事だった。
サラダ記念日 (河出文庫)
俵万智
河出書房新社
2013-02-15





けっ、どうせベストセラーだろ、くだらねえ。と食わず嫌いはもったいない。


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 あわよくば山桜を長編にできないかなと思っていたが、この調子だと本当に中編で終わりそうだ。というか短編で終わるかもしれない。

9000字書いてやっと主人公が人と喋った。どんだけ無口なんだよ言いたくなる。プロットからどんどん人が減って、二人いた主人公は一人になった。この小説は主人公でさえ生き残れない。もしかしたら登場人物が一人だけの小説になるかもしれないが、今のところ三人は出る予定があるし一人は台詞を文末にスペースを開けて書き置いてある。これはぜひ使いたいというフレーズだが、もしかしたら使わないかもしれない。そういうことを今週はやってきた。

 執筆を始めてからもプロットを書き直している。シーズン3からはそういう書き方にした。ひらめきが起きたらライブ感で消化せずにきっちりプロットで受け止める。とても手間がかかって、なかなか進まない。とてつもなく無駄に時間を浪費しているんじゃないかという気持ちに襲われる時もあるが、今までと違う物が出てくるのだから、これで良いのだと自分に言い聞かせている。正しいかどうかは分からないが去年までと今年書いている文章を比べれば、断然に今年の方が好きになれるし先が開けたような手応えもある。評価はいまいちでも変えるつもりはない。

 それにしても長い小説が書けなくなった。今まではプロット以上に字数が伸びていたが、今年はプロットより短くなるばかりだ。群像に出したやつは8万字書くつもりだったのに6万字になってしまった。いつも通り字数が伸びて10万字ぐらい書けたのを規定枚数に削るつもりだったのでビックリした。あれだけ書いてこれだけなのかとガッカリもした。20万字ぐらい書いた手応えがあったのだ(というか小説の裏側で本当にそれぐらい書いたと思う。カウントはしていないけど)。去年までとは逆になっている。この感じだと長編を書くには聖者の行進ぐらいのネタが必要だけど、あんなのは狙って書けるものじゃないから長編を書く距離を非常に遠く感じるようになった。

 別に長編を書かなきゃいけないわけじゃないんだけど、やっぱり長編が書きたいし読みたい。蒲生田岬までは長編なんて奇跡が起きなきゃ書けないと思っていたけど、結局は聖者の行進ぐらい大きな物を書けたのだから、このまま書き続けていれば、そのうち書けるようになるかな。でも別に書けなくてもいいかも。山桜は中編になりそうだけど、なんだかんだで今が一番良い小説を書けている。

 

(おわり)

cherry of mountain


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ant wil

 蟻の行列を構成する蟻の一匹一匹は全体を意識していないが群体としては統一されたような動きをする。何年か前からそういう感じで書けないかとおぼろげに思っていた。

 8月からずっと書いていたプロットはアイデアがいくつもあったが、それが一本のストーリーラインにならなくて、なったとしてもすぐに分解したりで、これはもしかして無理筋を追いかけているのではないかと思うこともあったが、何かしら進んでいる手応えはあったので頑張って続けているうちに、ふと一つの流れができていることに気付いた。いつの間にか一本のストーリーラインが引けていたのだ。プロットが完成したというよりは、発見したという感じで、いわゆる達成感はない。でも新しい紙にストーリーラインを引いてプロットを書き直すと、これは凄い物が書けるぞ、と胸が沸き立った。

 最初は『山桜』という題名にしようと思っていたが、やっぱり『ナトリウムランプ』にしよう、いやナトリウムランプが分からない人もいるだろうから『道の灯り』にしようとか考えていたが、結局最後は『山桜』に戻ったのも嬉しい。いつも仮題を付けて書くが、たぶん書き終わっても『山桜』は変わらない気がする。何だかんだでファーストインプレッションは正しいものだ。あるいは題名が小説を作るのかもしれない。それなら次回作は『爆誕☆銀河最強三大小説群』とかにしてみようか。

