牛野小雪の愚者空間

牛野小雪のサイトです。 小説の紹介や雑記を置いています。 あと短い話とか。

 先月末からプロットを書いているのだが、まだプロットラインが引けない。まだネタが熟成されていないというのもあるが根本的にプロットの作り方に問題があるのかもしれないと考えるようになった。

 そもそも最初はタン、タン、タン、タンと起承転結四拍子でプロットラインを引いていて『幽霊になった私』の途中から、どうもこれは重いのではないかと思い悩んだ結果、タタタン序破離三拍子にした。すんごい物を思いついた、と何年かは思っていたが、去年あたりからどうもこれも重いような気がしてきた。

 それでふと、もっと縮めてもいいのではないかと、タ、ターン変則二拍子のリズムでプロットを引いてみた。というより今あるプロットを綺麗に収めようとすると自然とその形になった。すると序盤はこれでいけるかもしれないと思えるようになった。

 続きもタ、ターンのリズムで引けるかもしれないとは思っているけれど、何も最初から最後まで同じリズムを刻む必要はない。タ、ターン、タタタンみたいなリズムもありだ。一ヶ月でプロットラインを引くのは無理じゃないかと思っていたが、案外あと数日でプロットラインを引けるかもしれない。少なくともプロットの背骨は通せるだろう。

(おわり)



『東京死体ランド』の世界には生者と、死体が存在する。現実の世界も同じだが、この世界の死体は生きている人間と同じように喋ったり、歩いたり、タイヤを売っていたりする。生きている人間と変わらないようだが、死体はやっぱり死体で両者には壁がある。そして死んだ人間は生き返らない。

 この物語の中では生者は珍しい存在のようだ。人だけではなく町も動物も死んでいっている。町田市は死体のリス達によって町田リス園になろうとしていて、新宿では「あんたらまだ生きているのかい」と言われるほどだ。この世界では生者が異物のような感がある。

 東京死体ランドは死体の世界の一アミューズメント施設にすぎない。それを壊しに行ったところで何になるのだろう。東京死体ランドは死体しか入れないのに、彼らはどうやって中に入るのだろう。しかし、僕たちふたりは東京死体ランドに入って、ぶっ壊しにかかり、物語の最後に主人公の僕は愉快な体験をして、将来の幸せに思いを馳せる。

 この物語はハッピーエンドなのだろうか。ハッピーかどうかで言えばハッピーだろう。でもそこはかとない儚さもある。きっとリス園のリーダーなら前歯を剥き出しにして戦いを始めるだろう。リーダーが簡単に捕まってしまうぐらいだから、リス園のリスたちはきっと無力なのだろうけれど、彼らの存在はこの世界の慰めになるだろう。

東京死体ランド (隙間社電書)
伊藤なむあひ
隙間社
2018-09-03





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 群像の結果が出るのは来年なので、結果がどうであれ来年に小説を出せるようにしようと考えている。『幽霊になった私』ぐらいの長さを一年ぐらいかけて書くつもりなのでテーマもそれに見合う物にしようとしていて、現代の日本に突如出現した武士道を書こうとしていたが、ますらおぶり、たおやめぶり、という日本古来の言葉を知って、こっちの方が広がりがありそうだと方向転換したが、その二つを追っていると自然と大和魂(あるいは大和心)に行き当たった。 

 大和魂についての本を読むとよく明治天皇の句が引用されているので、まずはここに記しておく。


如何ならむ事に逢ひても撓まぬは我がしきしまの大和魂
(訳:どんなことがあってもワイの大和魂は折れへんのや!)
鉄の的射し人も有るものを貫き通せ大和魂
(訳:鉄の的でも射てまう人がおるから大和魂もいけるやろ!)
山を抜く人の力もしきしまの大和心ぞ基なるへ

(訳:山を抜いてまう人も大和心があるからできるんちゃうかな)


 どの句も三三七拍子で太鼓の音が聞こえてきそうだ。いかにも『大和魂』と聞いた時に浮かべる勇壮で、力がこもった印象を受ける。

 しかし明治から少し遡って幕末の吉田松陰だと弱くなっている。


身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置きまし大和魂
(訳:ワイは死んでも大和魂は不滅や、武蔵の野辺に残ったるで)
かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂
(訳:あかんと分かっとるんやけど止められんのが大和魂なんや)



