愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

2016年07月

 この前遠藤周作の『沈黙』を読んでいて、村人の、たぶん長崎あたりの方言が出てくるのだが、さっぱり分からなかった。地文の方でも主人公は何を言っているのか理解できなかったと書いてあるので、まぁそれはそういうもので良いとして、ずっと前に田中慎弥の『共食い』を読んで、こちらでも方言が出てきてさっぱり分からなかった。しかもこちらはそれでちゃんと意思疎通を図っているようであったが、読んでいる方はさっぱり分からなかった。こちらも地の文は普通だったし、会話文も分かるところはあったので、前後の文脈をイメージしながら読んだ覚えがあるが、かなり読みづらかった。こういうことがあったので小説に方言はなじまないのではないかと以前から思っている。

 以前、徳島新聞で阿波弁で読む童話というものがあった。これは地の文まで全部阿波弁。 一応私は徳島に住んでいる人間で日常的に阿波弁を使っているのだが、いざ読むとなるとかなり読むのに苦労した。というか頭に入ってこなかった。やっぱり方言は読む文字としては弱い? ちなみに
その阿波弁で童話を読むというコーナーはもうなくなっている。
 同じ理由で川上未映子もけっこう最初の方で投げ出した(グーグル先生によると、あれは河内弁だそうだ)。耳で聞けば逆で、方言の方が耳に入ってくるような気がするが、気がするだけでやっぱりダメなのかな? → 口語体とはいっても、人間が実際に喋っている言葉は存外適当なもので文字に起こしてみるとひどいものだ。でも普段は気にならないということは、整えられた文章が音になっても立板に水になるのかもしれない。そういえば政治家の答弁って事前に整えられているんだっけ? 実は原稿で読めば凄くきれいに頭に入ってくるのかもしれない。
 
 広橋悠の『海想』は会話文が関西っぽい感じだったけど、わりと読めたわ。腕がええんか、うまいこと使たんかはよーわからん。
関東とか東北の人はどうだったんかな。伝わるかどうか分からんのにあえて博打うつんはよーせんわ。そんなんでわいが書いとる小説は、徳島とか、大阪の人が出ても普通の言葉でしゃべっとる(ポッと出の人はほーでもないけど)。地の文はもちろん方言ちゃう。まぁ、自分でも方言で書いてみようと思ったけど、実際に書いてみるとごっつい書きづらいわ。やっぱり小説は標準語で書いた方がええんとちゃうか?

(おわり)

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※全国テレビは東京基準で考えているから博多弁萌えとか、京都弁萌えが取り上げられるけど、逆に地方で住んでいると標準語、というか東京弁(どこがどうとは言葉にできないけれど東京の人もなまっているよね?)萌えがあるようにと思うんだけどあんまり話題にならないね。東京から地方への流れが少ないからだろうか。
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 私が住んでいるところは市役所からも学校からも公民館からも距離があるので、町内会の何とか会館という場所で投票をするわけだが、人間が考えることはみんな同じで私が昼下がりに投票所へ行くと何台か車が停まっていた。

 中は人でいっぱいで暑いだろうから、しばらく車の中で人がはけるのを待ってから中に入った。
 廊下には何故かブルーシートが敷いてあって、その上を歩くとざらざらした感触が足の裏にあった。たぶん普通のブルーシートより安い素材でできた物なのだろうね。こんなところに地方の不景気が現れているなぁ、と少し寂しくなった。

 ちょうど投票所から若い男の子が出てきてすれ違ったのだがちょっとビックリしてしまった。今回の選挙は18歳からだから、たぶん高校生なのだろう。髪の毛なんかピーンと上に立ててるし、Tシャツの片方をずり上げて上腕二頭筋をムキッとさせちゃったりしてさ。そしてなによりニヤついた顔をしながら土足で廊下を歩いていたのが衝撃的だった。

(うわぁ・・・・これがゆとり世代か)

 なるほどこういう輩がいるからブルーシートなんだな、と納得がいった。それと同時に最近の若い奴は(←まさか自分の中からこんな言葉が出てくるなんて!)こんな当たり前のマナーも守れないのかと、ちょっと寂しくなった。ゆとり世代もピンキリあるんだろうけど。
 

 投票所に入場して、チケットを係の人に渡すと「あちらで」と促されたのだが、その後を追うように「あっ、ここ土足・・・・」と背中に言葉が投げかけられ、途中で途切れた。

 この瞬間、私の中でぴーんとひらめくものがあった。

 あれっ、もしかしてこの投票場って土足厳禁じゃなくて土足入場なんじゃないか?

