聖者の行進を書くにあたって決めたことがひとつある。それは『後からひらめいたことは絶対に正しい』ということだ。基本的にプロットに沿って書き進めるが、途中でプロットを破壊するひらめきが降ってきても、そちらを優先するということだ。

 第三部を書き始めてそろそろ締めが見えてきたところで、まさかのひらめきがやって来た。台風が来て雨風が雨戸をドンドン叩いていた夜だ。おいおい冗談だろ、そんなのありえないって最初は無視しようとしたけれど、布団に入って考えているうちにやっぱりそうしなきゃな、なんて思い始めて、結局考えていたラストは無しになってしまった。どうやって終わらせるんだよ・・・・と不安になるがしかたがない。最初からそうだったものね。最後もすんなり終わらせてくれない。

 そもそも『聖者の行進』はここまで書くつもりはなくて、チャーリーが死んで終わりの長い中編が、チャーリーの出番が遅くなって、最後に出会うはずの二人が出会わなくて、そうやってプロットを壊しては立て直すことを続けてきたのだから、最後の最後もすんなり書けるはずがあるまい。なんだか反抗期の不良を手なずけようとしているようだ。

「聖者君・・・・予定ではこうなるんだけど? そんなことしたら牛野君が困るよね?」「知るかよ、バカ。後はてめぇで考えろや。じゃあな!」みたいな。大丈夫かなぁ、聖者の行進・・・・今のところ聖者が一人も出てこないんだけど・・・・・

 今のところは最後まで聖者が出てこない予定だ。なら、なぜ『聖者の行進』なのか。もしかするとこの小説は本の中にではなく本を読んだ人に聖者を見出すのではないかと考えたことがある。行間が文字の間ではなく本の外にある感じ。う〜ん、そんなこと可能なのかなぁ。でも、もしそうでなければ名前倒れの小説になってしまう・・・・それとも最後に「おぎゃあ」と聖者が生まれてくるのか?

(おわり 35万字まで書いた牛野小雪 記)

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 自分でも何故書いたのか分からない部分があって、それでも消すには何かおかしい気がして、そのまま書き進めているうちに最後の最後になってようやく繋がるということがある。どこか運命的な感じがするけれど、しこりを残したまま書いているうちにどうにか決着をつけただけかもしれない。

 小説のアイデアは自分でも分からないところから湧いてきて、それはたいてい心の死角から育ってくる。そんなことをターンワールドのあとがきに書いた。

 先日受信メールを整理していると、そのターンワールドについてのメールを見つけた。そこにはターンワールドは書ききれなかったところがあったけれど、今の自分には書けない物なのでホップ・ステップ・ジャンプで段階的に書いていこうと思っていると書いてあったので、ちょっと驚いた。聖者の行進もホップ・ステップ・ジャンプじゃないか。私がその時考えていたのはJohn to the worldという小説なのだが(この時はまだ名前すらなかった)、その裏側で育ったのが聖者の行進なのかもしれない。

 ということはJohn to the worldは書けないまま終わるのかなと思いがちなのだが、実は聖者の行進を書き始めてからJohn to the worldの構想が動き始めた。裏が表となり表が裏になったのだ。小説のアイデアに詰まれば息抜きに別の小説を書くのが良いのかもしれない。

 もしかすると近いうちにお目見えするかもしれないが、実は5月頃に聖者の行進が行き詰まっていた時に別の小説を書いていた。そんなことしている場合じゃなかったのだけれど、思い切って書いてみたら聖者の行進も書けるようになったので、書く必要もないのにたくさん書いてしまった。

 小説には書かない時間が必要なのかもしれない。その間はその小説について考えてもいけない。日に当てず、空気にも当てずに発酵を促すのだ。

 もうじき第二部も終わり。なんだかんだでエンドが見えてきた。あぁ、本当に終わるんだな。終わらせたくないな。ちょっと寂しい気がするのは秋の風が切ないせいかしらん。執筆を開始したのは31週間前だが、雑感帳によると構想を形にし始めたのは1月23日からだから、今年は聖者の行進と過ごした一年になりそうだ。

(おわり 34万字まで書いた牛野小雪 記)

追記:プロットはできていたけれど最後の章のタイトルが思いつかなくて、一日中悩んで迷ってようやく思いついた。その瞬間、これは書ける、と確信した。あぁやっぱり終わってしまうんだな。ちょっと寂しくなって、涙が出そうになって、でも出てこなくて、そんな時に自然とこんな言葉が出てきた。

僕は・君たちが・好きだ。

風の歌を聴け!