 明治天皇の句と比べると負けることが前提で詠まれている。でも目標に対して一直線に突き進んでやろうという気概もある。

 さらにもうちょっと遡って本居宣長ぐらいになるとさらに弱くなる。


しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
(訳:大和心っていうんはな、朝日の中で香る山桜みたいなもんかな)


 ここまで来ると太鼓の音は消えて、スズメの鳴き声が聞こえてきそうだ。でも、すうっと息を吸えば肺の中が冷たくなるような清清しさがある。幕末からの大和魂にもそういうところはあるにはあるが、どこか鉄っぽいというか血なまぐさい清浄さで息の詰まる感じがする。実際、吉田松陰は身はたとひ~の後で息絶えるわけだし。

 と、ここまで大和魂、大和心の句を紹介してきたのだが、実はもうこれで終わりなのである。他にもあるかもしれないが、私の目と手の届く範囲にはこれぐらいしかなかった。大和魂というと古来からあるような概念っぽいが実は武士道より歴史は浅いのかもしれない。そう思っていたがwikipediaによると大和魂の初出は『源氏物語』だそうだ。どの帖に出るかも書いてあったが読む気がしないので、そのままにしている。
 ちなみに本居宣長は今でいう国語の先生で『源氏物語』の講義もしていたから、平安から江戸まで大和魂の空白期間があって、そこから本居宣長→吉田松陰→明治天皇の流れがあるのかもしれない。

 源氏物語は開かなかったが、その代わりに大和魂の『大和』に関する句なり歌を調べみると万葉集にいくつかあった。万葉集とは『源氏物語』よりも前に編纂された和歌集なので大和魂は出てこない。


大和には群れ山あれどとりよろぶ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は
(訳:大和には色んな山があるんやけどな。一番高い香具山に登ったら、広い平野にかまどの煙がいっぱいあってな、広い水面にはかもめがいっぱい飛んどってな、ホンマにええ国って思ったんよ by舒明天皇)

 何だか明るい感じがする。大和ってええやん的な。ちなみに大和とは大和政権があった奈良県が由来だが(諸説あり)、日本の国全体を指している。上の句で出てくるしきしまも奈良県にある場所だが、同じ使われ方だろう。

 万葉集の大和は明るくてほっこりする。次の句を見てみよう。


天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(訳:辺境の田舎の長い道を恋しくして来たら明石の門から大和島が見えたわ)


 遠くに行った人が遠いところから帰ってきて、明石の門から大和を見た喜びが詠われている。

 有名どころだとこういう物がある。反歌なので前の句も書いておく。ちなみに瑞穂も日本のことだとか。


葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
訳:瑞穂の国は神様がおるけん何もいわんでもええんやけど、ワイはいうてしまうわ、お幸せに。なんぼでもいうわ、お幸せに・・・・お幸せに・・・・・お幸せに・・・・・・

磯城島の大和の国は言霊の助ける国ぞま幸くありこそ
(訳:大和の国は言霊の助ける国や。それでええんや、あんがと。ええことあるとええな)


 万葉集の大和は英語で言うhappyと紐付いている印象がある。そこに心や魂が付くと悲壮な感じがする。

 大和魂とは剛健でありながら、血生臭く、意気軒昂としていたと思えば、早朝の空気が綺麗な時でしか感じられない曖昧な物であり、心や魂が抜けるとハッピーになるらしい。何だかよく分からなくなったところで、また明治に戻ってきた。夏目漱石の『吾輩は猫である』で苦沙弥先生が披露した短文でこういう物がある。

大和魂! と叫んで日本人が肺病病みのような咳をした
大和魂! と新聞屋がいう。
大和魂! とすりが言う。
大和魂が一躍して海を渡った。
英国で大和魂の演説をする。
独逸で大和魂の芝居をする
東郷大将が大和魂を有っている。
肴屋の銀さんも大和魂を有っている。
詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。
五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。
魂であるから常にふらふらとしている
誰も口にせぬ者はいないが、誰も見たものはない。
誰も聞いた事はあるが、誰も遭った者がない。
大和魂はそれ天狗の類か

(訳:大和魂ってよう分からん)


