初夢とは大晦日から元日にかけての期間に見た夢という説もあるが、今年になって見た夢はこんな夢だった。富士山も鷹もなすびも出てこない。


 午前の抗議が終わり、構内を歩いていると古い友人に会った。
 "あれっ、こいつと同じ大学だったかな"と不思議に思いながら(それをいえばそもそもその大学も私が知らない場所だった。でも夢の中だといつもここが現れるという変な場所)、話をする。

 昼を食べたかときくとこれから食べるというのでついていった。
 構内にあるバスを改装したケバブ屋に入る。店主は片言の日本語を話すトルコ人だった。この時"あれっ、ここにこんな店あったかな"と思った。そこは薄い曇りガラスのカフェがある場所だったはずだ。(この大学自体が実在しないのでそう思うのは不思議だが、正門からの距離からして現実の大学にあるカフェの位置と一致するのも不思議だ。そこにはカフェがあった)

 その店はケバブをパニーニ(起きてから調べると実際にはピタパン)にして食べる。具は色々あって私が豚肉にしようとする旧友がレバーにするといいよと言った。
 レバーは食べたこともないし食べたいとも思わなかったが、ここで水を差すのもあれなので私もレバーを頼むと、また別の旧友と会った。

 昼を食べたかときくとこれから外へ食べに行くと言った。それでケバブ屋にテイクアウトはできるかきくと、要領を得ない日本語でできないと分かった。
 そこを曲げてなんとか頼むと交渉したが相手はうんと言わない。その交渉の中で私達は怒っていたし店主も怒っていた。そしてついには店主がエプロンを地面に投げつけて、どこかへ行ってしまった。

 どうしようかと立ち尽くしているとケバブを食べていた土屋アンナが席を立って店番を変わった。
 "うわ、すげえ、土屋アンナだ! なんでこんなところにいるんだろう"と内心驚いていたが、騒ぐと恥ずかしいので、気持ちを落ち着けて彼女に勝手に店をやってもいいのかときくと『いいの、いいの、気にしたら負けよ』と答えた。
 なるほどそうかと納得して、ケバブは買わずにそこを出た。 

 図書館へ行くと連れが知的障害者に変わる。そこでボンバーヘッドの音楽科教授(学部長)に会う。
 図書館の壁面にあるモザイク画のタイルを叩き、同じ音がするタイルを3人で探すことになった。
 私はいくつか見つけて教授に言ったが、二人はそれに構わずタイルを指先で叩き続けていた。

 場面は美術館に変わる。床も壁も天井も真っ白だ。連れは知的障害者と音楽科の教授。
 色を壁に投げ続ける極彩色の立体アート、テニスのラケットで色を打ち返すと色が足されていった。
 ロダンの動く像が並んでいて、ひとつはアートを作ってもう片方がそれを消していた。
 『大音量注意』という立て札があり、そこには叫び声を上げ続けるロッカーみたいなオブジェ。
 ヘンテコな物ばかりで変に思ったが、知的障害者の子は楽しそうでずっと笑っていた。教授はそれを深い顔で観察していた。

 場面は教授の部屋に変わる。私も障害者も消えてそこでは教授一人になっていた。
 彼は机に座り、白紙の紙を前にしてこう考える。
『私と彼で違うものはない。記憶の積み重ねをいくつも重ねて物事を理解している。ただし、その膨大な記憶の中から勘によって必要な情報を引き出せないだけのだ』
 そして夢から覚めた。

 夢から覚めて教授の考えたことについて自分でも考えていた。何も思い付くものはなかったが、夢は明らかに現実から影響を受けていると分かった。
 ボンバーヘッドの教授は昨日見たとんねるずがそうだ。
 知的障害者も昨日見たATARU がそうだ。
 土屋アンナもユーキャンのCM で今年からよく見ている。その論でいけばケバブ屋の店番を代わったのはローラだったかもしれない。

 紙に教授の考えと夢のあらすじを書いていると、ふとひらめくものがあった。
 小説を書いているとよく書けるときと書けないときがある。でも、どちらの場合も頭の中には同じものが入っている。問題はそこから言葉を引き出せるかどうかだ。
 図書館のモザイク画や美術館で見たヘンテコなアートの数々。それらは頭の中ではっきりとした色と形を持っているのに、いざ書こうとすると線一本すらひけない。
 もしこの世界が絵でコミニュケーションをする世界だったなら私は障害者になること間違いなしだ。

 これと同じように知的障害者やボケた人の頭の中では私と同じ思考の流れをしているが、それを外に出すための何かが足りないだけなのかもしれない。
 もし仮に知的障害やボケが治療されるようになったとき、当時はどんなことを考えていたのかときけば "今と何も変わらない。あのときは体の牢獄に意識が閉じ込められているようだった" と答える可能性がないとはいえない。
 また天才になる方法が発明されたときも、出力が変わるだけで中身はちっとも変わらないのかもしれないなんてことを考えた。(周りの評価は変わるだろうけど)
  
 そう考えるとお笑い芸人やアーティスト(数は少ないが小説家も)が勢いよくdisられる理由もある意味では納得がいく。なぜなら批判者の頭の中にはより凄い物があるからだ。ただそれが頭蓋骨を越えて外に出てこないだけ。私だってそう思わないことがないわけではない。
 でも、じゃあお前やってみろと言われても、それを出力することはできない。惜しいことだと思う。みんなが頭の中をそのまま外に出せるようになれば、世界は今より面白くなるかもしれないのに。

 夢で見た極彩色の立体アートもモザイク画も今は私の頭に囚われている。明日になれば輪郭がぼやけてきてじきに忘れられるだろう。たぶん死んでも外には出てこない。本当に惜しいことだと思う。こうやって人知れず消えていった絵や音楽や物語が世の中にはいくつもあるのに違いないだ。