 先月はあんまり書いていないような気がしていたけど6万字書いていた。えっ、めっちゃ少ない・・・・という人もいるだろうけれど、牛野小雪にとっては書けた方である。不思議とあんまり書いた手応えはないのだけれどコツコツ書いていたのが利いたのだろう。4000字書いた日が週に二日で後は書けないのより、毎日2000字書いている方が結果的には多くなるように。

 休むことは難しい。書かない日、あるいは時間を作った方が結果的に書けることを私は知っている。でもいざ休もうとするとサボっているだけなんじゃないかと不安になる。一日の単位で見ればオールアウトすることが小説に対して誠実のように思えるが、一週間のスパンで見れば不誠実な行為だ。でも現実的に今日は書けなかったという日に、今日はもう書かないぞとはなかなか思えないものだ。たとえこれ以上粘っても書けないと感じていたとしても。

 時々こんなことを考える。小説を書くのは楽しい。楽しいというより充実感がある。ハイパーグラフィアという文章を書かずにはいられなくなる病気があるぐらいだ。もし仮に心の中を言葉にして吐き出せるサービスがあるなら一時間5万円は取れるんじゃないかと思う。でも実際に1時間執筆して、本当に書いている時間というのは5分もなくて残りの55分は書けない時間を過ごしている。書けない時間はとても苦しい。一日0字だと死にたい気持ちになる。だから誰も小説なんか書かない。逆に言えば小説家というのは書けない時間を過ごしているから価値があるのではないか?

 この世に価値がある物は、他では手に入らない物と、誰もやりたくない手間のかかることの二つ。一般的な小説の価値は前者であるが、後者の価値もなくはない。ただ供給量が多いからタダに近くなっているだけ。

 私は執筆中に雑感帳というノートを書いている。これなんかは小説が書けない日でも書ける。むしろ書けない日の方が多く書いているぐらいだ。書くこと自体はそれほど難しくないのかもしれない。でもあまり読み返すことはない。書くことを楽しんでいる文章は読んでいて面白くない。自己啓発っぽいネットの記事や本では作っている側が楽しめなきゃ良い物は作れないなんて言うけれど、圧力のない文章はやっぱりダメだ。雑感帳の文章を見ていつも思う。つい最近同じようなことを書いている人がいて、ちょっと嬉しかった。こんなことを考えているのは私だけかと思っていた。

 筋トレだって負荷をかけなきゃ筋肉はつかない。サッカーで何もないところにシュートできることなんてまずない。常にDFやゴールキーパの圧力がある。F1だってギリギリのライン、ギリギリのスピードを攻めて走る。だからこそ人を引きつける力があるんじゃないか。

 だけど、だ。圧力があるとか、文学的に言えば『魂がこもって』いれば、あるいは『魂を削れ』ば正しいのか。いや、もっと踏み込んで考えれば小説に正しいことを求めているのか?

 実は正しいことにあぐらを書いてサボっているのかもしれない

 努力は素晴らしいことだと言われている。同時に努力の跡が見えるのは二流だとも言われている。私は今まで圧力をかけることに熱中していて、圧力の跡を消すことは意識していなかったので今回は推敲する時に「コイツ、鼻くそほじりながら書いたんじゃないか」と言われるぐらい圧力を消すことを意識しようと思っている。ピカソの絵は子供が書いたみたいだと言われているし、小説の世界でも村上春樹は「俺でも書ける」なんて言葉がよく聞かれる。私もそういうところを目指してみよう。

 今回は速い文体で書くとか3つのラインで回すとか色々あって色々大変だけど、でもとりあえずは初稿を仕上げないとね。やっと第二部の最後の章まで来た。

 長編を書いていると、現実との奇妙な一致があったり、偶然の出会いがあったりする。それはいつもほのめかしの様なものであったり、極々些細なことであったりするのだけれど、今日もまたそういう出会いがあった。そんな偶然や奇跡が重なって、たぶんきっと聖者の行進は小説的には成功するんじゃないかな。これを書いたことで胸を張れるような。って、そんなことは最初に書いていたか。