 大和魂とは、大和心とは。苦沙弥先生に分からないなら牛野小雪においてや。もうよそう。これっきり御免こうむる。大和魂は自然の力に任せて追い求めないことにした。

 本居宣長が日本文学の本質だと言っていたことだし、今は『もののあはれ』を追っている。まだ南無阿弥陀仏はしないつもりだ。

(2018年8月31日 牛野小雪 記)
なむあみだぶつ


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 3年前に群像新人文学賞に送ったことがある。その年は例年になく予選突破者がいたらしいのだが、私は箸にも棒にも引っかからなかった。電話番号を送り忘れたから一行も読まれずに落とされたのだと今でも思っている。というかそうであって欲しい。小説以外の部分で落とされたという方が自分が慰められるから。

 前回はこういうのを書けばいいんだろうという気持ちで書いたから、今度は逆に忖度しないで書くことにした。そうしたら本当に通りそうにない物ができたんだけど、落とせるものなら落としてみろという気持ちもある。締め切りまで時間はあるけど、今回はこれを思いっきりぶつけてみよう。

 今回意識したのは自由さだ。小説はどんな物でも書いていい。現実では手から落とした石は地面に落ちるが、小説では空に落ちてもいいし、壁が喋ったり、5+3が10の世界を書いてもいいのだとある時に気付いた。現実を追認するのではなく、現実にとらわれない小説。リアリティだとか、社会性だとか、時代をえぐるとか、究極的には文学的とか、そんなことからも離れた小説。間違いを踏み抜く気持ちで飛んでみよう。

(おわり 2018年8月8日 牛野小雪 記)


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 最近ブログの更新をしていないが実は6月11日から群像新人賞のリベンジに出すかもしれない小説をずっと書いていた。

 自分の中ではseason3の位置付けになるわけだし、今までと違う書き方をしようとして、書かない日を増やしてみることにした。理由はとても単純で、書かない日の次の日はどうもよく書けるような気がしていたからだ。→本当のピークはたった数日 執筆サイクルについて

6月11日からノートを書き始めて6月25日から執筆を始めた。執筆とは簡単に言えば小説の文章を書くこと。ノートを書くのも執筆の内に入るんだけど、いまいち『執筆』という感じがしない。何かいい言葉はないものだろうか。執筆は7月31日に終わった。35日で6万字。

 以下のグラフは執筆総字数の推移と、毎日の執筆字数のグラフ。
そう字数
字数
 今回は5日書いて2日書かないという体制で書いてみた。下のグラフで定期的に底を着いているのはそのため。
 
 1日書かないというのは以前試したことがあるが今回は2日もした。1日目はこういうものだろうと平気だったが、2日目はもしかしたらもう書けないんじゃないかと不安になって、危うく書いてしまいそうになることがあった。

 グラフを見ると執筆期の1日目は調子の良いことが分かる。1日目はいつも書けないんじゃないかと不安だったが手応えはあった。数字にもそれは出ていて、1日目の平均字数は3122、2日目は2863、3日目は2366、4日目は2514、5日目は2679となっている。1日目は明らかに書けていて、2日目もそこそこ、3日目以降は横並びという感じ。でも平均値なので、日々の字数で見ると書けたり書けなかったりしている。平均字数では3日目が一番悪いが、一日の最低字数を記録しているのは五日目で、二番目に悪いのは4日目だ。執筆期間が長ければ五日目が一番悪くなっていたかもしれない。

 手応えとしては断然に1日目が良かった。最後のところは1日目に書こうという気になるぐらい違いがあった。たぶん書かない日を作った方が執筆は良くなる。

 私が驚いたのは35日の執筆で一度も書けなかった日がないということだ。調子のいい時でも一ヶ月に3日か5日ぐらいは0字の日がある。書かない日はもちろん0字なのだが、書こうとした日に0字がないというのは初めてだ。

 今回の執筆はめちゃくちゃ書けたという日はないのだが、全然書けなかった日はなくて結果的に35日で6万字も書けた。執筆した日だけで見れば25日で6万字で今までないぐらいペースで書けている計算になる。

 前から薄々気付いていたが、やはり書かない日を増やすとたくさん書けるようになる。しかし車のギアを3速までしか使っていない気分がした。推敲していても、よく書けているようには思うが、深くて熱いところに潜ったという感じがない。山あり谷ありの執筆の壁にぶつかるような執筆じゃなかったからそう感じるのだろうか。
 
(おわり 2018年8月6日 牛野小雪 記)