 山桜の元ネタは本居宣長の"しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花"から取ったのだが、その時に書こうとしていた現代における武士道とか大和魂とは全然関係ないものになった。でも歌の意味からすればTHE-BUSHIDO! YAMATO-SOUL!みたいな感じではないから、それで良いのかもしれない。武士道も大和魂もプロットから外れたが残ったものに何かしらの影響は残していて、それは現代社会も同じだ。と、なると実は当初の予定通りの物を書かされようとしているのではないかと思った。

(おわり)
ガイドツアー 複雑系の世界: サンタフェ研究所講義ノートから

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signal bule 2

 私がいつも通る横断歩道では不思議なことが起こります。そこでは誰もが赤信号でも道路を渡っていたのです。

 ある時、私は赤信号を渡ろうとする人を呼び止めて、どうして信号無視をするのかと訊くと「何を言っているんだ。青じゃないか」と答えました。また別の人に「信号は何色ですか」と訊くと、馬鹿にされていると思ったのか「青!」の一言が返ってきました。またある人は赤信号で立ち止まった私の隣に立ち、しばらくした後に「なんだ、青だったのか」と道路を渡ることもありました。私の目にはどう見ても赤信号なのに、何故か他の人には青に見えているようなのです。

 私の目はおかしくなったのでしょうか。しかし、そことは違う横断歩道で他の人達は赤信号で止まっていました。赤信号を渡った人もそうだったので「信号は何色ですか」と訊くと「あなたは色が見えないんですか。赤ですよ」と答えました。そして信号が青になると、その人は道路を渡りました。

 私は頭がおかしいのかもしれない。しかし、そう思っていた矢先に悲劇は起こりました。赤信号を渡っていた人達にトラックが突っ込んだのです。私はたくさんの人達が死ぬのを目の前で見てしまいました。「ああ、なんてこった。青信号だったのに何で人が通っているんだ」とトラックから降りてきた運転手は叫んでいたので道路は青信号だったのでしょう。歩道が赤なら道路は青のはずです。でも事故現場の周りにいた人達は「どうして青信号に突っ込んできた。頭がおかしいんじゃないか」と運転手を非難しました。でもその時の横断歩道の信号は赤だったのです。それなのに運転手は赤信号を見て、自分の罪を反省するかのように頭をうなだれました。

 あんな悲劇があったのだから赤信号で渡る人はいなくなるだろう。そう思っていると、やはり次の日から赤信号で道路を渡る人はいなくなりました。みんな横断歩道の前で立ち止まっています。でも青信号になっても道路を渡りませんでした。私が道路を渡ろうとすると「赤だぞ。何をやっているんだ」と怒鳴られました。でも信号は青です。トラックも信号の前で止まっています。でも道路を渡ろうとする人は一人もおらず、私がとんでもないことをしているような目で見てきました。

 別の日に私は青信号で立ち止まっている人に信号の色を訊きました。すると「赤だよ」と答えました。「昨日もここで立ち止まっていましたね」と訊くと「そうなんだ。でも、いつまで経っても赤のままだから会社に行けないんだよ。このままじゃクビになってしまう。ああ、ちくしょう。会社のためには赤信号でも渡らなきゃいけないのかなぁ……」と心底困った様子で答えましたが信号は青でした。

(おわり 2018年11月12日 牛野小雪 記)


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 今まで母艦として使っていたパソコンがとうとう壊れてしまった。ネットで動画を見るとフリーズするレベルのスペックで、おまけに3年前からはwordでさえ止まるようになって、執筆中のデータが飛ぶことが月に何度かあったのだが、体になじんでいたので小説を書くのはもっぱらそのパソコンでだった。

 

電源が点かない時に最初に考えたのは小説が書けないということだ。しかもプロットができて、さぁ、今日から書くぞというタイミングだったので、小説の神に見放されたのではないのかと思った。しばらく呆然とした後にネットで調べたことを色々試したのだが結局電源は点かなかったので、二時間ぐらい何にもする気が起きなかった。

 