 日記帳を読み返していて真論君家の猫を書く前のところを読んだ。これは途中で書けなくなるかもしれない、なんて聖者の行進と同じことを考えていた。それなら最後まで書けるんじゃないかと思うのだけれど、心情的には最後まで書ききれないと思っている。でも聖者の行進はもうじき終わる。脳みそでは分かっているんだよ。でもまだ全然そうは思えない。

(おわり 31万字まで書いた牛野小雪 記)

追記:ピカソとゴッホならゴッホの方が好きだなぁ。文体だけで言えば村上春樹より村上龍の方が好き。だけど一冊の本としてなら春樹の方が好き。

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 先週とうとう『聖者の行進』からチャーリに退場願った。元々第二部はチャーリー(元々はチャーリーという名前でもなかった)のためにあったようなものだったので感慨深いものがある。一区切り着いた感があって、ここから第二部の終焉に向けて気合入るのかなと心配だったが、ちゃんと追い上げていけてる。自分でもちょっとビックリ。手加減なしだ。今すんごい物を書いている。むしろチャーリーがいなくなってからが本番。

 第一部だけでも良いもん書いたな、なんて内心鼻高々だったけど、今書いている章と比べたら月とスッポン。半年も書いていたら変れるものなのだろうか。今まで積み上げたものがあるからそう感じられるのかな。最近『聖者の行進』を書くのが恐い。最後の最後に台無しにしちゃったらどうしようかなって。もう第二部で締めちゃえよ、なんて考える時もあるけれど、恐がっている分だけすんごいのが出てきてワクワクする。まだ先が見えているのに、ここでもう一部書かないのはもったいない。

 とにかく第三部の締めを意識するところまでは書けた。今はここが私の見えている極限ポイント。完全に閉じるか、完全に開放するか、あるいは半分締めるか。完全に閉じれば綺麗に収まるだろうけれど、それだと小さく収まりすぎる気がしていて、でも完全に開放するのも締まりがない気がする。じゃあ半分で締めるか、ということになるのだけれど、これには二通りの締め方があって、う〜ん、どっちも迷うなぁという感じ。はたして牛野小雪は『聖者の行進』を最後まで書ききれるだろうか?

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(おわり 30万字まで書いた牛野小雪 記)

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 執筆ってギャンブルみたいな物だなと思う時がある。今日4000字書けたとしても、明日も4000書けるとは限らない。今日6000書いたら次の日は8000書けたということもある(そういえば最近そういうことないな)。今日の執筆は明日の執筆を保証しない。それは理不尽でもあるけれど救いでもある。たとえ一文字も書けない日が続いても、ある日突然脈絡もなく書けるようになることもあるからだ。こんなこと前にも書いたような気がするなぁ。

 あるいは立ち会いにも似ていて、お互いに剣を向け合って立っているけれど、二人がすれ違うとどちらかが倒れている、みたいな。でも執筆の良いところは作者が切られても死なないことだ。それどころか切られたことが喜びに繋がる。私を切ったのはこんなに凄い相手なのかと。だから単純に勝ったとしても素直に良いとは言えないところが執筆にはある。

 自分を殺してくれるような相手じゃないと殺す意味はない気はする。でもそういう相手を殺さなければならないという矛盾。

 半年の間、聖者の行進と毎日首を締め合っていると負けることが快感になる瞬間がある。予想外に書けてしまうと、もしかして書かされたのではないかと不安になることさえある。私が弱くなったのか、聖者の行進が強すぎるのか。それはまだ分からないことだ。でもずっと負け続けている。

 あといくつ黒星を積み上げれば聖者の行進に届くのだろうか。そもそも小説に勝ちなんて存在するのか? 勝つ負けるじゃなくて、勝ち負けの超越。なんだそれ。でもそういうことなんじゃないか? そんなことを考えていた。

(おわり 28万字まで書いた牛野小雪 記)

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 本文の執筆を開始してから正真正銘半年が過ぎてしまった。字数も『ターンワールド』を越えてしまい作者自身が困惑している状況だ。書き始める前は「どうせこんなもの私に書けっこないから7万字くらいに縮小して。次のJohn to the worldで本気出す。っていうかこっちが本命だし。聖者の行進は黒髪の殻→エバーホワイトと来て、ホップ・ステップ・ジャンプのジャンプだなんて嘯いていたけどそんなことは知らね〜。どうせ誰も期待してね〜」なんてことを考えていた。結果的には思惑が外れて当初の目論見通りに事が運んでいる。

