愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2017年01月

blood execaoution ver1-3
 去年の12月からよしもと原作開発プロジェクトに出す短編を書いていた。題名は『ブラッド・エグゼキューション』。『それゆけアキちゃん!ゴーゴーゴー!』という案もあったが、表紙の文字入れがどうしてもうまくキマらなかったので仮題のままでいくことにした。
最近『幽霊にならなかった私』を読んだ人ならピンときたかもしれないが、主人公は同じアキという名前で、話としては幽霊にならなかった私の話である。書き終わったのは一週間以上も前だが、色々あって今まで伸びていた。

 今回はちょっとだけ人の手を借りることにした。表紙をどこかから(
PIXTAからがほとんどだが)調達してくるのではなく、中身の方でだ。こういうことは初めての試みだ。 ちなみに表紙は自分で書いた。作中の挿絵に文字入れしただけなんだけど。

 人の手を借りるまでにはかなりの時間が必要だった。 正直言って牛野小雪の小説を一番分かっているのは牛野小雪だけで、たとえ村上春樹が同じ材料を持って書いたとしても、この小説を一番うまく書けるのは私だけという思いがある(
←傲慢だな)。それじゃあどうして人の手を借りる必要があるのだろうかと一週間ぐらい悩んでいた。

 もし何か言われたら殺してしまうかもしれないとか、ヤバいことも考えていたけど、どうせネットの向こう側にナイフは届かないし、顔や住所を知ることができても本当にそこまではやらなかっただろう。でもそこまで思いつめていた(
じゃあやめればいいのに)。

  では、どうして牛野小雪は他人に手を貸してもらえるようになったのだろう。それは私にも分からない。はっきりとした理由があって声をかけられるようになったわけではないのだ。ずっと悩んで迷って思い詰めていると、ある時すっと気持ちがどこかに抜けて、やれるところまではやってみようという気持ちになった。何か気に食わない言われても殺すことはないだろうとも思った(
殺せないだろうけど)。

 とある縁で、ある人に声をかけると軽い感じで承諾してくれた。それでブラッド・エグゼキューションの原稿を読んでもらった。いくつか指摘があって、なるほど確かにそうだと思えるところもあれば、そのままにしたところもあるし、いくつか意見を交わしてある形に落ち着いたところもある。半々というところだろうか。

 結果的には声をかけてよかったと思う。でも私はどうしてあんなに思いつめていたんだろう。

  思うに、私は誰かに意見を求めるということは相手の存在を丸ごと全部100%受け止めなければならないと思い込んでいたのかもしれない。だから、自分が受け入れられる物ならともかく、受け入れられない言葉が出た時に『私が死ぬか、お前が死ぬか』みたいな状況になるのを恐れていたのだろう。

 実際に蓋を開けてみれば、どちらもほどほどに死んで、ほどほどに生きたのではないだろうか。総体的に見ればプラマイゼロではなく活きが良くなった。摩擦のあるところにエネルギーありということか。でも、あの思いつめた状態で声をかけていたら、こうはなっていなかっただろうとは思う。


 ↑というのは私の推測で、他人の心が分からないように、自分の心にも自分では分からない不可侵の領域がある。そういうところで何かが収まるところが収まったのだろう。なんだかんだで良い方向に転んだ。ただそれだけの話。ブラッド・エグゼキューションは良い小説ですよ。それではまた。

(2017/01/22 牛野小雪 記)

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チンイツだと思っていたら九蓮宝燈だった。
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 気ままに振る舞う自由は、嫌われる自由とも隣り合わせ

 執筆中にこんな文章がふと思い浮かんだ。よくできた言葉なのでどこかの本にある文章だと思ったけど、Google先生に問い合わせてみたら予想通りアドラーが最初に出てきた。少し前に流行った『嫌われる自由』という本だ。

 しばらくして自発的に、原哲夫の『花の慶次』で「意地を張り通す自由は斬り殺される自由とも隣合わせだった・・・・」的なことを言って若い傾奇者(
傾奇者=不良、DQNみたいな人)が死ぬところを思い出した。

 自由、自由といくら喧伝されても結局人が自由に生きられないのは嫌われたくないからで、嫌われてもいいのなら何だってできるんだよなぁ、と思うのである。そもそも人は元から自由であって、純粋に技術的な問題なら人を殺すことでさえ縛られていない。知識があれば爆弾を作って駅前を吹っ飛ばすことだってできる。それができないのは人から嫌われたくなかったり(
他人からでなくても自分に嫌われたくないということもあるだろう。悪人だって自分の手は汚したくないものだ)、罰せられたりしたくないから。失うものが何もない人間の怖さってのはそういう縛りがないところにあるんだな。野生動物に恐怖を感じるのも、向こうはこっちに好かれたいとは微塵も思っていないことを感じるからかもしれない。牧場から逃げた牛は生きたまま牧場に帰れても、山から出てきたイノシシが生きて山に帰れないことがあるのはそういう理由?

 『自由が欲しい』という綺麗な言葉に感じる奇妙な不快さ。そこには『私は自由に振る舞うけど、他人はそれを好意的に受け止めろ』というワガママが見え隠れするから、というのは斜めに見すぎているだろうか。自分の行動の自由を欲していても、他人の感性に自由を認めないのは片手落ちのように感じる。自由に振る舞う自由があるなら、相手に嫌う自由があってもいいではないか。すべての自由を好意的に認めろというのはワガママ過ぎるんじゃないかなと思う。『俺のひり出すクソを美味そうに食え』と同じ意味じゃないか。まっ、よっぽど権力か暴力に恵まれていない限り、そんな自由は実際のところ認められていないわけで、結局人はしがらみに縛られて自由に振る舞うことはできないんだけど。

 逆に言えばみじめに野垂れ死にする気持ちさえあればいくらでも自由になれるんだろうね。樽の中で暮らしていた哲学者ディオゲネスはアレクサンドロス大王でさえ羨む自由を持っていた。私も羨ましいと思うときがある。とても真似はできないけれど。

 どうせ縛られるなら金銀宝石の鎖に縛られたいものだ。

(2017/01/09 22:21 牛野小雪 記)

追記:『花の慶次』は佐渡編が最高。本が破れるまで読んだ。原作の方はあんまり。同じ作者なら『影武者徳川家康』の方が面白い。これも原哲夫で漫画化されているが打ち切り。でも原作を魔改造した『SAKON』の方は名作。『吉原御免状』も漫画化されていたら面白そうだったのになぁ。 

追記:書いているのは原作開発プロジェクトに出す予定の短編

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