 布団に入ると、もう私は小説を書けないぞ、と落ち込んだ。ブログとか、しょうもない文章ならともかく、あのパソコン以外で小説を書けるとはとうてい思えず、右腕を失ったみたいな気持ちだった。とはいえ悩んでいても仕方がないし、壊れてしまった物は仕方がない。あのパソコンはかなり古くなっていたし、いつかはこうなっていたのだろう。むしろ書いている途中でこうならなくて良かった、と気持ちを切り変えた。

 

 こうして私は古いパソコンを処分することに決めた。ケーズデンキに持っていくとパソコン本体の処分費は何故か無料で、ディスプレイに2500円ぐらいかかった。店頭の若い店員はブラウン管の前時代的なごついディスプレイを見て目を丸くしていた。

 

それからパソコンの権利を放棄する旨を書いた紙に署名して10年以上付き合いのあったパソコンとお別れした。ずいぶんあっけないもので、ヴァイオリンの悲しそうな音色が流れたり、涙が出たりもしなかったのだが、胸の中にぽっかり穴が開いてしまった。でもやっぱり処分して良かったとも思った。

 

机の上が綺麗になると気持ちがふわふわしたので部屋の模様替えをした。机も部屋の端から端へ大移動した(部屋の真ん中に机を置く人なんていないだろうけど)。本の山の場所も変えて、布団の敷く方向は逆にした。そのせいか昨日はよく眠れた。これから今までと違うパソコンで書くことになるが何だかうまくいきそうな気がした。

 
(おわり)
destoroy PC

※追記:HDDデーターを狙う犯罪集団なんているのだろうか。私は不安だから一応HDDは抜き取って手元に置いてあるが、個人の廃棄PCを狙っても割に合わないので存在しないような気がする。

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教えてシャノン sepia

 文章の退屈と面白いを分けるものは何か。クロード・シャノンが出てくる本を読んで一つひらめいたことがある。まずは以下の文章を読み飛ばしてほしい。


るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる


上の文章は140字。ツイッターの文字制限ギリギリ一杯の情報量だが、ここから何らかの意味を見出すのは難しい。これを一万字読めと言われれば、かなり苦痛だろう。次に以下の文章を読んで欲しい。


河原を歩いていると丸い石が落ちていた。私はしばらく石を見ていたが何も起きなかった。石を拾ってみると、角のないすべすべした手触りで、ぎゅっと握りこむと、ひんやりとした冷たさが手に伝わってきた。石を手放すと、地面に落ちた。それから何も起こらなかった。同じ石は河原にいくつも落ちていた。


こちらも、るるる文と同じ140字だが文章の意味は格段に高い。ただし退屈だ。一時間後には読んだことも思い出せないだろう。この調子で一万字読めと言われれば鼻血が出ること間違いなし。


クロード・シャノンによると情報の価値は情報量ではなく外れ値にあるらしい。端的に言えば意外性。それで言えば上の文章は何の意外性もないので、文章として成立していても退屈というわけだ。


では意外性ばかりなら?


河原を歩いていると丸い石が落ちていた。しばらく石を見ていると私から逃げるように転がった。石を拾ってみると「ぷるるぅ」と奇妙な鳴き声を発して空に飛び、雲の割れ目から光が差すと私は野原に咲く一輪のバラになっていた。あぁ太陽が気持ち良いなと思っていると花弁から輝くゲロが飛び出してきた。


同じ140字。何の意味もない文章だが、ずっと面白い。

 文章(情報)の価値は意外性であり、退屈と面白さを分ける境目だ。昔から言われるように犬が人を噛めばニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになるのだ。

 しかしバラがゲロを吐くのは面白くても、この調子で一万字以上続いたらしんどい。常識外れの文章は書くのもそうだが、読むのもしんどい。シュールレアリズムはメインストリームになれないのだ。


私は同じ本を何度も読むのだが、内容を知っていれば意外性はないのに、二度目、三度目の方がより面白く読める。ということは小説の価値は情報の価値ではないということだ。

 それじゃあ文学の価値って何なのだろう。それを考えると何もない空を見上げているような気分になった。

 クロード・シャノンが今も生きていれば、この謎も解いてくれただろうか。


(おわり 2018年11月4日 牛野小雪 記)

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