『暴っちゃん』で味をしめたのか今度は芥川龍之介の『羅生門』をパロッた小説。

キモ金おじさん(元イケメンという設定だが)が主人公で、原作と同じように悪に身を落とそうかどうか煩悶しているということ(既に小悪党だけど)を下敷きにしているのだが、ここでもう少し踏み込んで悪に身を染めても救われないところまで書いている。羅生門ではまだ他に着物はあるし、老婆の抜いた髪もあるのに下人は老婆の着物だけを奪い、裸娼門ではギャルの下着や体がその辺に転がっているのにオッサンは老婆の下着だけを奪う。悪で身を立てるなら、もっと大きな収穫がすぐそばにあるのに小悪を犯しただけで舞台から消えてしまうのだ。ゆえに羅生門では下人の行方は知れないし、裸娼門でもオッサンは行方知らずとなってしまう。

ところどころにネットのネタが散見されて、最後は正義パンチの論考になるのだが、ここを中心のテーマに持ってくるとパロディ小説として一歩踏み込んだ内容となったのに、と書いている途中で、ふと下人もオッサンも最終的には悪に身を染めたのではなく、ただ単に老婆への正義パンチをかましただけではないかという疑念が湧いた。そして正義パンチをかましても老婆は生きているし、下人とオッサンは消える。

正義パンチは全方位へ向けられている。それは自分の心にも。自分で自分に正義パンチをすることによって、下人とオッサンは自分の中にある悪を消すのだが、それによって彼らは悪に身を染めても生き抜くという選択肢を潰してしまう。そう考えると『老婆はお前で、お前は老婆』という言葉が意味を持ってくる。老婆を否定するということは己の死に繋がっているのだ。

下人は羅生門を登り、オッサンは居酒屋のビルを見上げたように、悪の舞台は彼らより高い場所にある。悪は彼らより上回っていることが示されているのだが彼らは下界へ下りて老婆は最後まで上界に残っている。一見悪に染まったような下人とオッサンだが悪をぶん殴って正義に殉じていくようでもある。悪は命よりも上だが、それなら正義の下界で死ぬ方が良いという心意気だ。

この小説は単なる『羅生門』パロディ小説ではなく新しい解釈を提示した啓蒙小説だと言えるだろう。原作と同じように短い小説なので興味があればさっと読むのがおすすめ。


裸娼門
芥川龍之助平
2018-07-12
 昨今「正義とは何か」という論争が飛び交う中、本当の意味での正義を若者に考えさせる助平文学の原点として注目される予定であり、高校国語教科書に採用されるカオスな未来も遠からず予想される。

 物語の冒頭に材木にする丸太が使い果たされて、打ち捨てられたホートンズ・ベイという町の描写から始まる。ニックとマージョリーはそのホートンズ・ベイのそばにある湖をボートで釣りをしている。題名にある通り二人は別れようとしているのだ。

 
 別れる理由ははっきりしないがマージョリーがニックの何もかも知っていることだと示唆されている。始めもニックはマージョリーの知らないことを色々教えて、それを彼女が面白がっているのが嬉しかったのだろうが、どんどんネタ切れしてきて苦しくなったのではないだろうか。

 

 倦怠期の男女がそのまま別れるような短編だが、もう少しひねって読んでみるとマージョリーはニックのことを何でも知っているのに、ニックがマージョリーについて知っているのは彼女が何もかも知っているということだけに気付く。それ以外にマージョリーはどういう人間なのかは窺い知れない。

 

 実はマージョリーはどんな人間でもなく中身のない空っぽの女なのかもしれない。彼女の人となりを表す一文として“彼女は釣りが大好きなのだ。という文章が出てくるが、その後に“ニックと一緒に釣るのが大好きだった。”と付け加えられている。そういうことを意識して読んでいくとマージョリーの言うことなすことの中心にいつもニックがあるような気がしてくる。ニックありきの彼女に最初は面白かったのかもしれないが段々嫌気が差してくるというのはよくある話だ。

 

ホートンズ・ベイがニックとマージョリーの比喩だとするなら、10年前に丸太が使い果たされた打ち捨てられたホートンズ・ベイだが今は二番生え、つまり一度切られた木が伸びていることが書かれている。収穫する価値がないのか、収穫する術がないのかは分からないが収穫できる何かはあるのだ。

 

 最後の最後にビルという人物がやってきてニックにマージョリーと別れたか聞くのだがニックは不機嫌に彼を跳ね返す。そういうところを見るとニックにとって不本意な別れだったのかもしれない。でも今の彼にはそうするしかなかったのだろう。

(2018年7月1日 牛野小雪 記)


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