 ああ、恐ろしい。当初の目論見通りに事が運ぶつもりなら、まだ中編一個書くぐらいの勢いが必要だ。もっと恐ろしいのは目論見を超えてしまった場合、長編を書く精神力が必要とされている。聖者の行進なんて聖者っぽい名前だけど、こいつはひどい性格をしている。最後の一滴まで絞り出させるつもりだ。最近はちょっとこれを書くのが恐くなる時がある。これを書いてしまったらJohn to the worldどころか、どんな小説も書けなくなるのではないか・・・・とは前にも書いた。つまりもっと恐くなったってこと。
 
 どうでもいい話だけど、チャーリーの章を書く前にひとつ章を足した(この辺りが目論見を越えるんじゃないかと予想させる)。3万字くらいの章なんだけど、おぉ・・・・凄く良いな・・・・凄く良い・・・・こんなの書いちゃっていいの? と自画自賛してしまった。聖者の行進を前提にしないと成立しない3万字だが、ここだけ抜き出して短編にして出したいぐらい気に入っている。おまけにこの章のおかげでチャーリーの章に厚みが出せそうだ(繰り返しかも?)。

 弱音を吐きながら何だかんだで2部もあと3章半で終わり、3部もそれほど長くならないだろう。

 エバーホワイトから大分時間をかけてしまった。三部作の集大成を書きたいなんて意気込んだせいだ(話の繫がりはない)。うん、でもそれぐらい意気込まなきゃここまで書いてこられなかっただろう。緊張感がなければ力も入らないのだ。

 最後の最後に「一体何を読まされたんだ!?」と驚くような結末にしたい。でも、怒られるかな。「こんなもの読ませやがって!」って。とにかく物の善し悪しは脇の置いたとして、すっごく大きくて脳みそから空の天辺まで飲み込まれるようなすっごい小説になるのは間違いない。うん、それは本当。期待は裏切らない。

 でも最後まで書ききれるかな・・・・?

(おわり 27万字まで書いた牛野小雪 記)

追記:しかし、自画自賛している真論君家の猫がさっぱりなので聖者の行進もさっぱりなのかもしれないなんてことを考えることがしょっちゅうである。でもそんな小説だからこそ私が見捨てずに愛してあげなくちゃダメなんだってことを考えると、共依存の泥濘の底に深く沈んでいるみたいでとっても気持ち良くなる瞬間がある。でも私が聖者の行進を書き続ける意思を持ち続けていれば、いつかは別れる運命なのだ。まるでつらい結末が分かっている恋をしているみたいだ。いつまでも小説を完成させられない人の気持ちが分かったような気がする。このまま時を止めて現状維持を続けたいって思うのは不思議じゃない。そんなことを考える一瞬がないといえば嘘になる。でもいつかは聖者の行進と別れることを考えている冷静な自分もいる。きっと悪い人間なんだろうね。聖者になんてなれない。向こうはどんな気持ちなのかな。分かんないや。何も言ってくれないから。

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 聖者の行進を書いている間に、田んぼには水が張られ、田植えが始まり、稲が伸びて風に青臭い匂いが混じったと思っていたら、今はもう黄金色の稲穂が垂れている。早いところではもう収穫が始まっていた。頭では今が8月と分かっているのに、肌や内臓の感覚は2月のままなのでとても不思議なことのように感じる。何故2月なのかといえば聖者の行進を書き始めたのが2月だからだろう。あそこから時間が止まっている。

 進むのがとても遅くて嫌になる。この前チャーリーがどうとか言っていたが、先週からチャーリーが出る前に一つ章を足して、おまけにとても伸びているので結局チャーリーはちょっと動いただけで時間が止まっている。でもこの章を書いておけば、チャーリーがさらに活きるんじゃないかなという感じはしていて痛し痒しである。

 一体どこまで伸びるんだろう。このままだと隕石を落すか唐突な夢オチにしない限り、ターンワールドより長くなるのは確実だ。なんとか30万字以内に収める方法はないだろうか。

(おわり 25万字まで書いた牛野小雪 記)

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