 係の人達は土足ではないが、みんなスリッパを履いている。裸足なのは私だけ。
 中にいる人達がみんな私を見ているような気がして急に恥ずかしくなった。体中の毛穴からぶわっと汗をかく。

 投票所を出ると、赤ちゃんを抱いたおばあちゃんと若い女の人がいた。彼女達とすれ違う時におばあちゃんが一瞬だけ私の足元に驚いた目を向けた。私も二人の足元に目を向けた。彼女達は二人共土足だった。ついでにいえば赤ちゃんもシューズを履いていた。

 私が玄関に戻って靴を履くと、あがりかまちに紙が貼ってあって『土足で入場できます』と書いてあるのを見つけた。おいおい、マジかよ。来るときは全然気づかなかった。意外に人って文字を見ていないんだなと思っていたが、ちょうどまた人が入ってきて、何の逡巡も見せずに土足のまま上がっていくのには驚かされたね。その文字を読んでいないのは私だけっだったみたい。帰りの靴の中は妙に砂っぽくてざりざりとした。

 家に帰ってからゆとり世代について調べてみた。
 ゆとり世代とはゆとり教育を受けた世代である。そのゆとり教育提起されたのは1972年だが、施行されたのは1980年から。土曜日が休みになったのは1992年でちょうど私が小学校の頃だ。つまり私はどっぷりとゆとり教育を受けた世代なわけで、紛うことなき『ゆとり世代』だったというわけだ。もっと若い人のことだと思っていた。

 ホントにね、ゆとりゆとりって言うけれど、ゆとり世代にはどうしようもない奴がいるもんだと発見した1日だったね。でもさ、中には凄いヤツもいると思うよ。羽生結弦だってゆとり世代だし、マー君だってそう、同い年ならこの前芥川賞を取った羽田圭介だってゆとりだ。どの年代だってスゴイ奴は凄いし、どうしようもない奴はどうしようもない。今も昔もそれは変わらないだろう。とにかく今日は身近なところにどうしようもないゆとり世代がいると気付いた1日だった。

(おわり)

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先日、根木珠さん、アヲイさんとウェブ上の宣伝がうざいという話をしていた。

根木珠さんは宣伝する側に回ると相手がウザいんと思うんだろうなぁと悩まれていた。
私はアニメだと最初は嫌いだった相手を好きになることがあるので、それを目指したらどうかという事を言った。

その時は軽い冗談だったが、後日ふと思い出して考えることがあった。

小説でもマンガでもいいが、熱心に盛り上げているのはファンとアンチであったりする。盛り上がらないところにはファンしかいない。アンチも昔の誰それは良かったという言い方をして、つまりは以前熱心なファンだったわけだ。
 
キライはスキに変わる可能性がある(もちろんその逆も)。
だから誰かに嫌われたということは相手が自分に興味があるということだ。
そう考えると嫌われることを恐れなくてもいい。やれることは増えるんじゃないだろうかと思った。

小説を書いていて思うのは無関心が一番応えるということ。今は消えてしまったが『ドアノッカー』に最初のAmazonレビューが付いた時は好意的な内容じゃなかったけれど、内心ヨッシャ!という思う気持ちもあった。

でも、でも、それって本当?

その後アヲイさんが、相手に興味を持たせられたら勝ちだけど『金の蟹』は好きになれないなぁ、とこぼしていた。正確には『幸運の蟹』。調べてみると詐欺がどうとかというサイトが現れる。画像検索するとキモいカニの画像が出てきた。

うわぁ、これじゃあな・・・・・と、思ったが、頭の中にはカニが居座っている。キモいなぁという感情と共に。宣伝成功? でも、好きになることはなさそうだなぁ。


この一件でキライとキモいは違うと、ふと気付いた。

それで思い出したのは『電車男』

話の内容は電車で絡まれていた女性(エルメス)を助けたオタク(電車男)が、後日お礼にティーカップを貰って、そこから恋(電車男の片思い)が始まるというお話。

今はキモオタという言葉があるが、一昔前はオタク=キモいという文脈で使われていて、ドラマでは電車男が脱オタ(ようは脱キモい)を目指して奮闘する様が描かれていた。もしあれが脱オタ(脱キモ)じゃない方向で頑張っていたらどうなったんだろうか。私にはエルメスとうまくいく状況が想像できない。マンガに出てくるあやしい薬で精神堕ちでもしない限りありえない。もしオタクのまま電車男がエルメスとどうにかなっていたら激しい違和感があっただろう。


エルメス(この人キモいし、生理的に無理だけど何故か胸がドキドキする。悔しい・・・///)
↑なんてあ・り・え・な・い。頭がおかしいと思う。


それに反して。もし仮にDQN(オラついた性格の悪いやつね)がいたとして

エルメス(この人、キライ・・・・)と思っていたのが

(この人キライだけど何故か胸がドキドキする。どうして・・・・///)

と変わるならありえそうな気がする。相手が脱DQNしなくても。というか最初からドッキュンしていても違和感がない。

とにかく、キライ→スキ はありえるけれど、キモい→スキ はありえない。本当にヴィジョンが見えない。せいぜいキモくないぐらいだろう。

そういえば最近は『キモい』が『
キライ』という文脈で使われているような気もする。

つまりさ、宣伝でも創作でも何でもいいけど、避けるべきなのはキライじゃなくてキモいなんだよ。キライは何かのきっかけでスキに変わることはあるけれど、キモいはせいぜいキモくないにしか変わらない。発展性がない。

そう考えると、嫌われたら儲けもんだよね

電車男 DVD-BOX [DVD]

(おわり)

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 毎年年末年始になると体温が35度以下に下がる。その状態になると驚くほど眠れる。目をつぶっただけ眠れるんじゃないかと思うぐらい。2日ぐらい眠り続ければその状態は治る。

 それから半年ぐらい経った、6月か7月の頃には何故か微熱が出る。37度近辺。頭が働かないほどではないが、うまく使えないぐらいには熱が出る。 こちらは眠っても治らない。そもそも眠れなくなる。

 今年もやっぱりそうで、 37度近辺の微熱がずっと続いていたが、一昨日朝目が覚めると視界がぐるぐる回るような感覚があって、熱を計ると38度あった。これは初めてのこと。それで病院に行ってみると、先生はうんうん何度も首を傾げて「季節の変わり目だから風邪のひき始めでしょう」と最後に言った。せきも出ないし、喉の痛みもない。だけど風邪。本当かなぁと私も心の中で首を傾げたが、貰った薬を飲むと平熱に下がった。熱さましだって言っていたから下がらなきゃヤブだもんね。

 これはジンクスなんだけど、この状態を抜けると調子が良くなるような気がする。何故そうなるのかは分からない。たぶん誰にも分からないだろうと思う。でも毎年そうなっている。半年おきだから忘れた頃にという感じだ。
  
 何かの病気だと私は思っている。でも死ぬ病気じゃなければ治療はされないし、真剣に研究もされないから一生分からないままなんだろうなぁ。

 今小説のプロットを書いているところだけど、紙を一枚失くしてしまった。ボツにした物だし、そこに書いてあることは別のノートに書いてある。理屈としては無くても良いんだけど、それがないと新しいプロットが書けない気がする。書いてもどこか足りない気がする。実際にそうだ。
 もしその紙が出てきても、今あるものが変わるわけではないし、見返すこともないだろう。その紙に書き込んだのは一週間前で気付いたのが今日ということでもそれはうかがえる。でも見つかればプロットがしっかりしたものに変わることは間違いない。理屈に合わない話だけど。まぁ広い家でもないからそのうち見つかるだろう。

(おわり) 

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